定鉄廃止直前の頃。道営真駒内団地も完成し、沿線は宅地化がかなり進んでいる。(昭和43年発行国土地理院5万分の一地形図)

定山渓鉄道の廃線跡地図 緑ヶ丘・石切山間その1(地理院地図から作成)
定鉄跡なんだか地下鉄線路の案内だかわからなくなってきたが、地下鉄の建造物も真駒内駅から450mほど南に行ったところで終わりになる。ここからは定山渓鉄道の線路跡になる。
地下鉄引込線の終端。(1から東方向)
現在地下鉄南北線は真駒内が終点だが、鉄道用地の譲渡は地下鉄の将来計画の終点である藤ノ沢まで一括して行われた。
真駒内からシェルターで覆われた高架線を延伸する計画だったが、その後一向に実現することはなく、計画もいつの間にか立ち消えになったようだ。
地下鉄が途切れてもしばらく山側の擁壁は続いていたが、それも途切れたので道路を渡って線路跡に分け入ってみる。
線路跡らしき場所は小道がついていた。地形図にはこの小道は載っていないが、近所の人の散歩道となっているようで歩きやすい。落ち葉が積もっているが、その下には玉石が敷き詰められていて、ここが軌道床であったことは間違いない。
地下鉄終端からは地図には乗っていないが自然歩道のようになっている。(1と2の間から南方向)
落ち葉の中から姿をあらわした軌道床の玉石。
電車からの車窓もこんなふうだったのだろうか。(2から西方向)
しばらく歩いてい行くと小道の山側に架線柱の台座を見つけた。
廃線後に線路ともども撤去されたようだが、地中深く掘り起こすのは大変という判断だったのか、地上に出ている分だけ切断して撤去したようだ。
定鉄の架線柱はコンクリートや木製の電柱ではなく古レールを2本組み合わせた独特の形をしていた。
このレールは昭和4年に電化と同時にレールを交換した際に発生した古レールを架線柱を再利用したもので、当初は銀色に塗られていたという。
コンクリートは貴重品だったのか、台座はこれまた札幌軟石が使われていた。
架線柱の台座を発見。(3付近)
架線柱の台座は比較的よく残っている。(3から南西方向)
時々訪れる廃線跡探訪者いがいは注目する人も無く、定鉄廃止以来ひたすら眠っているようだ。もう少し経つと夏草に埋もれてしまうのだろうか。
白樺林が途切れ、突然開けると先はじょうてつバスの待機場になっていた。
林をぬけた所はじょうてつバスの待機場になっていた。(4から南西方向)
ここから線路跡は平岸通と石山西岡線に挟まれる格好になる。
幅広の中央分離帯みたいな所だが、舗装された遊歩道になっている。(5から南西方向)

定山渓鉄道の廃線跡地図 緑ヶ丘・石切山間その2(地理院地図から作成)
バス待機場を過ぎた交差点から舗装された小道ができていた。看板が立っていて見ると、ここから石山までは「発見トレイル」と名付けられたウォーキング・トレイルコースとして整備されていた。
整備された遊歩道を進んで行く。(7から南西方向)
この先線路はは真駒内川を渡り、国道453号線(当時は230号線)の陸橋の下を通り石山に抜けていた。
線路跡と思われる個所はトンネルになって、石山から真駒内方向への一方通行の抜け道ができている。
車に乗っていれば、上の面倒くさい交差点を通らずに済むのでなかなか便利な抜け道だ。私も何度も利用している。
でもこの道路が線路跡なのだろうか?どうも釈然としない。
トンネルの前後に線路らしくない急勾配があるし、トンネルをぬけた所は昔の線路とは考えられないほど高く切り立ったところを通るからだ。
いつの間にか自動車道路と合流する。ここは定鉄跡地を道路として整備したところ。(9から南西方向)
国道453号線の下をくぐる。(9と10の間)
地下鉄延伸が実現していればここを地下鉄の電車が通ったのだろうか。
トンネルは石切山隧道という名前がついていた。(10から北東方向)
トンネルの上は国道453号線の石山高架橋が建っている。

石山陸橋付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)
上の重ね図を見るとわかるが、現在の道路は線路跡を踏襲したのではなく、線路北側に新たに作られたようだ。
石山陸橋の名がバス停に残る。陸橋とは今の高架橋のことではなく、定鉄と230号線の立体交差のことだった。
トンネルを抜けたところが線路跡とは思えないほど切り立っているのは新しく作られた道路だからだ。(11から南西方向)
石切山隧道自体も線路跡よりも高い位置に掘られたようで、線路の土手だったところに盛り土して今の道路を作ったようだ。それならば切り立つような土止めの壁や、平岸通と合流してからの鉄道には急すぎる坂も納得できる。
穴の川を渡るところで線路跡とわかる路盤が現れる。(12から南西方向)
左が石切山隧道へ、右が453号線との交差点へ向かう平岸通。(11から北東方向)
平岸通は453号線との交差点から石山まで一気に坂道を下るが、線路も石山坂と呼ばれる急勾配で電化される前の汽車時代は最大の難関だったところ。蒸気機関車は坂の途中で停まってしまうことも多かったという。電車になってからはそのようなこともなくなった。
定鉄の土手だったところに石垣が残されていた。
石山付近の遊歩道には「定鉄跡地線」の看板があった。
東札幌から真駒内までは定鉄があったことなど無かったことのようになっていたが、石山まで来ると定鉄電車を地域の歴史として記録に残そうという気概が見られるようになり、ここまで延々歩いてきて何となく救われる思いがした。
電車が衰退するようになっても、この辺りの人にとっては地域の発展のシンボルであったに違いない。
そんな地域の人の思いはこの先で数々目にすることになる。
この土手の上を定鉄の電車が走っていた。(13から西方向)
土手の下には昔ながらの石造り倉庫が残っている。(13と14の間)
都心では消え失せた雪もこの辺りまで来るとまだ残っている。
緩やかな坂を下ってくると先は道路になっていた。(14から西側)
線路跡の道路は石山振興会館の裏を通る。(15から西側)
かつて定鉄の石切山駅舎だった建物。
石切山の駅舎は、廃止後は石山振興会館として使われている。
駅名標はレプリカだが、建物をリニューアルした際にここが駅だったことをアピールするために取り付けたようだ。
「旧石切山驛」の板が掲げられている。
石で栄えた町らしく、駅舎は窓下まで軟石で出来ている。花壇の石はホームに使われていたものだろうか。
これは向かいにある旧石山郵便局。
旧石山郵便局は郵便局移転後も旧建物は昔のまま残されている。ここだけでなく旧駅周辺は古い建物が残り、街道の雰囲気がある。
さて、週末にちょっとした思い付きで定鉄跡地を歩いてきました。12時に東札幌駅跡のイーアスを出発してここまで4時間。距離にして約12km、よく歩いたものです。
今日は一旦ここまでにして来週の週末にここからまたスタートします。
石山中央からバスに乗ると高いので、石山大橋を渡って硬石山のバス停まで歩いてそこからバスに乗って帰りました(ケチだね〜)。
訪問日:2015/4/18