定山渓鉄道跡を歩く2015年 5回目

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 定鉄廃止直前の頃。道営真駒内団地も完成し、沿線は宅地化がかなり進んでいる。(昭和43年発行国土地理院5万分の一地形図)

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 緑ヶ丘・石切山間その1(地理院地図から作成)

定鉄跡なんだか地下鉄線路の案内だかわからなくなってきたが、地下鉄の建造物も真駒内駅から450mほど南に行ったところで終わりになる。ここからは定山渓鉄道の線路跡になる。

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 地下鉄引込線の終端。(1から東方向)

現在地下鉄南北線は真駒内が終点だが、鉄道用地の譲渡は地下鉄の将来計画の終点である藤ノ沢まで一括して行われた。
真駒内からシェルターで覆われた高架線を延伸する計画だったが、その後一向に実現することはなく、計画もいつの間にか立ち消えになったようだ。

地下鉄が途切れてもしばらく山側の擁壁は続いていたが、それも途切れたので道路を渡って線路跡に分け入ってみる。
線路跡らしき場所は小道がついていた。地形図にはこの小道は載っていないが、近所の人の散歩道となっているようで歩きやすい。落ち葉が積もっているが、その下には玉石が敷き詰められていて、ここが軌道床であったことは間違いない。

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 地下鉄終端からは地図には乗っていないが自然歩道のようになっている。(1と2の間から南方向)

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 落ち葉の中から姿をあらわした軌道床の玉石。

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 電車からの車窓もこんなふうだったのだろうか。(2から西方向)

しばらく歩いてい行くと小道の山側に架線柱の台座を見つけた。
廃線後に線路ともども撤去されたようだが、地中深く掘り起こすのは大変という判断だったのか、地上に出ている分だけ切断して撤去したようだ。

定鉄の架線柱はコンクリートや木製の電柱ではなく古レールを2本組み合わせた独特の形をしていた。
このレールは昭和4年に電化と同時にレールを交換した際に発生した古レールを架線柱を再利用したもので、当初は銀色に塗られていたという。
コンクリートは貴重品だったのか、台座はこれまた札幌軟石が使われていた。

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 架線柱の台座を発見。(3付近)

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 架線柱の台座は比較的よく残っている。(3から南西方向)

時々訪れる廃線跡探訪者いがいは注目する人も無く、定鉄廃止以来ひたすら眠っているようだ。もう少し経つと夏草に埋もれてしまうのだろうか。

白樺林が途切れ、突然開けると先はじょうてつバスの待機場になっていた。

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 林をぬけた所はじょうてつバスの待機場になっていた。(4から南西方向)

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 ここから線路跡は平岸通と石山西岡線に挟まれる格好になる。

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 幅広の中央分離帯みたいな所だが、舗装された遊歩道になっている。(5から南西方向)


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 定山渓鉄道の廃線跡地図 緑ヶ丘・石切山間その2(地理院地図から作成)

バス待機場を過ぎた交差点から舗装された小道ができていた。看板が立っていて見ると、ここから石山までは「発見トレイル」と名付けられたウォーキング・トレイルコースとして整備されていた。

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 整備された遊歩道を進んで行く。(7から南西方向)

この先線路はは真駒内川を渡り、国道453号線(当時は230号線)の陸橋の下を通り石山に抜けていた。
線路跡と思われる個所はトンネルになって、石山から真駒内方向への一方通行の抜け道ができている。
車に乗っていれば、上の面倒くさい交差点を通らずに済むのでなかなか便利な抜け道だ。私も何度も利用している。

でもこの道路が線路跡なのだろうか?どうも釈然としない。
トンネルの前後に線路らしくない急勾配があるし、トンネルをぬけた所は昔の線路とは考えられないほど高く切り立ったところを通るからだ。

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 いつの間にか自動車道路と合流する。ここは定鉄跡地を道路として整備したところ。(9から南西方向)

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 国道453号線の下をくぐる。(9と10の間)

地下鉄延伸が実現していればここを地下鉄の電車が通ったのだろうか。

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 トンネルは石切山隧道という名前がついていた。(10から北東方向)

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 トンネルの上は国道453号線の石山高架橋が建っている。

