2004年黒いそばを食べに音威子府へ

音威子府といえば黒いそばの音威子府そば。
このそばを製造している畠山製麺が8月末をもって廃業するんだとか。

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そば殻も入れてかん水も練り込んだ独特の黒いそば。
このそばを提供するのは音威子府駅の駅そばである常盤軒が有名だった。
その常盤軒も2021年に店主の逝去のため閉店となっている。

もう一度この黒い音威子府そばを食べたかったなあ。
今月(2022年8月)に音威子府駅の常盤軒が2日間だけ復活したのだが、残念ながら仕事のために行けなかった。

袋入りの音威子府そばは、札幌市内のスーパーにも置いてあり、たまに買ってきて自分で茹でて音威子府の味を堪能したものだが、畠山製麺の廃業が決まってからは手に入らなくなった。

もう音威子府の黒いそばを食べることができないのか。
せめてもう一度だけ食べたかったな・・・

・・・おお、モグタンがいたではないか。
モグタンに頼んで過去にタイムスリップして、ありし日の音威子府駅のそばを食べてこよう。

でもモグタンが承知するかなあ・・・
あのアルコール依存症のカバ・・・いや、モグタンを丸め込むには酒しかないのか。

しょうがねえ、酒を引っ提げてモグタンの家へ。

「こんにちは〜、モグタ〜ン!」

「なんだい、またボクに用かい」
「ボクは誰にも会いたくないんだよ」

「まあそう言わないで、お酒持ってきたから、ほら」

お酒を見せるとモグタンの顔がほころんで、

「あ〜よく来たね、まあ上がって一杯いこうよ ♪」
現金なものだ。

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 酒を飲むモグタンのイメージ(撮影禁止のため筆者作成)

しばしモグタンと酒を酌み交わす。

「いや〜、つまみなしで酒ばかり飲んでたら腹が減ったね〜」
と私。

「そうかい?ボクはちっともだけど」

 〜こいつはアルコールでも養分にしてるのか・・・

「いや、でさ〜、一杯の〆にお蕎麦でも食べにいかないかな〜なんて」
「音威子府駅の駅そばなんて洒落てるんじゃない?」

「あんた本当に鉄道ネタが好きだねえ」
「そういえば昔ボクが人気者だった頃、ロンちゃんっておじさんがいて、その人も鉄道好きだったなあ」
「あんたロンちゃんのお友達?」

 〜知らねえよ・・・

「どうせモグタンは留守番でしょ、ちょっと蕎麦を食べに行ってくるからさ、タイムトラベルで過去に飛ばしてくれよ」

「しょうがないなあ、じゃあいくよ」

「クルクルバビンチョ・・・(以下略)」

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ここは2004年の旭川だよ〜〜〜!

おお、18年前の旭川駅か。
まだ2階建ての地平駅舎じゃないか、懐かしい〜。

音威子府のはずなのに何で旭川?
モグタンも焼きが回ったな。
ピンポイントで飛ばせなくなった。

まあいいや、ここから宗谷本線普通列車の旅を楽しむことにするか。

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ふっふっふ・・・
私は2022年から来た未来人だ。

一応未来人なんだけど、わかんねえだろうなあ・・・
そういやあ、前回も2004年に飛ばされたな。
モグタンは2004年に何か思い入れでもあるのだろうか。

リーマンショックも大津波も、原発メルトダウン、北朝鮮のミサイル開発、パンデミック、テロ、戦争、まだまだ先のことだなあ。

平和だなあ・・・

この時代はまだ中国は投資家にとってパラダイスだった時代。
でもこの十数年後、大きなリスクがのしかかることになる。
私が未来人としてアドバイスすることがあるとすれば、投資はやめておけ。

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それはともかく、18年前の旭川だよ

懐かしい。

駅前広場の向こうに見えるビルはアサヒビルではないか。

旭川ステーションデパートは既に閉店となっているが、アサヒビルデパートはまだ健在だった。
ここの1階は昭和の香りプンプン漂うデパートだった。
ちょっと覗いて、平成10年代に残っていた昭和の時代に浸ってみる。

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再び旭川駅に戻る。

この地平駅時代は小さいながらも待合室があって、大きな窓からホームが眺められた。
柱に掛かった電気時計も懐かしい。

こうした地平駅時代の小物は、高架駅開業となってからどうしたんだろう。
産業廃棄物として処分されてしまったのだろうか。

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名寄行きの改札が始まったのでホームへ。
改札側の地下道入口はエスカレーターが設置されて近代的になったが、反対側は昔のままの階段が残っていた。
いいねえ、欄干のタイル張りに古き良き時代を彷彿する。

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地下道を通ってホームへ。
この地下道もいかにも昭和の香り。

 ♪ どこかに故郷の香りを乗せて
  入る列車の懐かしさ〜
  (あゝ上野駅の出だし)

そんな唄も出そうな地下道。

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宗谷本線の列車はキハ40ばかりだった。
サボ受けには『マイタウン列車 かえで』の表示が。

この頃には市販の時刻表上で表示されることは無くなっていたが、サボには表示されていたんだね。

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『JNR』マーク付き扇風機が天井からぶら下がるキハ40車内。

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各駅停車で名寄に到着します。

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名寄駅の木造駅舎は現代の2022年でも変わらず健在。
でも今と違うのは、駅舎にJRの旅行商品の広告がベタベタ表示されていること。
駅舎ってのは格好の広告媒体でもあったわけだ。

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乗継時間でしばし待合室で休憩。
この頃の名寄駅は待合室の奥にキヨスクがあった。

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待合室とホーム側の壁にはかくのだて商会の駅そば屋があって、駅弁もここに置いていた。
それがすべてなくなり、すっかり殺風景になった2022年と違って、この頃はまだ温もりがあった。

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90年代の急行時代は、名寄で3〜5分の停車時間があり、停車中に乗客がこの売店に群がったものだが、2004年の今じゃ特急になっていて停車時間も僅か。
この売店の存在も薄くなっていたようだ。

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名寄からは宗谷北線のキハ54となります。
名寄駅2・3番ホームは木製の上屋がまだ健在。
老朽化が理由なのか、のちに取り壊されることとなる。

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0系新幹線お古の転換クロスシートが並ぶ車内。
この頃はまだクロスシートがメインだった。

この3年後に留萌本線秩父別駅にて、朝ラッシュ時に通学生積み残し事件が起こる。
あれ以来ロングシートが拡大され、今のロングシート主体の車内となった。

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音威子府駅に到着。
駅舎手前のバスは宗谷バス天北線の小石行き。
2022年の現代ではこの車両も過去のものとなったが、2004年当時は列車に接続して天北線のバスが駅前で待っていた。

さて、音威子府の蕎麦だ。

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駅舎に入って右手奥に常盤軒のそば屋があった。
この店は元々はホームにあったのだが、新しい駅舎に建て替えられたときに今の場所に引っ越してきた。

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先客のカップルが2人。
上にある『おしながき』は、

メニュー値段
かけそば320円
月見そば370円
天ぷらそば420円
天ぷら玉子そば470円
もちこみドンブリ50円

もちこみドンブリとは、車内持ち込みのための発泡スチロール製のドンブリ。
駅そばならではのアイテムだった。

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天ぷらそば(420円)
天ぷらはスーパーでも売っている市販のものだったのは残念。

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もう1杯行きますよ。
今度は正統派かけそば(320円)

そば殻とかん水を練り込んだ黒い麺、煮干しと昆布だしの意外とあっさりしたツユ。
癖のあるそばなので、意外とあっさりしたツユが合うのだった。

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色褪せたのれんとお土産用の箱詰めのそば。
そば店を横から撮影してみた。

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駅前の下見板張りの西野商店は音威子府駅前のランドマークだった。

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183系の特急『サロベツ』が音威子府駅で交換。

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再び名寄駅まで戻ってきました。
タイムトラベルしていると時空間が歪んでおかしくなるのか、さっき音威子府でそば2杯食べたばかりなのだが、もう腹が減ってきた。

名寄駅かくのだて商会の売店がまだ開いていて、カウンターを覗くと駅弁が2個だけ残っていた。
ラッキー!と駅弁をゲット。

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駅弁は『ニシン・カズノコ弁当』。
もう暗くなったので、キヨスクでビールも買った。

旭川行き普通列車に乗り込んだら、ここからは呑み鉄といこう。

ビールをプシュッと開ける。

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ビールぐびぐび・・・
さ〜て、まずはニシンの甘露煮からいこうか・・・

あ〜ん・・・

うわなにをする・・やめ・・・

気が付くと現代のモグタンの部屋だった。

いつまでボクを残して1人で遊んでるんだい

いまニシン・カズノコ弁当を食べようとしてたのに、むりやり戻すことないじゃあないか

音威子府の蕎麦を食べるためにタイムトラベルさせたんだよ
いつまでも向こうで遊んでたら超過料金はらわなきゃならないんだよ

え?タイムトラベルってお金かかるの?

