廃止1年後の江差線1

JR江差線の木古内〜江差間が2014年5月12日に廃止されて1年が過ぎました。
一方で北海道新幹線開業まであと1年を切りJRや沿線自治体は期待を寄せているようですが、その陰で消えた江差線の1年後がどのようになったのか見てきました。

5月30日土曜日まずは車で江差まで行きました。

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看板類はすべて撤去されたが駅舎はそのままになっている江差駅。

札幌から中山峠、長万部、八雲、熊石を走ること5時間、江差町までやってきた。まずは江差駅跡へ向かう。
駅舎も駅前広場も廃止前とそっくりそのままだった。変わったことといえば駅名や旅行商品の看板が全て無くなったくらい。駅前広場の駐車場もバス停も以前のまま。あまりの変わらなさに逆におどろいた。

駅舎に近づいて窓を覗いてみると、内側から板が張り付けてられていた。

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JRのものではなかったのか「ありがとう江差駅」の標柱は残されていた。

駅前広場には「一般駐車場」の看板があり、車が4台駐車してあった。もう駅は無いのだからまわりは誰もいない。
もともと駅であったこの場所は町の中心部から1kmほど離れていて、駅がなくなった今ではただの住宅地の一角でしかない。
江差町の集客施設である江差高校と道立江差病院は駅から9km北の厚沢部町に近い場所に移転して、またその近くにショッピングセンターができるなど人の流れも昔とはすっかり変わってしまった。駅がすっかり中途半端な場所になってしまってから久しい。

沿線各町 跡地活用探る…江差線廃線1年【江差】 函館新聞』によると江差駅周辺は2017年から江差町が公営住宅の整備をするとのこと。そうなると駅舎も取り壊され、駅があったこともわからなくなるほど様変わりしてしまうのだろうか。

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駅前広場も基本的にそのまま。

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駅前広場の駐車場もそのまま。

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電話ボックスと観光案内。

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熊石や大成方面のバスは今でも駅前広場に乗り入れている。
しかし、江差線代替バスは駅裏の団地を経由するので旧駅前には乗り入れしない。

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改札口もそのままになっている。一応柵で入れないようにはしてある。

ホームへは柵があって入れないようにしてあるが、立入禁止等の表示はないので中に入ってみる。
去年来たときは廃止フィーバー客がごった返したホームだが、外された看板や窓に張り付けられた板を見るとやっぱり廃止になったんだなあと思った。ホームの屋根が撤去されているので妙に明るく感じる。

それにしても意外ときれいだ。ゴミも落ちていないし、落書きも無い。それだけ人も寄りつかず忘れられた存在になってしまったということか。

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駅舎のホーム側。窓や出入り口は板で塞がれ、ホーム上屋の屋根だけが撤去されていた。

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荒れた感じもなく意外ときれい。廃止からもう1年経ったと見るか、まだ1年しか経っていないと見るか。

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板で塞がれていない窓から駅舎の中を覗いてみる。やっぱり何もない。

ホームの下には1本の線路が赤さびたまま伸びている。ホームの端から下に降りてしばらく線路を歩いてみた。

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こうしてみるとまた列車が復活しそうな気がしなくもない。

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レールはすっかり赤錆びてるが、まだ普通に列車が走れそうな線路。

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駅接近標識と勾配標。

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線路跡を歩いていたネコ。

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しばらく歩くと草に覆われるようになった。たった1年でこんなにも草が生えるものなのか。

車に戻り、次は上ノ国駅に行く。
上ノ国の駅舎は商工会館を併設していた。というより、商工会館に駅の待合所を併設していたとみるべきか。

上ノ国駅はスーパーや商店街からすぐの場所にあって、利便性は江差駅よりも良かった。

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上ノ国駅は上ノ国町商工会館がメインなので当然そのまま残っている。

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商工会館横に併設された駅待合室はこれもそのまま残っていた。「上ノ国駅」の表示も消されていなかった。ただし施錠されていて入れない。

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上ノ国駅ホーム跡。駅名標や名所案内、ミラーなどすべて撤去されていた。線路はそのまま。