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 石山陸橋付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

上の重ね図を見るとわかるが、現在の道路は線路跡を踏襲したのではなく、線路北側に新たに作られたようだ。

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 石山陸橋の名がバス停に残る。陸橋とは今の高架橋のことではなく、定鉄と230号線の立体交差のことだった。

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 トンネルを抜けたところが線路跡とは思えないほど切り立っているのは新しく作られた道路だからだ。(11から南西方向)

石切山隧道自体も線路跡よりも高い位置に掘られたようで、線路の土手だったところに盛り土して今の道路を作ったようだ。それならば切り立つような土止めの壁や、平岸通と合流してからの鉄道には急すぎる坂も納得できる。

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 穴の川を渡るところで線路跡とわかる路盤が現れる。(12から南西方向)

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 左が石切山隧道へ、右が453号線との交差点へ向かう平岸通。(11から北東方向)

平岸通は453号線との交差点から石山まで一気に坂道を下るが、線路も石山坂と呼ばれる急勾配で電化される前の汽車時代は最大の難関だったところ。蒸気機関車は坂の途中で停まってしまうことも多かったという。電車になってからはそのようなこともなくなった。

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 定鉄の土手だったところに石垣が残されていた。

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 石山付近の遊歩道には「定鉄跡地線」の看板があった。

東札幌から真駒内までは定鉄があったことなど無かったことのようになっていたが、石山まで来ると定鉄電車を地域の歴史として記録に残そうという気概が見られるようになり、ここまで延々歩いてきて何となく救われる思いがした。
電車が衰退するようになっても、この辺りの人にとっては地域の発展のシンボルであったに違いない。
そんな地域の人の思いはこの先で数々目にすることになる。

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 この土手の上を定鉄の電車が走っていた。(13から西方向)

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 土手の下には昔ながらの石造り倉庫が残っている。(13と14の間)

都心では消え失せた雪もこの辺りまで来るとまだ残っている。

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 緩やかな坂を下ってくると先は道路になっていた。(14から西側)

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 線路跡の道路は石山振興会館の裏を通る。(15から西側)

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 かつて定鉄の石切山駅舎だった建物。

石切山の駅舎は、廃止後は石山振興会館として使われている。
駅名標はレプリカだが、建物をリニューアルした際にここが駅だったことをアピールするために取り付けたようだ。

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 「旧石切山驛」の板が掲げられている。

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 石で栄えた町らしく、駅舎は窓下まで軟石で出来ている。花壇の石はホームに使われていたものだろうか。


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 これは向かいにある旧石山郵便局。

旧石山郵便局は郵便局移転後も旧建物は昔のまま残されている。ここだけでなく旧駅周辺は古い建物が残り、街道の雰囲気がある。

さて、週末にちょっとした思い付きで定鉄跡地を歩いてきました。12時に東札幌駅跡のイーアスを出発してここまで4時間。距離にして約12km、よく歩いたものです。
今日は一旦ここまでにして来週の週末にここからまたスタートします。

石山中央からバスに乗ると高いので、石山大橋を渡って硬石山のバス停まで歩いてそこからバスに乗って帰りました(ケチだね〜)。

訪問日:2015/4/18
6回目へつづく

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定山渓鉄道跡を歩く2015年 4回目

さて、澄川駅を後にしてどんどん歩いて行きます。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 澄川・緑ヶ丘間その1(地理院地図から作成)

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 澄川駅から福住桑園通までの区間も高架下歩道になっている。(1から南方向)

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 「札幌新陽高等学校」の看板が立つ交差点(2から南方向)。

ここは慈恵学園停留場があったところ。
左側に並んでる澄川児童会館と南消防署澄川出張所がちょうど駅の場所だった。

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 自衛隊前駅の北側にある東光ストア(3から南側)

投稿ストアとマンションが建つ一角は元々定鉄バスの澄川営業所があった。

じょうてつバスといえば、南北線の中の島から南側はじょうてつバスの縄張りとなっているが、元は札幌市営バスの路線だったことは記憶に新しい。しかし、元々は定鉄のバス路線だった。