あったり前だろ!
タダなわけないだろ!
支払いできるカードはボクしか持ってないので、かわりに払ってたんだよ!

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 激怒するモグタンのイメージ(撮影禁止のため筆者作成)

 〜知らなかった・・・

ボクが有名だったころは、テレビ局の経費で落ちていたんだけどね・・・
ああ・・・落ちぶれたもんだよなあ・・・
おねえさん元気かなあ・・・

窓から差し込む夕日を背に黄昏るモグタンを見て、元気出せよと肩を叩こうかと思ったが、モグタンには肩がなかった・・・

〜画像はすべて過去に筆者撮影です。  

posted by pupupukaya at 22/08/27 | Comment(0) | 架空の旅行記

2004年の富山駅と食パン電車

う〜ん、今年もお盆がやって来ましたな。

うちの会社もお盆休み。
いつからだったか、8月11日が山の日として祝日になってから、毎年妙に長いお盆休みを頂戴することになった。

だけど、お盆なんてどこへも行きませんよ。
乗り物や道路は帰省ラッシュで混んでるし、交通費も高くなるし、第一どこに行っても混んでいるし、わざわざお盆に旅行する気になんてならない。

しかし暑いなあ・・・

モグタン元気かなあ。
そういえば、もう1年以上会ってない。

そうだ、またモグタンに頼んでどこか涼しいところに連れて行ってもらおう。

こんにちは〜、モグタンいる〜?

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 相変わらず暗いモグタンの図(撮影禁止のため筆者作成)

・・・・・

返事がない。

モグ・・タン?

もしかして 〇んだ?
近づいてモグタンを見ると、テーブルに突っ伏して寝ていた。

ムニャムニャ・・・いつの間にか眠っていたよ
モグタンは目を覚ました。

ああ久しぶり、あんまり暑いんで朝からビール飲んじゃったよ
モグタンは悪びれもなく言った。

ボクは着ぐるみだから暑いのは苦手なんだ
・・・もしかしてモグタンって中に人が入ってる???

せっかく来たんだからまあ1杯飲んできなよ

そういってグラスにビールを注ごうとしたが、カラだった。

モグタンさあ、ビールなんてよしなよ、ねえどこか涼しいところへ連れて行ってよ
いやだよ、ボクはここでまたビール飲んでるよ

ねえ、ビール買ってきて

じゃあまたタイムトラベルに連れてって、そうしたら向こうでビール買ってきてあげるから
ホント?
ああ、涼しいところにたのむよ

それじゃあ、いくよ

「クルクルバビンチョ・・・(以下略)」

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ここは2004年の富山だよ〜〜!

おお涼しい〜
空気がヒヤヒヤ〜・・・って 寒いぞオイっ
一体いつだよここは・・・12月かよ、寒いわけだ。

涼しいところに行くって言ったから一応ウインドブレーカーを持ってきたけど、それを羽織ると何とかなった。

ふっふっふ、私は2022年から来た未来人だ。

この先18年後までに起こる出来事は何でも知っている。
経済危機、大災害、テロ、パンデミック・・・

疫病がまん延するわ、愚かな戦争は始めるわ・・・
いくら文明が進歩しようとも人類ってのは全く変わらないもので、情けない・・・

ふっふっふっふっふ・・・

2004年の平和ボケの諸君。
今、何に投資すれば一番儲かるのかを予言して進ぜよう。

そこのあなた、100%当たります。

金を買いなさい!

全財産全ツッパでいきなさい。
10年後には3倍に、18年後には5倍以上になります。

90年代は下落基調だった金の価格は、2000年以降上昇に転じている。
しかし、この2004年現在に3倍にも5倍にもなると豪語しても信じる人はいないだろうな。
頭がおかしくなった人だと思われるのがオチ。

それに、過去の時代で滅多なこと口走ったら未来が変わってしまうことは十分ありうる。
最悪帰るところがなくなってしまう可能性だってあるのだ。
だから過去人との接触は、できるだけ慎まなくてはならないのだ。

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2004年の富山駅はまだ地平駅だったんだね。
さらに駅舎と並行するように富山地鉄の路面電車が走っていて富山駅前の電停がある。
この路線も、2020年には富山港線(2006年から2020年までは富山ライトレール)と直通運転するようになるのだから大したものだ。

それにしても、マスクしないで歩けるのはありがたい。
マスクなしで街を歩くなんて何年ぶりだろう。
だけど、慣れないな。
口元を他人に見られるなんて何だか落ち着かない。
18年後の未来人が暮らす世の中なんて、こんな情けないものだと思い知った。

電停に発着する路面電車を眺めていたら乗ってみたくなったが、これは2022年に戻っても健在だしなあ。
そうだ、北陸線と言えばあの電車がまだ走っているんじゃないかな。
さっそくJRの富山駅へ。

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電車に乗る前にまずは腹ごしらえ。
駅2階にある『とやま駅特選館』の食堂で白えび丼(630円)を食べた。
白えびのかき揚げが甘辛いタレと絡んでおいしい。

切符を買ってまだ有人改札の改札口を通って古びた跨線橋を渡る。
この頃の富山駅はまだ地平駅で、富山港線もまだJRの路線だった。

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おお、いたいた懐かしの食パン電車

ゴッパーサンこと583系寝台電車からの改造で、三段式寝台を有していた高い天井と、昼間は寝台を畳んで昼行特急として運用されることから、少しでも重心を下げようと天井の二辺を削ったような六角形の車体断面が特徴。

そんな寝台電車だったが、新幹線の延伸により余剰となり、本来ならば在来線特急に振り向けられるべき車両であったのだが、ボックスシートは不評で他の交通機関との競争力が低下するとのことから、近郊型電車として改造されたものだ。

419系というのが正式な形式名称なのだが、六角形をした中間車の妻面に103系電車のような運転台を取り付けた独特の風貌から、『食パン電車』の異名を名乗ることになった。

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さっそく車内に入る。
向かい合わせボックスシートながらも、ゆったりとしたシートピッチ。
普通電車としては申し分ないが、これが特急列車に使われていた頃は窮屈だったろうな。

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ボックスシートとはいえ元特急型。
向かい合わせに座っても、ひざを突き合わせることもないほどゆったりとしている。
壁側の窪みは窓側席のひじ掛け。
通路側のひじ掛けには折り畳み式のテーブルを内蔵している。

遜色特急だが、せめて向かい合わせ以外の居住性は良くしようとした苦心が垣間見れる。

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天井両脇のでっぱりは、三段式寝台が折りたたまれている。
昼行特急として走っていた頃は、ここに夜行で使用する寝具も収納されていた。

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近郊型ということで、車端部はロングシート化されている。
ロングシート部分の寝台は撤去されて、キハ40形と同じ金網の網棚が設置されていた。

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狭い出入口2箇所ではラッシュ時の車内整理は大変だっただろう。
乗客を少しでも奥に詰めさせようと、ボックスシート部分の網棚に吊皮が設置されている。

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金沢駅に到着。
ホーム上に設けられた電光式の乗車口案内が懐かしい。

2004年12月、この当時は北陸新幹線、長野〜金沢間延伸工事がフル規格で決定した頃だ。
この頃の人たちからすれば、そんなのはまだまだ先の話。
北陸は在来線王国だった。

これからどうするかな。
このまま乗り継いで大阪まで行くか。
それとも富山に戻って、今は無きJR富山港線に乗って岩瀬浜まで往復してくるか。

う〜ん悩むなあ・・・

ホームのベンチで思案していると、どこからか声が聞こえた。

ビール、ビール、早くビール頼むよ

そうだった。
タイムトラベル先でビールを買ってモグタンに届ける約束だった。
すっかり忘れてた。

しょうがない、ホームのキヨスクでビールを買うか。
そう思って立ち上がった途端、

「うわなにをする くぁwせdrftgyふじこlp」

気が付くとまたモグタンの部屋にいた。

ビール、ビール、ずっと待ってたんだからね!
えっ、ビール?
買おうと思った途端にモグタンに呼び戻されたんじゃないか

ぬわに〜!ビール買って来なかったんか!!