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ホーム脇の花壇からタネが飛んできたのか、線路には花が咲いていた。

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構内は抜かれた標識が無造作に散らばっていた。

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駅横に作られた道。

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軽トラックが通る。もともとここは踏切ではなく、駅裏の人が勝手に線路を横断していた場所だった。

2へつづく
posted by pupupukaya at 15/06/07 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 12回目


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 定山渓鉄道の廃線跡地図 錦橋・定山渓間(地理院地図から作成)

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 上図とほぼ同じ錦橋・定山渓間の空中写真(国土地理院昭和22年空中写真)

錦橋駅を出ると線路は左に大きくカーブして定山渓温泉街へと向かう。豊羽鉱山の専用線は直進して、錦橋と並行して豊平川を渡っていた。その橋台は今でも残っている。

途中に山を崩したような切通しがあって、ここも線路と国道が並んで通っていた。

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 錦橋と国道を結ぶ道路にある切通し。(1から南西方向)

国道の旧道は、今はまっすぐ行って現国道へ合流しているが、右へ別れる脇道の方が旧国道で、道沿いに並ぶ民家の裏手を線路が通っていた。そのすぐ山側を現在の国道が通っている。

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 国道の旧道が右に分かれる。(2から南西方向)

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 国道下の線路跡。(3から北東方向)

短い区間だが、この辺りも線路跡らしい雰囲気が残っている。国道は錦トンネル開通時に現在の道路に移ったようだ。
昭和43年発行の旧版地形図を見ると、新道に切り替えられた国道と一緒に定鉄の線路も描かれている。定鉄と新道が短い間だけど共存していたことがあったようだ。
国道の土留めが線路跡にかからないようにずいぶんと垂直になっているのもこのためか。
民家と国道に挟まれた狭いところを電車がすり抜けるようにして走っていた姿を想像した。

旧道は公園に突き当たるが、アスファルトの舗装はそのまま国道まで続いていて歩道につながっている。新道に合流する手前のところに踏切があってここで線路と国道が再びクロスしていた。石山陸橋と合わせて国道230号線は3回定鉄の線路を渡ったことになる。

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 旧道は230号線に合流する。(4から南西方向)

ここにも国道との踏切があった。

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 定山渓発電所の水管。ここに鉄橋があった。(5の東側)

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 バスの白糸の滝停留所。

白糸の滝駅は白糸の滝停留場といって、ホームと木造駅舎があった。線路1本だけの棒線駅だったが、駅員がいて乗車券も売っていたようだ。

ここは定山渓温泉街の入口で商店街が近く、寮や保養所へのお客も多かった。また、終点の定山渓駅で降りては目立つので、お忍びの温泉客からは重宝がられたりしたとか。
駅名は裏手の崖にある滝名からつけられた。今でもバス停名に受け継がれている。

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 白糸の滝駅の跡。(5から西方向)

ここに北海道秘宝館があったが、廃業してからは廃墟と化していた。最近取り壊されたようで新しい更地になっていた。平らに整地されていたが何か建つんだろうか?

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 定山渓発電所の余水川を跨ぐ土手は線路跡とわかる。(5の西側)

この右手が白糸の滝になっている。

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 駅名の由来となった白糸の滝。目立たない場所とあって訪れる人も少ない。

白糸の滝から定山渓までの区間も大型ホテルの敷地などに変わっていて、廃線跡も断片的にしか残っていなかった。地図上でも現地でも廃線跡を辿るのは難かしい。
もう線路跡を歩くことはできず、既存の道路を迂回して線路跡を探すことになった。

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 アパートの石垣の左側が線路跡。(6から東方向)

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 線路跡はホテルの駐車場になっていた。(6から西方向)

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 定山渓ビューホテルと定山渓大橋、どちらも定鉄廃止後にできた。(7から北東方向)

ここが線路跡だと分かるものは消えてしまった。

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 線路は石垣の上を通っていたと思われる。(定山渓大橋から南方向)