昭和30年代に入ると札幌市の人口は急速に増加してくる。今まで郊外の農村だったこの地区も急速に宅地化が進むことになる。増える住民の輸送を担ったのは電車ではなくバスであった。札幌駅を起点に定鉄電車沿線の平岸、澄川、真駒内地区に自社バス路線を拡充させることになる。元々東札幌にあった定鉄バスの営業所は手狭になったことで澄川営業所として移転することになった。

ところが皮肉なことに、これが電車の衰退を招く。路線拡充や増発がなされるにつれてますます電車の乗客が減るという悪循環になっていった。
乗客の主力だった郊外や定山渓温泉のお客も、この頃には国道の整備とともに車やバスに移っていった。

沿線に誘致した慈恵学園や藤の沢女子高への通学客は増えていたが、いかんせん割引率の高い通学定期の客ばかりでは経営改善の役には立たなかったようだ。
電車が廃止になる直前の昭和44年9月の営業収入は、電車が811万円、バスが9,383万円と10倍以上の開きで、電車の赤字がバスの黒字を食う状態だった。これでは都市型輸送に向けた設備投資やダイヤの増発などできるはずも無く、沿線が都市化されるにつれて邪魔者扱いされた電車の廃止は時間の問題となっていた。

そこに降って湧いたのが札幌オリンピック輸送のための地下鉄建設であった。南北線の北24条から真駒内までの路線が決まると札幌市から路線の買収を持ちかけられる。瀕死寸前の定鉄にとっては渡りに船だったに違いない。道警が危険な踏切が多いことを理由に廃止勧告を出したことも理由の一つにあり、定鉄電車は昭和44年10月31日を最後に廃止されることになる。

ところが今度は、これまで好調だったバス事業が地下鉄に乗客を奪われて経営悪化に陥ることになる。これも札幌市から申し入れがあり、地下鉄と並行するバス路線は全て札幌市へ車両や人員ごと移譲されることになった。地下鉄開業翌年の昭和47年のことだった。定鉄の沿線だった平岸、澄川、真駒内地区から、電車廃止から3年後に定鉄バスも撤退することになる。
この地区の発展の礎だった澄川営業所も真駒内営業所(のちに移転して川沿営業所となる)統合になり廃止された。
また、その翌年には称号を「定山渓鐡道株式会社」から現在の「株式会社じょうてつ」に改めている。

その後は残った郊外路線の拡充や、合理化を進めてバス事業は立ち直るようになる。
時代は変わり平成になると、今度は札幌市交通局の経営悪化から市営バスに委譲した路線は再びじょうてつバスの路線に戻ることになった。

話が脱線したが、また線路跡に戻ります。

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 地下鉄自衛隊前駅裏にある階段。(4から西方向)

自衛隊前駅の1番ホームから直接地上に通じる階段があって、雪祭り真駒内会場があった頃に臨時の降車専用口として使用されていた。おそらくもう使用されることはないだろう。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 澄川・緑ヶ丘間その2(地理院地図から作成)

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 精進川を渡る。(5から南東方向)

定鉄時代は川は直角に交わり鉄橋が架かっていたいたようだが、大規模な改修工事が行われて今は斜めに交差する。定鉄時代の遺構などあるはずもない。

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 高架下を利用した交通資料館。(6から南東方向)

かつて走っていた市電の車両が展示されている。ただし10月から4月までは冬期休館中。
残念ながら定山渓鉄道に関する展示品はなし。

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 自衛隊前駅で車両基地への線が分岐し、シェルターもここで分かれる。(7から南方向)

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 定鉄時代の真駒内駅はこの付近にあった。(8から南方向)

通り向かいのタイヤショップは元々日通の建物で、この建物の真向いに駅舎があった。駅のあった高架下は何も無いが、この建物が真駒内駅があった唯一の名残。

この駅ができた頃は、真駒内の集落は今の真駒内本町で、そこから駅まで道が通じていた。
終戦後は進駐軍の物資輸送のために専用線ができて米軍で栄えた。米軍撤収後は自衛隊駐屯地になったが、本町へ通じていた道も無くなり、自衛隊と裏山に挟まれた辺鄙な場所になってしまった。
地下鉄ができてもここに駅が設けられなかったのも当然といえよう。

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旧真駒内駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