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 激怒するモグタンのイメージ(撮影禁止のため筆者作成)

モグタン、ごめんよう・・
いまからちょっとビール買いに出てくるからさ、もちろん僕のおごりだよ・・
ホント!?よ〜し、今夜は徹底的にやろうよ

というわけでビールを買いに外に出た私であった。
やれやれ、今夜は朝帰りかなあ・・・(T T)

posted by pupupukaya at 22/08/13 | Comment(0) | 架空の旅行記

道北の無人駅を訪ねて2003年へ後編

6時00分、特急利尻は終点稚内に着いた。

稚内駅で初めて乗ってきた列車の編成を見たら、寝台車2両、お座敷車1両を含む7両編成。
自由席はガラガラだったが、ツアー客が多かったためかホームには多くの人が降りた。

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利尻からの下車客の多くは駅前のバスに乗り込んでいく。
利尻島礼文島へのフェリーターミナル行きのバス。

駅正面のバス停は、1日1本だけの路線。
夜行の利尻の客で満員になったバスは6時05分に発車して行くと急に駅は静かになった。。

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駅の裏側にレールの終端と『最北端の線路』の看板があって、ここで記念撮影する人が多い。
このレールと車止めは、現代の稚内駅前ではモニュメントとして残されているが、あれは元からあったものではなく移設したものだ。

新・稚内駅で使用されているホームは旧駅の1番線だったホーム。
2003年当時は島式ホームで、海側の2番線側にこの車止めが置かれていた。

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2003年の稚内駅はまだ旧駅だった。
鉄筋コンクリート2階建て、1960年代建築の駅舎はこのような駅舎が多い。

道内の駅を挙げれば、倶知安駅、滝川駅、留萌駅、みんな似たり寄ったり。
2階は事務所や詰所となっていた。

まだ天北線があった時代は、2階に上がる階段の横に『稚内車掌区』の看板が掲げてあったのを思い出した。

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待合室に戻ると『そば処宗谷』が営業している。

そばの匂いも懐かしい。
この駅舎も取り壊され、そば屋も閉店になると知っているのだが、それもまだずっと先の話。

「月見そばといなり1個ください」

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月見そば¥320、いなり¥50。

昆布だしが効いたツユ、そうだナルトが2枚乗るのがここのそばだった。
いなりもここの名物だったな。

このそば屋ができたのは1990年ごろじゃなかったかなあ。
2003年からすると、それほど古い店ではない。

1992年か93年頃だったか、この店のおばちゃんが、そばつゆの鍋に『ほんだし』の粉を袋からサーッと流し入れていたのを見たことがある。

この店のそばつゆの秘密をその時知ってしまった。
今だから30年の時を経て暴露させていただきます・・・

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さて、朝食のそばも食べたし、今度は抜海駅まで往復してこよう。

稚内6時38分発名寄行き普通列車に乗る。

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車内は鉄道ファンらしい2人(自分含め)だけ。
次の南稚内から豊富高校へ通う高校生が3人乗ってきた。

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列車は日本海を望む高台に差し掛かる。
晴れて日差しはきついのだが、利尻富士はうっすらとシルエットが見えるだけ。

この列車も徐行しないで通り過ぎてしまった。
観光シーズンならばともかく、普段はただの通学列車なのである。

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6時55分、抜海駅に到着。
降りたのは私1人、乗る人はいなかった。

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1980年代くらいならば、あちこちにどこにでもあった木造駅舎も、2003年ではすっかり少数派になってしまった。
抜海駅はその中の1つ。

駅前には人家が2軒あるだけ。
抜海の町は駅から約2km離れた漁港にあるので、駅前は最果て感漂う。

17年後の2020年には乗車人員が1日当たり1.4人、定期券の販売実績が毎年ゼロとして廃止に向けて動き出すが、当面稚内市が維持管理することが決定して、2021年でもとりあえず存続している。

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『ばっかい』って響きがいいよね。漢字で書くと抜海。
冬に夜行利尻で稚内に向かい、車内の曇った窓から抜海駅の文字を見ると、初めて来た人ならばまるで北極圏にでも来たような気分になるだろう。

この駅は正面側よりもホーム側の造りの方が味わいがある。

抜海駅は無人駅だが、冬になるとJRから委託された漁師の人たちが、除雪のために24時間交代で駅事務室に常駐するそうだ。

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今度は7時24分発の稚内行きで戻ることにしている。

発車時刻が近づくと自転車や親の送迎などで高校生が集まりだした。
この時代は稚内には高校が3校あって、稚内への通学生もまだまだ多かった。

今いる2003年は、抜海の漁村は2km離れたこの抜海駅が唯一の公共交通手段なのである。
抜海小中学校が閉校になって抜海にスクールバスが運行されるのはまだ先、そのバスの一般客利用乗車が始まるのもこの時代から10年後のこと。

この時代の抜海駅は、住民にとって貴重な駅なのだった。


遠くから踏切の音がして、やがて1両の列車が到着した。
5人の通学生と一緒に車内に入る。

車内は稚内へ通学する高校生ばかり。あとは若干の通勤客が混じる。
デッキは立つところがなく、次の南稚内までは通路で過ごした。

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7時36分、南稚内に着くとホームは高校生で一杯になった。
稚内市内の高校はすべて南稚内が最寄りになるので、数人の一般客を残してほぼ全員がここで降りる。

反対側の1番ホームは札幌行きスーパー宗谷2号の乗客数十人もいて、南稚内駅のホームはしばし朝ラッシュを迎える。

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私なんかから見ると2003年なんてついこの間のことだと思えてしまう。
しかし、この高校生たちは2021年に戻れば30代半ばの年齢になっているんだなあ。

18年前の朝、変わらない僕・・・・

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南稚内駅は地元の人は『みなみえき』と呼ぶ。
稚内市民にとっては稚内駅よりもこちら南駅の方が身近な存在だ。

まだ寒い日もあるのか、待合室には札幌ではとうに仕舞われたストーブがまだ鎮座していた。

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南稚内からは7時41分発の札幌行き特急スーパー宗谷2号に乗る。

札幌に戻るわけじゃなくて、せっかく天気もいいので豊富で降りてサロベツ原野を観光する。

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サロベツ原野の地平線からは利尻富士が浮かぶように見える。
一面に咲く花を期待したが、今年は霜で花がだめになってしまったそうだ。

豊富14時57分発の普通列車で今度は雄信内へ向かう。
着いた列車から降りる人は意外と多い。
稚内へ通院や買い物にといった感じの地元客ばかり。

入れ替わりに乗り込んだ車内はがら空きだった。

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15時13分、幌延着。
数少ない乗客も全員下車して車内は私1人になってしまった。

ここ幌延では58分も停車することになっている。

向かいの2番ホームは木造の立派な上屋が見える。
幌延と言えば、私などいまだに羽幌線の分岐駅というイメージだ。

昔1度だけ幌延から羽幌線に乗ったことがある。
もう使われていない3番ホームが羽幌線のホームだった。

その立派な上屋も、2021年に戻ると撤去されて吹きさらしのホームになっている。

16時11分、ようやく幌延を発車。
各駅停車で16時29分、雄信内に着いた。

降りるときに運転士が
「本当にここで降りるんですか?」
と言った。

たしかに旅行者風の人が降りる駅ではなさそうだ。

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雄信内(おのっぷない)駅はここも木造駅舎が残っている数少ない駅。
2021年に戻っても同じ駅舎が残っている。

抜海駅は最果て感漂う秘境のような趣があるが、こちら雄信内駅はどことなく人里の駅という感じがする。

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正面屋根の柱は斜めの二本の角材を組み合わせた凝った造り。
その上に2つ並んだ明り取り窓風の飾りもモダンな感じがする。

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時刻表を見ると普通列車は全列車停車するし、それなりの町があるんだなと思ってしまうけれど、2003年の駅前はごらんの通り廃屋が並ぶゴーストタウン。

