小樽は札幌から特別快速『エアポート』で34分の隣町です。
ですが、札幌人の私にとって、小樽は隣町以上に馴染みのある都市。
内陸に作られた札幌市からは、海や港を求めれば必然的に小樽ということになります。
そんな小樽の玄関口である小樽駅に着けば、振り返ると目に入るのが昭和モダニズムの雰囲気が色濃い鉄筋コンクリート製の駅舎です。
1934(昭和9)年建築の小樽駅舎(2024年8月撮影)。
また駅の正面玄関から街の方を見れば、幅広の中央通りが真っすぐ港まで伸びています。
坂の向こうに港と青い海の見える風景。
小樽に着いて最初に港町らしい旅情をそそる玄関口です。
そんな小樽駅からの風景を見て思い起こすのが、小樽出身の作家、伊藤整の小説『幽鬼の街』。
膚(はだ)寒く曇った日であった。 私は小樽駅前の広い坂道を真直海の方に向って下って行った。 道の向端には赤い船腹をでくんと突き出した北洋通いの貨物船がものうげに幾隻も浮かんでいた。 |
↑ 伊藤整『幽鬼の街』(1937年)から冒頭の引用。
まずは伊藤整の『幽鬼の街』冒頭のにある小樽駅から街に向かう描写を紹介します。
これは1937(昭和12)年に文芸雑誌『文藝』に書かれた小説。
小樽駅に降り立って、正面玄関から出たら一番最初に目に入るのが一直線に港へ下る広い通り。
たしかに『幽鬼の街』そのままの姿です ↓
だけど、昔の小樽を知る私には、このすっきり港まで見通せる通りはちょっと寂しく感じるのでした。
なぜかというと、今は駅からすっきりと港まで見通せる通りになっていますが、この中央通りは2000年代になってから拡幅されたもの。
現在は幅員36mで4車線の堂々とした通りですが、拡幅以前は幅員18mの2車線道路でした。
拡幅工事以前の中央通りの写真が出てきたので、紹介させていただきます。
時は2000(平成12)年3月。
そろそろ小樽の中央通りの拡幅工事が始まると知って、カメラを持って出かけたのでしょう。
百聞は一見に如かず。
当時の画像をご覧いただき往時を懐かしんで、あるいは過去の小樽の街並みを知っていただきたいと思います。
では24年前の小樽を、とくとご覧ください ↓
小樽駅から中央通り方向(2000年3月撮影)。
中央通りの拡幅工事が始まる前。小樽駅前から撮影したもの。
画像を見る限り、とにかくごちゃごちゃしていますね。
この頃はサンビル(左)と長崎屋(右)を結ぶ歩道橋があって、空中には無数の電線が横切っていて、港への展望は失われていたものです。
明治大正生まれの方ならば戦後の高度経済成長に毒された忌々しい姿に見えるのでしょうが、昭和戦後生まれの私などからすればこちらの方が商店街の原風景な気がします。
次は駅前の中央通りを横切っていた歩道橋から撮影したもの ↓
中央通歩道橋から港方向(2000年3月撮影)。
狭い通りに車やバスがびっしり。
『幽鬼の街』で “広い坂道” と表現していた中央通りですが、この当時はお世辞にも広いとはいえない通りですね。
車がほとんど通らなかった昭和初期では広い通りだったのでしょうか。
道の両側は中小の店舗がびっしり並んでいて、駅前から第一大通りまで続いていました。
画像左側の店は喫茶エンゼル。右側はパチンコハーバーライト。
下画像は喫茶エンゼルの前から撮影したものです。
時代はちょっと進んで2002年、拡幅に伴う建物解体が進んでこの一角だけがまだ残っていました ↓
中央通り喫茶エンゼルの前(2002年4月)
駅から歩いて行くと小さいながらも目立つ建物だったエンゼル駅前店。
エンゼルは小樽市内に複数店舗展開していた喫茶店のチェーン店でしたが、2007年のサンビル店閉店を最後に姿を消しています。
中央通りは2001年頃から本格的に立ち退き・拡幅工事が始まったと記憶していますが、この喫茶エンゼルは遅くまで残っていた店でした。
ちなみに、現在(2024年)の中央通りの画像はこちら ↓
長崎屋前の横断歩道から港方向(2024年8月)。
かつての倍の幅員に拡幅されて見通しが良くなりました。
それに伴って新築された建物も石造り調に統一されたので、歴史的建造物が並ぶ運河周辺から統一した風景となっています。
しかしどことなく人工的で、風景というより景観という言葉が似合いそうですね。
昔のごちゃごちゃした風景と比べると、やはりどこか寂しい。
次は坂道を少し下って都通り入口へ ↓
都通り入口と旧小樽中央通郵便局(2000年3月撮影)。
都通りといえば中央通りから浅草通までの300mほど続くアーケード商店街です。
今は『小樽都通り』と鋳物風の看板を掲げてアーケード入口もレトロ調になっていますが、画像の頃は『セントラルタウン都通り』の看板を掲げていました。