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 桜山からの眺め。ちょうど定鉄真駒内駅の裏側にある山で、春は桜秋は紅葉とたくさんの客が訪れたという。

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 地下鉄南北線の一大基地である南車両基地。(10から東方向)

南北線の自衛隊前駅と真駒内駅の間は1.7kmあって、地下鉄では駅間距離が一番長い。この間の五輪通りと交差するあたりに新駅ができるという噂も立ったり消えたりしている。

実際ここに駅があれば、オリンピック会場だった競技場やアイスアリーナの最寄りになるし、西岡・川沿方面の交通の便が良い。澄川・真駒内間は自衛隊前駅が中途半端な場所にできたが、定鉄の慈恵学園、真駒内(五輪通)、現在の真駒内と2駅設けていればはるかに便利だったと思うのは私だけだろうか。
もっとも今さらどうにもならない問題だが。

また話が脱線した。

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 五輪通を過ぎると地下鉄の高架は山際を進む。(11から南方向)

夏になると地下鉄の窓からも木々の緑を身近で見ることができる。右側はオリンピック選手村だった五輪団地。
左に山を見て、右に団地を見ればもうすぐ地下鉄の終点真駒内駅である。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 澄川・緑ヶ丘間その3(地理院地図から作成)

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 地下鉄南北線の終点真駒内駅。(12から東方向)

真駒内駅は石山・藤野方面、常盤方面、川沿・北の沢方面へのバスが発着する南区のターミナルである。
しかし、定鉄時代はこの場所に駅は無かった。

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 地下鉄真駒内駅の南端、シェルターはここで終わり、半地下の引込線が伸びている。(13から北方向)

地下鉄の駅の設置場所はいろいろ必然性があって今の場所に決定したのだろうが、定鉄と同じ場所に設けられた駅は澄川駅だけだった。慈恵学園、真駒内、緑ヶ丘の三駅は廃止後地下鉄の駅として復活することは無かった。定鉄廃止後、沿線は地下鉄路線として発展してゆくことになった。

さて、真駒内の次が緑ヶ丘駅である。といってもここで便宜上駅と呼んでいるだけで、正式には停留所(ホームだけで駅員無配置)であった。

その緑ヶ丘駅、一体どこにあったのだろうかと長らく疑問に思っていた。「さっぽろ文庫11 札幌の駅」によると「現地下鉄真駒内駅構内南端付近」とあるのみ。真駒内駅南端に引き込み線を乗り越えて自然歩道へ通じる階段があるし、交差点でもあるのでそこに緑ヶ丘駅があるものだと思っていた。

ところが便利な時代になったもので、インターネット上で昔の空中写真が見られるようになった。1961年撮影の国土地理院の高解像度空中写真には緑ヶ丘駅ホームがしっかりと確認できる。
駅は自然歩道入口の交差点から80mほど南にあったことがわかった。

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 1961年、緑ヶ丘駅付近の空中写真。

緑ヶ丘駅が設置されて間もないころの空中写真。
まだ平岸通もなく、駅前は真駒内種畜場の牧草地が広がるばかり。
空中写真に現在の地形図を重ねると位置がわかる。

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 緑ヶ丘停留所付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

緑ヶ丘駅は昭和36年開業と定鉄の駅の中では最も新しい。廃止は44年なので、僅か8年間だけという儚い駅だった。
開業当初から長さ2両分板張りのホームがあるだけの停留所だった。
真駒内種畜場の跡地に道営住宅が建設されることになり、その通勤輸送を見込んで設けられたのだろうが、そのころには自社バス路線も札幌駅まで走っていたので電車の乗客は僅かな通学生だけだったと思われる。

この駅がどれだけ影が薄かったかというと、昭和42年発行の住宅地図にも駅が載っていないくらいで、林の陰にひっそりと存在する短いホームなど当時新しく入居した住人達は知る由もなかったかもしれない。

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 地下鉄の引込線の上から。この先に緑ヶ丘停留所があった。(14から南方向)

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 緑ヶ丘停留所があった場所。駅があったことを窺わせるものは何もない。(15から北方向)

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 緑ヶ丘停留所があった場所。(15から南方向)