軽トラが停まる元商店だけが人の気配がある。
それ以外の人家は屋根や壁が崩れ落ちて草生して、限界集落を通り越してゴーストタウンの様相だった。

雄信内の町は駅から2kmほど離れた天塩川の対岸の国道40号線沿いにある。
郵便局や小学校もあるそれなりの市街地だが、あちらの住所は天塩町オヌプナイ、郵便局の局名と川の名前は同じ雄信内と書いて『おのぶない』と読む。

それに対して駅のあるこちらは幌延町雄興(ゆうこう)。
鉄道が主役だった頃の駅前は集散地として発展したのだろうが、車社会の今となっては町と駅の自治体が違う中途半端な場所となってしまったようだ。

駅名だけが頑なに『おのっぷない』で通す。

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道路から崩れ落ちた廃墟を覗くと、やたらと生活感を残していた。
この家の住人は突然姿をくらましたかのようにも見える。

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1982(昭和57)年に閉校した旧幌延町立雄信内(おのぶない)小学校跡。
残るのは校門と体育館、それに記念碑だけ。

ゴーストタウンの駅前を歩いてまた駅に戻る。
こんな場所なのに駅だけは廃墟という感じがしない。

ここも抜海駅と同じようにJRから委託を受けて日夜管理する人がいるからだろう。

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戻りの列車までは駅待合室で過ごした。

出入り口や旧窓口の戸はアルミサッシになっているが、それ以外は基本的に昔のまま。
遠い大正時代にタイムスリップしてしまいそう。

静かだなあ。
この駅に降りてからまだ誰にも会っていない。

2003年のこの頃は、『秘境駅』という言葉はあったと思うけど、鉄道ファンやインターネットの中だけで使われている言葉だった。

のちの秘境駅ブームが来るのは、今いる2003年のずっと後のこと。
この頃の本当の秘境駅は秘境が故の利用者数の少なさから、誰はばかることなく廃止されている。

主なものを挙げれば、雄信内の隣の上雄信内駅は2001年、石勝線の楓駅は2004年、銭函〜朝里間にあった張碓駅は2006年に廃止されている。

秘境駅ブームが一般に浸透したのは2010年代になってからじゃなかっただろうか。
2010年代後半ともなると、こうした秘境駅をわざわざ訪れる人が増加する。

抜海駅なんて、駅舎で佇んでいると車やバイクで乗りつける人が次から次へとやってきて、とても落ち着かない。

反面困ったことになったのが鉄道事業者。
秘境駅が脚光を浴び有名になる一方で、人口減少で肝心の利用者は減るばかり。1日の利用者がゼロに近い駅も多くなってきた。

経営基盤の脆弱なJR北海道は、2020年代になると自治体に駅廃止を申し入れるようになる。

この頃になると、バス通学定期代の補助を出す自治体も多くなり、通学定期代が圧倒的に安価だった鉄道との差もさほどなくなってきた。

地元の利用者からすると、駅まで遠くて本数も少ない列車を利用するよりも、自宅近くから乗れて利用したい時間に合わせたダイヤのバスの方が便利に決まっている。

誰の目にも、それでは駅廃止も仕方がありませんねというところである。

ところが、秘境駅ブームの影響なのか、駅廃止に当たって思わぬところから反対運動が起こる。
そんな人たちの声を集めて、マスコミを筆頭にして声高々に廃止反対を訴え出した。

話は変わるが、『命は地球よりも重い』とか『戦争を許さない』などと、さも美しげなセリフをささやく人たちがいる。
本当に美しい言葉だし、そのどれもが現代の日本ではあたりまえの思想だ。
その言葉を出されたら、誰もが反論することはできない。

でもこれらを声高々にささやく人ほど、ではこれを守るためにどうするかという段になると、誰もが口をつぐむ。
秘境駅廃止を訴える人たちは、私の目にはそのような人たちと同じ種類の人たちに思えた。

本当に叫びたいのは、利用者がゼロに近いのに維持管理費に毎年多額の費用を計上しなければならない鉄道事業者だということだ。
冷静になって考えれば誰でもわかること。

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そろそろ稚内行き普通列車が来る時間だ。
遠くから踏切の音が聞こえてきた。

17時21発稚内行き普通列車。

私1人が乗るだけだと思っていたその列車から、なんと2人の高校生が降りてきた
おそらく中川商業高校の通学生だろう。

乗り込んだ列車の窓から見ていると、高校生たちは停めてあった自転車に乗って去って行った。
天塩川対岸の町から毎日通っているのだろう。

2003年の雄信内駅は日常の利用者がいたのだった。

2021年の現代に戻れば、もう日常的な利用者はいない。
JR北海道のデータでは、平成25年〜29年の雄信内駅の乗車人員は完璧に0人となっている。

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 雄信内駅の乗車人員(JR北海道宗谷線事業計画より引用)

廃止打診時に、利用しないからと地元住人からも見捨てられたようが、なぜか歴史的建造という理由で自治体の費用負担で存続することになった。

だからと言って駅を整備して観光地にするわけでもないようだ。
よそ者の反対運動や、駅が無くなると寂しいといった情緒だけが理由で存続が決まった駅。

費用負担を呑んでとりあえず廃止は先送りにしたものの、これからどうするつもりなんだろうか。
そりゃ秘境駅として訪れる人は後を絶たないが、その多くは車でやってきて写真を撮って駅ノートに記入するだけ。

そんな駅だけが残されたって、JRも自治体も1円にもならないわな。

遅かれ早かれ、存続問題はまたやってくる。
先送りにしたツケの代償は誰が払うのだろう。

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17時36分幌延着。

ここからは17時46分発スーパー宗谷4号で札幌へ戻る。

車内の席に着くと車内販売がやって来た。
やれありがたい。
稚内駅でそばを食べてからずっと何も口にしていなかった。

ワゴンを覗くと稚内駅の『かに弁当』しかなかった。
それとワンカップを買う。

弁当を食べてワンカップを飲み干したらあとは眠ってしまった。

そういえばモグタンへのお土産を買うのを忘れていたな。
まあいいや。昨日ブランデーをあげたので勘弁してくれるだろう。

現代の札幌に戻ればコロナの緊急事態宣言下。

そろそろリアルの旅行記を書きたい。
もうこんな イカサマの タイムトラベル旅行記も、これが最後にしたいものだ。

〜おわり

〜画像は2003年7月筆者撮影。

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道北の無人駅を訪ねて2003年へ前編

私は今週の金曜日は有給休暇になっていた。

4月に会社の年間スケジュールとして入れておいたもの。
あの頃は、まさか6月になって緊急事態宣言中とは思わなかった。

緊急事態なので旅行は自粛せいという世の中。
別に行ってもいいんだろうけど、世間様に後ろ指さされる思いまでして旅行したいとは思わない。

こんな時こそモグタンの出番。
またタイムトラベルをして、緊急事態もコロナウイルスも無い時代で旅に出てこよう。

「モグタンいる〜?」
「なんだい、今日はまだ木曜日だよ」

「じつは明日休暇なんだ、またタイムトラベルに連れてってよ」
「今日はだめだよ、ほか当たってちょうだい」

「あ〜あ、これモグタンにあげようと持ってきたんだけど、仕方ない帰って一人で飲むか・・・」

「待って待って!これは十勝ブランデー原酒じゃないか!」

「タイムトラベルさせてあげるから!
  出発は夜だろ?それまで付き合ってよ」

とモグタンは言った。

特急『利尻』で出発ならまだ4時間以上あるな。
それまで時間つぶしにモグタンに付き合ってもいいか・・・

私がモグタンと知り合ったのは最近というわけではないが、そう昔のことでもない。
しかしモグタンっていったい何者なんだろう。

昔はテレビに毎週のレギュラー出演していたこともあったらしいが、モグタンは昔のことはそれ以上話したがらなかった。

そんなモグタンだが、今日は酔うほどに口数が多くなった。

「ボクも昔は毎週テレビに出て全国の子供たちに大人気だったんだよーっ!」
「大人たちが子供に見せたい番組ナンバーワンなんて言われていたんだ」

〜ま、話半分に聞かないとな・・・

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 酔うほどに宙に浮かぶモグタンの図(撮影禁止のため筆者作成)

「へえへえ、すごかったんですね〜先生」

「ボクのコンビ役は美人のおねえさんだからね」
「どこかの薄汚い狸とメガネのコンビとは格が違うよ」

「ほうほう」
「ところで先生、そろそろタイムトラベルの時間ですが・・・」

「ん?もうそんな時間か」
「じゃあいくよ〜」

「クルクルバビンチョ・・・(以下略)」

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ここは2003年の札幌駅だよ〜〜っ!