浅草通り側には大国屋デパートがあって(1993年閉店、現在オーセントホテル)小樽随一の繁華街でした。
でした・・・とは、今は空き店舗が目立ち人通りも少なくなって、他の地方都市の例にもれず中心部の空洞化は避けられないようです。
運河や堺町通りはこれでもかというほど観光客が歩いているのに。
もうちょっとこちらの方に来ないものなのでしょうか。
それはともかく、画像左側の上の方に郵便マークを掲げた建物はブティックが営業していますが、元は小樽中央通郵便局だった建物です。
建築年は1925(大正14)年、今も残っていたら間違いなく歴史的建造物となっていただろう風格のある建物です。
郵便局として使われていたのは1986(昭和61)年までで、今の小樽駅前郵便局として移転したようです。
郵便局が出て行っても、郵便マークそのままで建物を使うあたりはおおらかというべきか。
そんなところも小樽らしさの一つなのでしょう。
下は中央通郵便局が現役だった頃の地図 ↓

↑ 昭文社北海道都市地図(1986年発行)より引用、緑囲みは筆者。
1986(昭和61)年発行の地図。
こんな地図を引っ張り出してきて、つい見入ってしまいました。
丸井今井、北海ホテルなんて懐かしい名称も数々。
この年は小樽運河を半分埋め立てて造成した臨港線が開通して、同時に運河沿いの散策路が完成した年です。
新しくなった運河は小樽のシンボルとなり、同時に観光都市として生まれ変わったのでした。
ところで地図には手宮線が描かれていますが、この当時は廃止となっていたはず。
ですが線路や踏切はそのままにされ、この年の秋には、のちに『C62ニセコ号』として運転されるC62-3号機がディーゼル機関車に牽引されて手宮の鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館本館)から搬出されています。
だからこれはこれで間違いではないと思います。
話がずれましたので、再び都通りへ。
こちらは現在の都通りアーケード入口 ↓
中央通りから小樽都通り入口を見る(2024年8月撮影)。
都通りアーケードも中央通り拡幅に伴って柱1本分短くなった格好です。
かつての派手な看板から、落ち着いたレトロ調のデザインとなりました。
しかし、小樽随一の繁華街も今では人通りが少なく、昔日を知る私などしい思いをするのですが。
観光客からすれば全国どこにでもあるアーケード商店街の1つにしか見えないのでしょう。
小樽駅に着くと真っすぐ運河や色内の方に行ってしまう人が多いのは残念。
結構小樽の名店が連ねている通りなんですけどね。
人を呼び込むには、いっそのことアーケードを撤去して、中央通りのようにレトロ調の町並みで統一するというのもアリかもしれません。
次はもう少し坂を下って第一大通りとの交差点付近から ↓
稲穂町第一大通り交差点付近から小樽駅方向(2000年3月撮影)。
稲穂町第一大通り交差点から小樽駅方向(1998年頃?撮影)。
写真が2枚出てきたので連投で。
2枚目の雪のない画像の撮影年は1998年としましたが、紙の写真では撮影年月がわからないので推定です。
正面奥は小樽駅なのですが、やはり横断歩道橋が邪魔して駅を見通すことはできません。
しかし雑然としている方が人間味があったよなあと思う反面、拡幅されて新しくなっていなかったら、これもどこにでもある地方都市中心部のように老朽化した空き店舗が立ち並ぶシャッター通りになっていた可能性があります。
だから昔の方が良かったと簡単に言うことはちょっと憚られます。
下は現在の第一大通りから小樽駅方向を撮影したものです。
第一大通り交差点から小樽駅方向(2024年8月撮影)
正面に小樽駅が見える広い通りは、小樽市の玄関口にふさわしい貫禄があります。
ごみごみした通りの中に埋もれてしまっていた昔の街並みよりも、誰が見たって今の風景の方が絵になりますね。
それにしても街路樹の背が高くなったこと。
20余年の歳月を思い知らされます。
一方で、小樽の中心部を南北に通る第一大通は拡幅がされておらず、かつての中央通りのような雑然とした街並みを今でも残しています。
すっきりと美しい景観になった中央通りですが、乾いた人工的なものを感じてしまいます。
私など、やっぱり昔ながらの第一大通りに小樽らしさを感じるのですが。
次はさらに坂を下って、手宮線の踏切へ ↓。
旧第二火防線踏切から南小樽方向(2000年3月撮影)。
昔(1980年代)は小樽駅から港に向かう途中に2か所踏切があって、1つ目が手宮線の踏切。2つ目が運河の橋を渡った先にある第三埠頭への貨物線の踏切でした。
第三埠頭は、現在は指定保税地域に指定されて立入り禁止になっていますが、あの当時は自由に出入りできて釣り人が多かった記憶があります。
・・なんの話?