半地下の地下鉄引込線は、知らない人が見たら何やら謎めいた施設のように見えるかも。

平岸通りに沿って続く擁壁に階段の跡でもあるかと見たが、それすらも無かった。
インターネット発達のおかげで長年の疑問だった緑ヶ丘駅の場所が判明したが、こうして現地へ来るとそれがどうしたと言われんばかりに何もない。不用意にウロウロしていると不審者扱いされかねない。早々に次へ進むことにする。


posted by pupupukaya at 15/04/26 | Comment(5) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 3回目

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 豊平・澄川間その3(地理院地図から作成)

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 南平岸〜真駒内付近(昭和43年発行国土地理院2.5万分の一地形図)

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 南平岸駅を過ぎると逆S字カーブで進む。

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 高架下は南平岸駅の駐輪場として使用されている。

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 高架下のアーチ。ここから高架下は歩行者道になっている。(8から南方向)

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 高架下はいかにも線路縁という雰囲気。(8と9の間)

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 高架下歩行者道は80mほどで終わり。(9から南方向)

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 高架下に設けられた平岸シェルター公園。(10付近)

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 半分道路上にせり出した地下鉄の高架(10付近から南西方向)

もとが単線だったところに複線の高架を作ったあたりに苦しさが感じられるところ。

地下鉄のシェルターが設置された当初、アーチ状の屋根には雪が積もらないとされていた。ところが最初の冬を迎えてみると、屋根に積もった雪が落雪するは溶けた雪がすが漏りするはで急遽雪よけが増設されることになった。
またシェルターにさえぎられてテレビの電波が受信できなくなった保障で、沿線の住宅にはテレビ用のケーブルが引き込まれた。

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 住宅脇をかすめる地下鉄の高架。(10から南方向)


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 左カーブで平岸通をかすめる地下鉄の高架。(11から南方向)

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 逆S字カーブ付近は20‰の急勾配を登ってきたところ。(11から北方向)

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 澄川駅手前で斜めに交差する道路。定鉄があった頃もやはり斜めに交差する踏切だった。(12から南方向)

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 地下鉄の変電所はかつて定鉄の北茨木変電所だったところ。

豊平駅を出て3.7km、澄川駅に着く。ここは定鉄の澄川駅があったところ。唯一定鉄と同一箇所に設けられた駅でもある。
この駅はもと用地を提供された茨城与八郎氏の名から北茨木と称していた。当初は停留所として発足したが昭和24年に交換設備が設けられ駅に昇格した。昭和32年には土地の名に合わせて澄川駅に改称された。

このあたりが温泉客輸送のほか豊羽鉱山の鉱石輸送で賑わったピークで、以降はバスや自動車に客を取られて凋落の一途をたどることになる。鉱石輸送がトラック輸送に置き換わった昭和38年に澄川駅の交換設備が撤去されて停留場に格下げされた。

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 高架下のタクシー乗り場。駅前広場が設けられなかった澄川駅は高架下を有効活用している。

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 澄川駅脇は横丁のような佇まい。

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 地下鉄というより私鉄の駅前という感じの澄川駅前。(13から東方向)


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定山渓鉄道跡を歩く2015年 2回目

定鉄の起点は東札幌で、札幌駅までディーゼルカーで乗り入れていたこともあったが、札幌市民は市電で豊平駅まで来てそこから電車に乗り継いでいた。そのせいか定鉄の起点は豊平駅という認識の人も多かったようだ。

ともかく、定鉄のターミナルであった豊平駅跡を出発する。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 豊平・澄川間その1(地理院地図から作成)

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 旧駅舎があったころは駐車場になっていて線路側といった風情が残っていたが、新しいマンションの車庫となった。

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 線路跡の敷地は東光ストアに突き当たる。(1から南西方向)

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 ここは定鉄の機関庫があった場所。東札幌の電車庫のように早い時期に跡地が自社系スーパーに転用された。(2から南西方向)

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 スーパーやホームセンターが建ち並び、ちょっとしたショッピングセンターのようになっている。

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 豊平駅を過ぎると線路はカーブを描いて南進していた。踏切だった場所は道営住宅が建つ。(3から北西方向)