平成15年。
18年前か。今とあんまり変わらないね。

ふっふっふ・・・私は2021年から来た未来人だ。

この年は何かあったっけ。
阪神タイガースがリーグ優勝した年か。
それくらいしか思い浮かばないなあ。

道内夜行列車全廃、ローカル線の廃止、相次いだ事故による減速減便ダイヤ、北海道新幹線開業・・・
どれもまだ先の出来事だしなあ。

2ちゃんねるに書き込んだって、この時代の人たちから『ソースだせやゴルァ』と返信されるのがオチだ。

さて、現在時刻は22時30分少し前。網走行『オホーツク9号』が出たばかり。
このあとの夜行は23:00発『まりも』か、23:02発『利尻』の2択。

どっちにしようかなあ・・・
また『利尻』にした。

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懐かしい特急『利尻』。
急行時代のキハ400形時代の『利尻』はよく乗ったけど、特急になってからは数えるほどしか乗っていない。

『利尻』と聞くと、急行時代の狭い座席や、たまに増結になる木の床で青いボックスシートを思い出す。
ところが、キハ400形時代の写真は1枚も持っていない。

あの当時は、あまりにも当たり前すぎて写真を撮る気にもならなかったのだった。
それに、狭いリクライニングシートや固いボックスシートにもたれながら、14系時代の方が良かったな〜なんて思っていた。

札幌発は23時02分
あいにく指定券や寝台券を用意する時間がなかったので今回は自由席だ。

自由席は混んでるねえ。
とは言っても、ほとんどが岩見沢か滝川あたりまでの客だ。旭川を発車すればがら空きになる。
この自由席の多くの人にとって『利尻』は『スーパーホワイトアロー』や『ライラック』の最終列車に過ぎない。

通路側の席しか空いていなかったので相席させてもらう。

乗客の姿格好は2021年とそう変わるものではないが、のちにスマホと呼ばれる手のひらサイズの板を見つめている人はいない。
みな手にしているのは、後にガラケーと呼ばれることになる2つ折りの携帯電話。

新聞を広げている人もチラホラ。
そうか、この頃は車内での読み物と言えば新聞だったんだな。

スマホ全盛の2021年では車内でこんなもの読む人はいない。
2030年にもなる頃には、新聞のようなアナログで原始的なメディアなど消滅していることだろう。

どこにいても常時インターネットに接続できるようになるとは、この2003年の人たちは思ってもいない時代。

PCですら家庭も企業もようやく普及した頃だし、ホームページ上に画像をたくさん貼ると閲覧者たちからブーイングを食らう時代だった。
回線もスペックも大量の画像を読み込むことに追い付いていなかったのだ。

江別の次の岩見沢で窓側の隣人は席を立った。
やれやれ、一杯始めるか。

美唄、砂川と降りる人ばかり。
0時15分発の滝川を出るころには札幌を出た時の半分くらいの乗客数になっていた。

ここで車内放送で予告していた通り減光となる。
蛍光灯の明かりは消されて代わりに小電球が灯る。
手元は暗くなるが、その代わり車窓の夜景はよく見えるようになる。

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流れる夜景を見ながらお酒をチビチビ。
窓かまちに頬杖をついて色々考え事をしていたらだんだん眠くなってきた。

鞄と肘掛けを枕にして横になる。

ZZZ・・・・


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2000年の岩見沢の小もろへ行く

緊急事態宣言が6月20日まで延長されてしまった。
週末だからと言って、どこかへ出かけるわけにもまだいかないね。

今日は土曜日。
またモグタンにお願いしてタイムトラベルしてこよう。

夜行列車で道東の方へ行きたいな〜。
6月になって、いい季節だろうな〜。

しかし、こう毎週だとモグタンも怒るかな。

モグタンの家へ行くと相変わら暗いモグタンがいた。

「モグタン、またタイムトラベルに連れてってよ」

面倒くさそうにモグタンは言った。
「なんで毎週毎週ボクなんだ、ほかに頼む人いないの?」

「だって、ド〇えもんは毎週土曜日は仕事みたいだし・・・」


「なに〜!ドラ〇も〜〜〜〜〜ん!?」
「あのクソ狸まだ生きとったんか〜〜〜〜っ!」

モグタンは突然凄い剣幕で叫び出した。

あんなの青狸がメガネの低能とつるんで悪いことばっかりしている番組じゃないか〜!!

ボクのは土曜日の人気者で、しかも教養が身に付く番組だってみんなに褒められてたんだよ〜!

そのボクが打ち切りで、なんであいつらが今でも続いてるんだ(怒 

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 怒るモグタンのイメージ(撮影禁止のため筆者作成)

世の中間違ってる〜〜〜!
もうみんな〇んでしまえ〜〜〜!

 〜どうやらモグタンの前でド〇えもんはNGワードのようだ・・・

「悪かったよモグタン・・・
 ド〇えもんなんてずるいだけだよ、モグタンが1番だよ」

「ホント?」
「ああ本当さ」

「ああそうだ、これモグタンに持ってきたんだよ」

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「おお〜竹鶴ピュアモルトじゃないか ♪
 いいのかい?こんな高いもの」

「いいんだよ、いつもモグタンにはお世話になっているからね
 だからさ、これで機嫌直しておくれよ」

 〜ちっ、夜行列車でこいつをチビチビ飲ろうと奮発したのに・・・

「よ〜しわかった、じゃあ一杯やろうよ」
「えっ、これからタイムトラベルに行くんだけど・・・」

「じゃあ帰ってきたら一杯やろうよ」
「分かったよ、戻ってきたら必ずここへ寄るよ」


「クルクルバビンチョ・・・(以下略)」

「早く帰ってきてね」
 〜どこからかそんな声が聞こえた・・・

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ここは2000年の岩見沢だよ〜〜!

元号で言えば平成12年。

21年前か。
懐かしいなあ、岩見沢駅の木造駅舎。
段の付いたギャンブレル屋根(腰折れ屋根)を正面に出した特徴のある駅舎をまた見ることができるとは。


ふっふっふっふ・・・
私は2021年から来た未来人だ。

私は予言する。
岩見沢駅舎は半年後に天井裏の漏電が原因で焼失する。

だけど、これを誰に伝えればいいんだ?

いきなり駅事務室に駆け込んで、

〜半年後の漏電に気を付けるんだ。
〜天井裏だぞ、さもないとこの駅舎は全焼するぞ。

なんて言ったら間違いなく即110番通報されちゃうよ。

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しかし懐かしい。
この頃の岩見沢中心部は、4条通りに西友、ラルズプラザ(旧金市舘)、三番館があってにぎやかだった。

駅向かいにあった3階建ての駅前ビルもある。
駅前から4条通りまで歩道はアーケードが続いていた。

時計を見ると、もうすぐ昼時。
腹が減ったなあ。

そうだ、この時代にあった『小もろ』へ行こう。

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小もろは岩見沢駅前にあったそば屋。

カウンターには椅子も並んでいたが、前金制ということと、茹で麺を湯がいて出すという調理システムから立ち食いそばというジャンルに分類される店だ。

外の看板にも『立喰小もろそば店』とあるし、カウンター席後ろの壁には立ち食い用の高いテーブルもある。

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店に入り、カウンターの席に座るが店の親父は気が付いてくれない。

恐る恐る、
「すみませ〜ん」

ああ・・気づいてくれた。

何にするかな。
ここはどういうわけか、かけ、月見、きつね、天ぷら、そばの値段が全部270円均一という変わった店。

値段がどれも同じなので、かえって迷ってしまう。
あまり迷っている時間はない。

「天ぷらそばとげそ丼をください」

親父は返事もなく手慣れた手つきでそばを湯がき、隣のおかみさんに「おい、ゲソ」と言った。

ほどなく天ぷらそばとげそ丼を、これも声もなくトンと置かれ、

「600円」
とぶっきらぼうに親父は言った。

財布を見ると、ゲッ・・・万券しかない(汗
仕方ない、おそるおそる万券を出す。

親父が一瞬睨んだと思ったら、万券を持って奥へいってしまった。

ああ・・やっちまった(涙・・・

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天ぷらそば(270円)、げそ丼(330円)