そうそう、手宮線の踏切の話でしたな。
手宮線はご存じの通り北海道初の鉄道、日本でも3番目に開通した鉄道の一部です。
旅客営業は1962(昭和37)年に廃止。以降は貨物専用線としての営業でした。
それも国鉄の合理化と貨物輸送の減少により、1985(昭和60)年をもって廃止となっています。
上は3月に撮影したものなのでまだ雪がたくさん残っていますが、雪が解けても廃止当時のまま残っていて夏には草ぼうぼうという状態でした。
もちろん踏切も遮断機は撤去されていましたが、標識と警報器それに線路はそのまま残っていました。
現役当時の踏切名称は第二火防線踏切。
明治時代に小樽の町が作られたとき、現在の浅草通りが第一火防線、中央通りが第二火防線として作られたことによります。
1903(明治36)年に今の小樽駅が中央小樽駅(この当時の小樽駅は今の南小樽駅)として開業すると、中央通りの名で呼ばれるようになったとか。
2000年代の中央通り拡幅工事によってこの踏切も撤去されるのかと思っていましたが、そこは道内初の鉄道という由緒ある線路なので中央通りを横切る線路は保存されることになりました。
ですが、踏切の標識はトラジマの柱だけ移設されて残っている格好です。
ところで手宮線の線路跡を歩いていると、中央通りと交差する部分だけ線路が不自然に下がっていることに気づきますが、これは中央通り拡幅の際に手宮線の方を盤下げしたためです。
以前は手宮線の方が水平になっていました ↓
旧手宮線と中央通りの交差部分(2024年8月撮影)。
そのため、拡幅前の中央通りは、踏切を渡ると港へ向かって急な下り坂になっていました。
その描写を、また伊藤整『幽鬼の街』に見てみましょう。
私は百枝についてその裏路地を歩き、停車場通りへ出て、海の方へ歩いて行った。 だらだら坂になって踏切がある。それは手宮駅から南小樽駅、築港小樽駅を経て札幌駅へ通ずる支線である。 〜(中略)〜 私は空っぽの線路を見やってから、更に埋立地に向う急な坂を下りる。 |
↑ 伊藤整『幽鬼の街』(1937年)からの引用。
現在の中央通りは、確かに踏切跡から色内大通りにかけて、傾斜が大きくなっていますが、上の引用にあるような “急な坂” と呼ぶほどではありません。
ではこの手宮線の線路から埋立地に向かう急な坂とは一体何だったのでしょう。
それがこちら ↓
旧岡島薬局前から小樽駅方向(2000年3月撮影)。
上画像の坂部分を拡大。
坂の下から踏切と小樽駅方向を撮影したものですが、手宮線踏切の手前が急な坂となっていることがわかります。
距離にして10mほどの短い坂道ですが、歩いていたら急な坂に感じるところです。
現在の中央通りは、拡幅工事の際に通行をスムーズにするために手宮線を盤下げして、勾配が緩やかになるように改良したものだったのでした。
あとちょっと見づらいですが、踏切下の道路が20〜30mほど石畳になっているのがおわかりいただけますか。
ここだけ扇状に石を敷き詰めた、ちょっと変わった造りになっていました。
坂のすべり止めだったのでしょうか。
古い建物やギリシャ神殿風の北海経済新聞社(旧安田銀行小樽支店)などと相まって、ここだけヨーロッパのような感じがしたのを覚えています。
中央通り拡幅と勾配改良工事によってこの石畳も消え失せています。
せめて雪のない時期に撮影しておけばなあ・・・
★ ★ ★
以上、小樽市中央通りの過去画像をお送りしました。
伊藤整『幽鬼の街』とも重ねてみると、昭和戦前の小樽の世界が蘇ってきそうです。
いまや国際的な観光都市となった小樽。
幅広の中央通りは絵になる風景ですが、ごちゃごちゃしていた狭い通りだった中央通りが小樽らしい街並みだった気がします。
じゃあ拡幅工事をしなかった方が良かったかというと、そんなことはないわけで、前述の通りシャッター商店街になっていた可能性が高いです。
これは時代の流れとして割り切るしかありませんね。
私が若かった24年前当時の画像の頃や、伊藤整の頃も過去のこと。
でも街を歩いていると、時空を通り越して過去の街に迷い込んでしまいそうな錯覚に陥いる不思議な街。
現代と過去が同居しているような小樽。
札幌人の私にとって、札幌が父とすれば小樽は母なる地。
どうもこの小樽という街は昔から愛してやまないのであります。
※かつての手宮周辺の街並みはコチラ ↓
〜最後までお読みくださいましてありがとうございました。