自社系スーパーや団地に転用された線路跡を過ぎると豊園通と交差する。定鉄があった当時ここからは水田や果樹園が広がっていた。

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 水田や果樹園の中を行く長閑な車窓であったと想像させる地図。(国土地理院2.5万分の1地形図、昭和25年発行)

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 豊園通の踏切からカーブを描いて線路は南進していた。今はどこにでもある都会の公園。(3から南西方向)

ここから平岸までは定鉄廃止後に大規模な区画整理が行われている。一部区間は道路に転用されたが、大部分は宅地になってしまった。当時札幌市は人口増による市域拡大が急ピッチで進んでいて、少しでも多く住宅用地が必要だったことも背景にあったのだろう。
しかし、豊園通を過ぎたカーブのあたりは線路跡と無関係に開発が進み、廃線跡の名残は全くない。現在は住宅やマンションが立ち並ぶ。

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 このあたりは線路跡地と道路区割が一致しないのでどこに線路があったか判別が難しい。

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 水道局庁舎のあたり。交差する道路には踏切があった。(4から南方向)

水道局庁舎の交差点から地下鉄の高架までの道路は緩やかなカーブを描き、線路跡と推察できる。
線路跡が道路に転用されたと思いきや、実際はそうでもないようで、道路の東側に並ぶ住宅がどうも線路跡だったようだ。
以下に定鉄があった頃と廃止になった後を空中写真で比較してみる。

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 日の出公園付近の空中写真。左が昭和41年、右が昭和51年撮影のもの。(国土地理院の空中写真を基に作成)

定鉄線路があった頃は両脇に道路があり、廃止後は線路西側の道路を拡幅したうえで残し、東側の道路は宅地に転用したようだ。

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 日の出公園にある並木と道路の間の空間がこの辺りで唯一残る線路の名残。

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 腕木式信号機を発見。しかし、定鉄とは無関係のようだ。

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 件のマンションのエントランス。ここの大家は余程好きものだと言える。少々脱線しましたが。

米里行啓通と交差するところは十字路とはならず道路は若干ずれている。今まで歩いてきた道路はコンビニに突き当たるが、その横に続く道路は線路跡にできた道路であろう。その証拠に古い住宅は道路に背を向けるように建っている。

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 木の花通(現在の米里行啓通)でコンビニに突き当たる。ここから道路は線路跡敷地に移る。(6から南方向)

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 地図でわかる緩やかなカーブはまさに線路跡(7から南方向)

古い住宅はこの道路に背を向けて建っている。カーブの向こうから電車が現れそうな感じがしないでもない。
このあたりは定鉄でも数少ない線形の良い区間で、電車は60〜70km/hで快走していたという。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 豊平・澄川間その2(地理院地図から作成)


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 平岸3条5丁目の交差点(8から南西方向)

ここは昭和通と呼ばれ、白石中の島通が開通するまではバスも運行される主要道路だった。

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 白石中の島通との交差点(9から南西方向)

この道路は定鉄廃止後にできたようで、交差点前後に不自然な勾配がある。

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 ここから地下鉄が地下を通る(10から南方向)

向こうには銀色のシェルターも見えてきた。交差する道路はミッテル道路と呼ばれていた

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 中央分離帯がちょうど線路があった場所(10付近から北方向)

建物に突き当たるのでいつの間にか道路が線路跡ではなくなっていたようだ。

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 環状通との交差点(11から南方向)

ここには歩道橋があるので信号まで迂回しなくて済んだ。環状通は札幌オリンピック開催のため整備された道路。定鉄があった頃には無かった。当時オリンピック道路と呼ばれた道のひとつ。

ここまでは宅地化や道路転用にされて線路跡とわかるものはほとんど消滅していたが、ここからは地下鉄の高架が姿を現す。
オリンピック開催に向けて建設された地下鉄は、平岸から定鉄線路跡地を利用して高架で建設された。

昭和40年代に入ると定鉄は道警本部から平面交差する踏切は事故の可能性が高いため、立体化か廃止かを求める勧告を受けることになる。
鉄道が見直されている今では考えられないが、年々増加する自動車に抗しきれず、また沿線はバス路線が発展し電車は既に時代遅れになっていた。
そんな中、札幌オリンピック開催に向けて札幌市による高速軌道建設計画が持ち上がった。高速軌道建設のため定鉄用地の買収の打診があったことも廃止への運命を決定した。