ダブル天ぷらということに今気が付いた。
これはくどすぎたな・・・

まずは天ぷらそばから。

汁は甘辛い醤油の濃い汁。それに太めの二八そば。
天ぷらは具無しで小麦粉だけのかき揚げだけど、汁につかるとふやけてモロモロになる。

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げそ丼は作り置きで衣はべチャッとしているが、基本立ち食いそばなので仕方ない。
ちょっとふんわりした衣をまとったイカゲソの天ぷらに甘辛いタレがかかる。

黄色いタクアン2枚がアクセント。
タレが不足気味なので、しばしタクアンのお世話になる。

食べていると親父が戻ってきて、カウンターにお釣りの9,400円を置いた。
店のお釣りが足りないので、お金を崩してきてくれたんだね。

食べ終わって、丼を重ねて上のカウンターへ置き店を出る。

「ごちそーさん」

親父は無言だった・・・

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何だか馬鹿に疲れたな〜。
小もろは好きだけど、ここの親父はどうも苦手だな。

この店も後年は親父も愛想良くなったが、この頃の小もろと言えばこんな感じだった。


 ♪ ドレミファそ〇ち信用金庫 ♪

なんだか耳について離れなくなった・・・

店を出て駅前通りの方へ回ると、おお懐かしい天狗まんじゅう

天狗まんじゅうは2021年の今では駐車場付きの新築店舗で営業中だが、この頃はアーケード付きの駅前ビルで営業していた。

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2021年の店はイートインコーナーもあるが、2000年の店は販売だけだった。

「え〜と、天狗まんじゅうと草まんじゅうと・・あっバナナまんじゅうください」

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バナナまんじゅうはバナナの香り。

天狗まんじゅうを食べながら時刻表を開いて2000年旅行の乗り継ぎ計画を立てる。

岩見沢22:58発の『オホーツク9号』で網走まで行って、そこから・・・
いやまてよ、追分へ出て『おおぞら13号』で釧路まで行こうか。

夜行列車を利用した乗り継ぎを色々検討していたら、とつぜん後ろから強く引っ張られた。

うわなにをするやめ・・・・・

気づくと現代のモグタンの部屋だった。

「いきなり何をするんだよモグタン」
「いつまで遊んでるんだよ、早く戻る約束じゃないか」

 〜そんな約束はしてないぞ・・・・

「さあ、竹鶴ピュアモルトで一杯やろうよ ♪」
「わかったよモグタン・・・」

コップを差し出すと、モグタンは勢いよく一気に注ぎ出した。

「高い酒なんだから、そんなドボドボ注ぐなよ」
「ケチ臭いこと言うなよ、景気よくいこうぜ」

時計を見ると午後5時を少し回ったところ。
そうか、ド〇えもんの時間か。

しょうがない、今夜はモグタンのヤケ酒に付き合うことにしよう。

〜おわり

〜画像はすべて過去に筆者撮影です。
〜2000年のイメージで・・・

posted by pupupukaya at 21/06/05 | Comment(0) | 架空の旅行記

2004年の小樽・手宮を歩いてみる

今週末は雨模様だし、また寒くなっちゃったね。
晴れていたって、道内は新型コロナの緊急事態宣言中ということで、旅行などできるはずもなく。

札幌ナンバーの車で他所を走っていて、石をぶつけられるのも嫌だしね。

先週はモグタンにお願いしてタイムトラベルをしてきた。
今週もまたタイムトラベルしようと思う。

土曜日、またモグタンの家を訪れた。

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 暗いモグタンの図(撮影不可のためイメージを作成)

相変わらずだなあ。
モグタン・・・

「モグタン、なんでいつもそう暗いんだい」

そう尋ねるとモグタンは、

「だってボクはもう36年間も出番がないんだ・・・」
「ボクなんてみんなから忘れられちゃったんだ・・・」
「グスン・・・お姉さんは今頃どうしているんだろ・・・」

暗いなあ・・・

「ねえモグタン、またタイムトラベルに連れてってよ」
「いいよ、だけどまた1人で行ってね」
「モグタンも行こうよ」

「ボクはこんな無様な姿になってしまって、人前になんて出たくないよ・・・」

しょうがないな・・・

「先週は泊りで行ったからさ、今度は日帰りでどこかへ連れてって」
「ああ、いいよ」

モグタンは力なく返事をした。

「それじゃあ、いくよ」
「クルクルバビンチョ・・・(以下略)」

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ここは2004年の小樽だよ〜!

17年前に飛ばしてくれたか。
元号で言えば平成16年。

週末の小樽駅は観光客で混雑している。
当たり前だけどほとんどが日本人。
あと10年もしたら某国人で埋め尽くされるようになるなんて誰が想像しただろう。

ふっふっふ、私はパンデミックの2021年から来た未来人。
平成の次の元号は令和なのだよ。

駅前を歩いている人たちに言いふらしたくなったが、

ねえ、平成の次の元号は令和なんですって

こんなこと口走った日にゃ、確実に頭がおかしい人認定だ。

2ちゃんねるに書き込みしたくなったが、あいにく2021年のスマホは2004年のネットには繋がらない。
まったく情けない未来人だ。

スマホを手にしていると2004年の人が、変わったものを持っているねという風にのぞき込んだ。

これはいけない!
とっさに、

「ぷ、プレイステーションポータブル※の試作品でして・・・」

 ※ プレイステイションポータブルは2004年12月発売

マウントを取るのはこれくらいにして、この頃の小樽でちょっと行ってみたい町があるのでそこへ行ってみることにした。

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小樽駅から手宮までやって来た。
その行きたいところとは、錦町の能島通り十間坂

住所は錦町だが、ここは北海道で最初に鉄道が開通した手宮の駅前だった町。
商店街の街路灯に『手宮駅前通会』の文字を見ることができる。

2021年の現代では、古い建物は大方取り壊されて空き地や駐車場ばかり目立つが、2004年に来るとまだ古い商店街が残っているのだった。

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まずは手宮幼稚園裏の高台に登ってみた。
能島通りと旧タヌキ小路の十字路に富士の湯、一番奥に小樽交通記念館が見える。

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能島通りの手宮側から歩いてみよう。
由来は、北前船の船主だった能島家からきていて、地主の能島家が明治初期に私有地を道路として提供したことから能島通りと呼ばれるようになったそうだ。

2004年の今でもとうに寂れてしまっているが、かつてはこの能島通りが手宮一の繁華街だった。

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富士の湯の前で交差する道は、昔はタヌキ小路と呼ばれ遊郭が並ぶ赤線地帯だったという。
富士の湯向かいの調剤薬局や美容室が入居する木造建築は往時の建物だという。

2階の窓に往時の面影を残す。

札幌でも菊水に遊郭があり、戦後も1970年代までは当時の建物が残っていたというが、今菊水に行っても往時の建物は無い。
そんな建物が2004年でも現役で残っているのはさすが小樽。

2021年に戻ればここは空き地になってしまっている。
所有者がいるので仕方がないとわかっているが、惜しいことをしたものだ。

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ここは旧タヌキ小路に面する富士の湯の裏側。開業当初の大正時代の造りだろう。
能島通り側は今風にリフォームされているが、裏側は大正時代当時を思わせる形で残っていた。

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なんとまあ、凝った造りの窓。
これが大正モダニズムなのか。当時の建築を今に伝える。

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昔からすればすっかり寂れてしまったのだろうが、2004年の今はそれなりに商店街は保っていたんだね。

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この通りで異彩を放つのは『金魚・本』と書かれた赤い看板。
店の中は金魚の水槽と本棚が同居していた。

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本を買いに来たついでに金魚も買おうかなという人は便利な店だ。
何だか可笑しくて何枚も写真を撮ってしまった。

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能島通りは手宮仲通りからは幅が10間(約18m)になって十間通りとなる。
奥に見える坂が十間坂。

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軟石造りが異彩を放つ肉屋さん。
火事から品物を守るために、軟石造りは倉庫が多い。
ここの建物は元は何屋さんだったのだろう。

2021年に戻ればここは草ぼうぼうの空き地になっている。

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庇の上に『もち』と鏡餅をあしらった看板を掲げる竹屋穴田餅店。
小樽は餅屋さんが多い。この能島通りにももう1軒餅屋があった。

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う〜ん、50年も前にタイムスリップしたかのような眺め。
錦会館向かいの路地からちょっと撮らせてもらった。

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手宮仲通りにある手宮市場裏の通りは八百屋が並んでいて、露店の市場のような趣もある。
こういう所が小樽らしいなあと思う。

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十間坂の上から能島通り方向を見下ろす。
ここからの眺めを見ていると、小林多喜二文学碑にある一節を思い出す。

“階段のように山にせり上がっている街を、ぼくはどんなに愛しているか分からない”

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十軒坂を下ってきて旧手宮線跡に向かう途中振り返ると、時が止まったような風景がそこにあった。
ここも赤線だったのだろうか。

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今度は手宮仲通りにある旧手宮線の踏切へ。
ここから旧手宮線の線路跡を歩いて小樽駅の方へ戻ることにした。

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途中で線路が草に埋もれてしまったところもあったが、線路はたまに草刈りされているらしく、芝生の道のようで心地よい歩きだった。

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臨港線に出る1つ手前にある人道の踏切跡。
『止まれ見よ』の看板に、警報機も遮断機もない第4種踏切とわかる。

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町中に残る手宮線の線路。

このあたりから来るとだんだん車が目立つようになった。
右側の車が駐車してある空間は複線時代の名残り。

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廃止になっても撤去されず放置されている線路跡は、駐車場代わりにされているのだった。
こういう所もなんだか小樽らしい気もする。

手宮線跡地の散策路が完成したのは2016年。
この頃はただ放置されるがままという感じだった。

一時はライトレールとして鉄道を復活させるなんて話もあったようだが、実現することなかった。
手宮線跡地の散策路として線路は残されることとなった。

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最後に柳川通りにある『なると』へ寄る。
小樽へ行ったらやはりここでしょ。

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若鶏時代なると本店で食べた若鶏定食はランチタイムで1000円。

えっ?夏目漱石の千円札で払ったのかって?
ダンナ、そういう突っ込みはナシですよ (^^;

ちなみに今の野口英世の千円札が発行されるのは2004年の11月。

さてそろそろモグタンが待つ2021年に戻らなくてはならない。
今日は短いタイムトラベルだった。

なお2021年の小樽市は、目下(もっか)新型コロナ緊急事態宣言中でございます。
2004年の手宮・能島通りが現代どうなったか見たければ、googleストリートビューでどうぞ。

〜おわり

〜画像は2004年11月、筆者撮影です。

つづきを読む
posted by pupupukaya at 21/05/30 | Comment(0) | 架空の旅行記

急行利尻で稚内へ

だいたい週末が近づくと、土日はどこかへ行こうかなあと考える。
夜行列車があった頃は金曜発の夜行で出かけることもあった。

札幌発の夜行列車もなくなり、金曜の夜に出発したければ車でということになる。

しかし2021年5月の北海道は今、新型コロナの 絶賛緊急事態宣言中
旅行好きには本当に参りましたね、こりゃ。

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このあいだ実家に行ったら道内時刻表の1988年6月号を見つけた。
もう33年前。私が高校生の頃、夏休みに北海道フリーきっぷで道内旅行をしようと、その計画のために買ったもの。

久しぶりに読んでみると、この頃は鉄道がまだ元気だったんだなあと思い出す。

そうだ、1988年にタイムスリップすればいいじゃないか。
あの頃ならば夜行列車もあるし、もちろん緊急事態宣言なんてあるはずもない平和な日本。

「クルクルバビンチョ(以下略)

タイムスリップの方法は秘密ですが、とにかく1988年6月にやってきました。
モグタンにお前1人で行けと言われたので1人で来ました( ^ω^)・・・

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 道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用

ここは昭和63年の札幌だよー!

期限は24時間。
明日の21時までに2021年の札幌に戻らなくてはならない約束。

それでは昭和63年6月の金曜日の夜、急行『利尻』で稚内に行ってみよう。

急行『利尻』は札幌駅を21:57に出発して、稚内には翌朝6:00に到着する夜行列車。

時刻表を見ると、函館本線下り最終ページに、21:57発急行『利尻』と22:50発の急行『大雪』が並んでいる。
特急は札幌21:00発ライラック27号が最終。

『利尻』と『大雪』は、札幌〜旭川間の最終列車の役割もあるのだとわかる。

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 道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用

夜9時半頃ようやく札幌駅に着いた。
まだ高架駅になる前、地平駅の札幌駅。

みどりの窓口で切符を買う。今日は奮発してB寝台券も買った。

地下改札口の前はこんな時間でも人が多い。
週末ということと、この時代は稀に見る好景気ということで、夜遅くまで残業したり飲んだりする人が多いのだろう。

 “24時間戦えますか”

ここは昭和63年かあ。
人々の顔つきを見ていると、本当に平和と好景気を謳歌しているんだなと思える。

ふっふっふ・・・・
私は33年後の2021年から来た未来人だ。

これから起こる出来事は何でも知ってるんだぞ。
この大型好景気が突然終わること、北海道で1番の銀行の破綻、それから10年は日本経済は苦しむこと、大地震、大津波、パンデミック、テロ。

何でも知ってるんだぞ!

だからと言って、私が未来人だと人々に伝えるのはなかなか難しい。

昨今はインターネット掲示板に私のようなタイムトラベラーが出没するようだ。

が、ここは昭和63年
ここには携帯もパソコンも無けりゃインターネットも無い。

例えば、そこらの通行人をつかまえて、

あなた、今の好景気は再来年で終わって拓銀も潰れますよ」とか
来年の元号は平成です

なんて言っても頭がおかしい人と思われるのがオチ。

それと、私は賭け事は一切やらないので、競馬はどの馬を買えば当たるか聞かれてもわからないので答えられません。

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とにかく昭和63年の札幌駅である。

改札口前では改札係がカチカチとパンチを鳴らす音が心地よい。
私も改札口でパンチを入れてもらって地下道へ。

ピカピカの地下鉄さっぽろ駅から地下街を通ってJR札幌駅に向かうと、だんだん煤けた雰囲気になるのが何となく旅情があって好きだなあ。
改札口からホームへ向かうこの地下道も相当煤けている。

国鉄からJRになったとき、多くの駅で始めたのが駅舎のリフォームだった。
函館駅や旭川駅も改装されて明るく清潔になったが、札幌駅だけは国鉄時代のままだった。

その理由は、この半年後に行われる高架開業。そっちに移転するのが決まっているからだ。
9番ホームの北側は、高架になる“新”札幌駅がもう姿を見せている。

地下道から階段を登って6番ホームへ。
急行『利尻』は既に入線してブルーに白線2本の車体が発車を待っていた。

ホームは14系客車の発電ディーゼルエンジンの音が響く。
いいなあ、いかにもこれから旅立つという思いが強くなる。
遠い旅に出るキャラバン隊がこれから出発するような情景が目に浮かぶ。

だからといって、ディーゼルエンジン付きの客車に乗るのは嫌だけど。
頭に『スハフ』の3文字が付く車番のやつね。

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下り『利尻』の編成はB寝台車が2両、座席車が3両の5両編成。
だけどこの日は座席車が1両増結されて6両編成となっていた。
稚内までの夜行列車だが、旭川までの途中駅で降りる人が多いからだろう。

自由席の方は混んでいるようだが、こちら寝台車は静かだ。
2両のB寝台は下段がさらりと埋まるほどの乗車率。

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  道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用

寝台に荷物を置いたらホームのキヨスクに酒とつまみを仕入れに行く。
ワゴンを置いて駅弁の立売もあったが、買おうかどうしようか迷ったが買わなかった。
夕食はもう済ませてあるし。

もし何か欲しくなっても、途中の旭川での停車中にまた買い物ができるのだった。

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通路の折り畳み腰掛に座って発車を待つ。

寝台車の客は、もう10時になるからなのか、寝具をセットして着替えて寝支度の人が多い。
私は腰かけてしばらくここで1杯やらせてもらう。

ほどなく発車ベル。
ウィウィウィウィ〜といった高い電子音が特徴の発車ベル。
昔はジリジリジリジリ〜と鳴った本当のベルだったが、電子音に変わったのはいつごろからだったかな。