そんなわけで、定鉄線路は地下鉄南北線として生まれ変わることになる。

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地下鉄のシェルターが地下から飛び出した竜のよう。ここからは定鉄跡地に地下鉄の高架がつくられた。(11の歩道橋から南方向)

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 昭和46年開通当時の地下鉄路線図。(広報さっぽろ46年12月号より)

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 地下から高架へ駆け上る。

地下鉄の線路は43‰という急勾配で南平岸駅まで駆け上がる。札幌の地下鉄がゴムタイヤになった理由の一つがこの急勾配であった。


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 もとは霊園前駅だったが縁起が悪いからと今の駅名に改称した南平岸駅。「都心まで9分」の宣伝文句は昔からある。

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 高架は白石藻岩通と交差する。昔は今崎道路と呼ばれ、踏切だったところ。(12から南方向)

ところで、定鉄は豊平駅の次は澄川まで駅がなかった。戦後は札幌郊外の宅地として発展していた平岸だが、新駅が設けられることはなかった。
もっとも、新駅ができても都心へは豊平駅で市電に乗り換えることになり、また自社のバス路線が沿線に発展したことで新駅を造ってもさほど利用客は見込めなかっただろう。都市輸送はバスで、こちらは郊外電車という棲み分けだったともいえる。


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定山渓鉄道跡を歩く2015年 1回目

定山渓鉄道があった時代を知ってますか?

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 定山渓鉄道のパンフレットより。

昔、札幌と定山渓を結ぶ電車があって、定鉄(じょうてつ)の名で親しまれていました。
定山渓鉄道こと定鉄が開通したのは大正7(1918)年、廃止が昭和44(1969)年とわずか51年と短命の鉄道でした。

廃止からことしで46年が経ち、人々の記憶からも消え去って久しくなります。かく言う私も定鉄廃止後の生まれで、直接走っている電車を見たことはありません。
廃線後は膨張する札幌の市街地に取り込まれて消滅していった線路跡。在りし日の定山渓鉄道を偲ぶべく線路跡だったところを歩いてきました。

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 定鉄が描かれた昭和43年発行国土地理院2.5万分の一地形図

定山渓鉄道の起点は国鉄千歳線の東札幌駅だった。さらに古くは白石駅が起点になっていて、白石−東札幌−真駒内−定山渓の路線であった。白石起点だったのは当時の国鉄と連絡運輸を行うためだった。

当初計画では苗穂駅起点で豊平川左岸沿いを南下し、石山付近で豊平川を渡るというものだった。ところが大正2年の豊平川大洪水とその後の護岸工事のため白石起点で平岸街道沿いのルートに変更されたという。
もし当初のルートで開業していたら、都心と石山、藤野、定山渓とを結ぶ都市路線として発展していたに違いなく、定鉄の歴史だけでなく札幌市内の交通網が大きく変わっていたことだろう。

昭和になると豊平駅まで市電が開通し、市電から定鉄に乗り換えるのがメインルートになった。また千歳線の前身である北海道鉄道を電化して苗穂駅まで乗り入れるようになると白石−東札幌間は存在意義を失ったようで、戦時中に不要不急路線として廃止された。
北海道鉄道もまた戦時中に国有化され、千歳線となった。戦後は小樽まわりの函館本線に代わる幹線として発展すると、東札幌、月寒、大谷地、上野幌と結んでいた旧ルートは廃線となり、現在の新札幌経由の新線になった。

千歳線が新線に移行された後も東札幌駅は貨物駅として残っていたがこちらも民営化直前の昭和61年に廃止されている。駅跡は廃止後も国鉄清算事業団の土地として長らく空き地のままだったが、後に札幌コンベンションセンターや大型商業施設などが建ち、付近は一新された。
歴史はここまでにして、旧東札幌駅跡から定山渓鉄道の線路跡にむけて出発しよう。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 東札幌・豊平間(地理院地図から作成)