ベルが止むと手笛の音。続いて出発指示のブザーが「ブー」と鳴る。
出発指示がベルのホームとブザーのホームがあるのだった。

ガタンと軽い衝撃があって発車する。

発車する頃には、寝台車の乗客は自分の寝台に引っ込んでしまい、私のように起きている人は数えるほどだった。

車内放送のチャイムはハイケンスのセレナーデ。

「皆様おばんでございます、今日もJR北海道をご利用いただきましてありがとうございます」
いきなり北海道弁で始まった車内放送は、この列車の編成の案内が終わると、

「寝台車はこの放送をもちまして、座席車は旭川到着を最後に南稚内到着20分前までの放送を中断させていただきます」
「また車内も減光させていただきます」
「途中駅でお降りの方はお乗り過ごしのないようご注意ください」
「それでは途中停まる駅と到着時刻のご案内をいたします」
「江別22時16分、江別22時16分、続きまして・・・」

全ての停車駅の到着時刻を2回続けて言うのだった。
そんな車内放送が終わるころにはもう白石駅を通過するところだった。

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22:32、岩見沢着。
前の方の車両から大勢の人が降りるのが見えた。
美唄、砂川と停まるごとに座席車からは多くの人が降りる。

あの人たちからすれば、夜行列車というより最終の帰宅列車といったところだろう。

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滝川を過ぎた頃には、混んでいた自由席もだいぶ落ち着いたようだ。
座席を向かい合わせにして横になっているのは稚内まで行く人達だろう。
もうこの先乗ってくる人も少ないと知っているのだ。

23:59、旭川駅1番ホーム着。
ここで21分停車する。
札幌からけん引してきた電気機関車のED76からディーゼル機関車のDD51に付け替えるためだ。

私はちょっと飲み足りないので、停車中にお酒を仕入れてこよう。
改札口で切符を見せて「買い物したいので」と言って一旦出させてもらう。
コンコースにあるキヨスクはまだ営業中だ。

このあとは1:15発急行『大雪』、その次は札幌行急行『利尻』が3:19に到着するので、旭川駅は24時間開放していた。

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キヨスクでお酒を買ってホームに戻る。
ホームには駅弁の立売が出ていた。

ちょっと寄って覗いてみたら寿司しかない。
販売員が「どうですか」と勧めてきたが、この時間に寿司をつまむ気もしないので軽くことわって車内に戻る。

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旭川からは宗谷本線だ。
0:20、機関車のピーという汽笛が聞こえて発車する。
しばらくは旭川市内の高架線を進む。

お酒をもう1本開けて横になったらいつの間にか眠ってしまった。
昔は夜行列車に乗ると眠れなくて困ったものだが、今はこうしてお酒を飲んで横になったら気持ちよく眠れるようになった。

  ★  ★

思えば私が初めて1人で夜行列車に乗ったのが中学2年の時。
あの時も急行『利尻』だった。

初めて夜行列車に乗って、まだ行ったことのない稚内を目指すということにとてもワクワクしていた。
この次は名寄で26分、音威子府で15分の長停車がある。

あの時はその度にホームに降りて外をウロウロしていた。
その晩は結局一睡もしていなかったんじゃなかろうか。

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 道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用

気づくと窓の外が明るくなっている。
時計を見たら5時少し前。
幌延と豊富の間くらいを走っている。

今日は良い天気だなあ。
地平線の向こうに利尻富士がくっきりと見える。

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また通路の腰掛に座ってどこまでもついてくる利尻富士を眺めた。

5:35、昨夜のお約束の車内放送が流れる。
ハイケンスのチャイムが2回流れ、

「皆様おはようございます、列車は只今定刻で運転しております」
「あと20分で南稚内到着でございます、どなた様もそろそろお起きになりましてお仕度をお願いいたします」

寝台車の客もぼちぼち起き出してきた。

「ただいま抜海駅を定刻に通過いたしました」
「間もなくしますと左手に日本海が見えてまいります」

ずっと笹をまとった宗谷丘陵が続いていたが、列車が減速するとその日本海を望む高台の上に差し掛かる。

「今日は利尻富士がきれいに見えております」
「利尻島にあります利尻富士は海抜1721m・・・」
と名所案内が続く。

列車も止まるのではないかというほど速度を落としてゆっくりと通過する。

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ここを過ぎるとしばらくして稚内の家並みが見え始める。
再び車内放送。

「まもなく南稚内でございます」
「連絡列車は、声問行き普通列車は8時15分、鬼志別浜頓別方面音威子府行きは10時20分でどちらも時間がございます」

右から天北線の線路がより沿って南稚内に到着する。
駅裏の笹だらけの丘を見ていると、何となく最果てに来たような気持になる。

南稚内から稚内市街を高架橋から眺めて、列車は終点稚内へ。

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ホームに降りると寒い。
札幌はもう汗ばむ日も出てきたのに、こっちはようやく春になったばかりのようだ。

ホームの柱にある『函館から682km』『東京から1422km』の表示を見ると稚内に来たなって実感する。

このあと急行『利尻』の車両は、機関車の前後を付け替えられて車内整備を終えると、今度は上り急行『宗谷』として札幌へ向かう。

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駅前に出るとフェリーターミナル行きのバスが1台お客を乗せて発車を待っていた。
車内は島へ向かう人たちで満員だ。

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バスが出て行くと駅前も待合室も静かになった。
これからどうするか。

まず朝食だな。

稚内駅の旧駅舎と言えば、待合室にあった立ち食いそば屋を思い出す人も多いだろう。
けど、今は昭和63年

まだあの立ち食いそば屋はできる前なのよ。

待合室のキヨスクは『利尻』到着前からやっているけど、朝食になるようなものはパンとカップ麺くらいしか置いていない。

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その代わり、駅前の食堂と喫茶店は『利尻』到着前から店を開けている。
その1軒の『ひとしの店』で朝食とした。

店を出てから歩いて北防波堤ドームへ向かった。
フェリーターミナルでは利尻・礼文行きのフェリーが出航を待っている。
その近くにあるのが『稚泊航路記念碑』と宗谷本線を走っていたSLのC55

戦争で樺太がソ連に奪われるまでは、ここから樺太の大泊まで稚泊連絡船があって、宗谷本線の急行もこの場所まで乗り入れていた。
函館からの直通急行が朝ここに着いて、その列車に接続して樺太の大泊へ連絡船が出航していた。

昔日の面影はギリシャ神殿風の長いドームだけとなり、賑わうフェリーターミナルとは対照的なほど寂しさが漂う。
樺太連絡を失った宗谷本線も、戦後はローカル線になってしまった。

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また稚内駅に戻る。

改札口の前は7:30発札幌行急行『宗谷』の改札を待つ人たちの行列ができていた。
これで札幌に戻るかなと思いかけたが、それではトンボ返りだ。

この次の8:10発天北線の声問行きに乗って往復してみようか。

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今日は土曜日。
南稚内から高校生がドッと乗ってきて、次の宇遠内でまたドッと降りた。

この時代の学校は土曜日は午前中だけあったんだよね。
完全週休二日となるのはまだまだ先の話。

車内はがら空きになり、板張りのホームだけの宇遠内駅を後にする。

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その次が終点の声問。
おや、あんなに天気だったのに雨が降り出した。

声問駅は木造駅舎があり駅員がいるのだが乗車券の販売はしていない。
窓口も板で塞がれていて、営業上は無人駅という扱いになっている。

声問は稚内市街の東端。
町はみんな国道の方に向いていて、駅はいかにも裏側のような場所。

国道は稚内へのバスが1時間に1本あるのに対し、こちらは声問折り返し列車を含めて1日7本のみ。
そりゃバスのある国道の方が栄えるわな。

現代に帰れば線路だった所が国道になり、声問駅の場所もわからなくなってしまった。

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 道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用

7分の折り返しでまた稚内駅に戻ってきた。
天気も崩れちゃったね。

もう行くところもないし、11:53発の急行『天北』で札幌に戻るとしよう。

〜おわり

〜この旅行記は1988(昭和63)年の記憶に基づいたフィクションです。
〜画像は全て筆者撮影。寄せ集めなので若干季節・時代感が合わないのはご容赦願います。

posted by pupupukaya at 21/05/22 | Comment(3) | 架空の旅行記
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