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 かつて東札幌駅の駅舎が建っていた場所。現在は道路が貫通し、イーアス札幌AタウンとBタウンの連絡通路が空中で結んでいる。(1から北方向)

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 旧駅前から南郷通の菊水円形歩道橋方向。この道は今でも道道東札幌停車場線という名称がついている。(1から北西方向)

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 旧千歳線時代は「あかずの踏切」と呼ばれていた伊原街道踏切があった場所。旧千歳線跡はここからサイクリングロードになっている。(2から南西方向)

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 大型商業施設ができてこの辺りも高層マンションが増えてきた。(3から北東方向)

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 左への緩いカーブは千歳線跡。定鉄は直進していた。(3から南西方向)


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 電車庫が並んでいた場所は、じょうてつが分譲したマンションが立ち並ぶ。50年前の人が現代にタイムスリップしてきたら卒倒するような未来の光景だ(3と4の間)

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 旧豊平駅跡から移転してきた株式会社じょうてつ本社。(4から南東方向)

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 東札幌電車庫付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

南郷通から東北通までの間は電車庫があった。比較的広い土地だったせいか土地の転用は早く、自社系の倉庫が並んでいた。
建物の敷地になってしまったので線路跡を歩くことはできないが、東光ストア本社、北海道リネンサプライ、札幌第一交通など元々は定鉄由来の会社が並び、ここが定鉄の線路であったことをうかがわせる。

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 電車庫跡は比較的広い敷地のため建物の用地になった。(5から北東方向)

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 東北通から国道36号線までの間は長らく駐車場だったが宅地になって新しい家が並ぶ。(5から南西方向)

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 豊平2条線と36号線の間は今でも月極駐車場になっている。細長い敷地はいかにも廃線跡。(6から南西方向)

東札幌の次は豊平駅。昭和4年に市電豊平線が延伸されると、これを機に定鉄豊平駅も国道36号線に面した位置に新築移転した。以後市電と定鉄のターミナルとなって賑わっていた。

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 歩道橋だけが当時を伝える旧豊平駅前。

定鉄廃止後は駅舎がじょうてつ本社として使用されていたが、2005年に解体されて跡地はマンションが建った。
国道上は市電の豊平駅前停留所があって、歩道橋から停留所に向かって下りる階段があった。(8から南方向)

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歩道橋に残る市電の停留所に下りる階段があった跡。

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 ありし日の旧豊平駅(2001年頃)。

左側の平屋部分が旧駅舎で右側の2階建て部分はじょうてつ本社だった。

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 裏側は当時のホームがそのまま残されていた。(2001年頃)

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 旧豊平駅の駅前広場跡。

中央分離帯があって幅広になっている部分はかつて豊平駅の駅前広場だった場所。昭和41年に国道上に移設されるまでは市電は駅前広場へ乗り入れていた。(8から南西方向)

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 「市電終点豊平駅跡」の看板。ここに昔豊平駅があったことを唯一伝える存在。

定鉄が全盛の頃、定山渓からの電車が到着すると1台に収容できない市電は混雑で積み残しも発生し、このため豊平駅前の停留所は複線として定鉄電車の到着に合わせて臨時便も運転していた。
駅前広場に乗り入れていた市電も、国道36号線の自動車交通量の増加により踏切付近を電車が右折左折するのは大変ということもあって駅前広場に乗り入れていた線路を廃止し、国道上に停留所を移設することになった。

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 このあたりは市電終点だった頃とあまり変わらないようだ。

駅前広場だった路上をみるとびっくり。市電の軌道敷とおぼしき敷石が顔をのぞかせていた。曲線を描いているが、かつて豊平駅前停留所の線路はY字線だったはずで、これは市電の軌道敷に間違いない。
旧豊平駅舎が撤去されて、定鉄の面影がすっかり無くなったと思っていたが、こんなところに遺構が残っていたとは。

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 もと駅前広場だった路上には市電の敷石が顔をのぞかせていた。(8から南西方向)

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 市電豊平駅前停留場引き込み線の敷石。

市電停留所移設後も敷石は撤去せずにアスファルト舗装を施していたのが再び姿を現したようだ。


posted by pupupukaya at 15/04/19 | Comment(0) | 廃線跡・未成線
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