平岸や真駒内付近は地主の反対により線路は迂回させられ、豊滝付近では地形の複雑さから断崖の中腹を縫って走り、ここまでくれば定山渓まで一直線に行ってもいいような気がするが、線路はここも町の端っこと豊平川の崖っぷちの間を縫うように通っていた。
逆に国道は温泉街をほぼ一直線に通り抜けている。

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 上画像の石垣の上から。(8から南西方向)

電車の車窓からも豊平川と温泉街が良く見えただろう。

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 土産物屋のすぐ裏手を線路は通っていた。(9から北東方向)

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 章月グランドホテル前の交差点。(9から北東方向)

正面の土産物屋は定鉄があった当時からあって、その横を線路が通っていた。その手前の道路には踏切があった。

章月グランドホテル前の交差点を過ぎるとほんの少しだけ線路跡の路盤が残っていた。ここに線路が通っていたと知っているからわかったので、そうでなかったら国道脇のただの芝生だ。

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 交差点から万世閣ホテルミリオーネまで僅かに残る線路跡。(10から南西方向)

線路跡はすぐに途切れ、大型ホテルの前を通り過ぎるとやっと定山渓のバス停があった。じょうてつバス案内所があって、ここに定山渓駅があった。
案内所の裏は駐車場になっていて、この場所に駅舎とホームがあった。

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 国道にあるじょうてつバス案内所。この裏手が定山渓駅だった。

ここが定山渓駅前で、道内屈指の温泉観光地である定山渓の玄関口であったが、定鉄が廃止されてからは玄関口としての機能は失って久しく、今では温泉街はずれの一角に過ぎない。路線バスも現在は全便湯の町経由になったので、このバス停を利用する温泉客もあまりいなくなったようだ。

バス停に立つと、今でも残っている国道に面して並んだ店や、黄色い日本通運の建物があって、ここに駅があって栄えていた頃を偲ぶことができる。

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 じょうてつバス案内所の向かいには日本通運の建物が今でも残っている。

駅があったあたりの裏手はスポーツ公園と公共駐車場になっている。その一角にポツンと「定山渓鉄道」と書かれたモニュメントがあった。その横には駅舎の礎石だったという軟石の角石が3個置いてあった。

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 定山渓駅だったところ。(11から北方向)

駅舎や駅構内だった場所は整地され、今は定山渓スポーツ公園の一角となっている。

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 ここに駅があったことを示す「さっぽろ・ふるさと文化百選」のモニュメント。

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 駅舎の礎石だったという3個の角石だけが駅の遺品。(11から南西方向)

駅構内奥の電車庫や転車台があったと思われる場所はテニスコートになっている。駅構内の終端は今のじょうてつバス定山渓車庫のあたりで、そこから定山渓小学校の北側を通って定山渓営林署(現在は石狩森林事務所)まで引込線が伸びていた。さらにそこから森林鉄道が豊平峡の奥まであった。

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 実際の駅舎は定山渓まちづくりセンターと駐車場のあたりにあったようだが。

ホテルミリオーネ横の道路の突き当りに「北海道三景之碑」が立っていて、月見橋へ下る坂道がある。定山渓駅を降りた温泉客は当時あった踏切を渡ってここを通って温泉街へと向かっていた。
急坂で階段もあり登り下りは大変そうだが、電車を降りて坂道から豊平川や温泉街を見下ろした景色はどのようなものであったろうか。

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 駅横の踏切を渡った坂道が定山渓温泉の入口だった。

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 駅から温泉街に下っていた「見返り坂」と呼ばれた坂道。

電車があった頃は大勢の人が行き交っただろうが、今は公共駐車場と温泉街を行き来する人が利用するのみ。

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 月見橋から見た豊平川。この時期は空にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。

訪問日:2015/4/25

旧東札幌駅跡地から定山渓まで3日間に分割してですが歩いてきました。当時定鉄の営業キロでは27.2kmですが、途中迂回したところもあるので30km近くは歩いたと思います。
想像はしていましたが、線路跡の消滅は思った以上に進んでいて、現在の地図に旧版地図を重ねたものでも持って行かないと正確な線路跡は分からないところばかりです。その点、地理院地図(電子国土Web)の地形図と空中写真を重ねる機能は大変役に立ちました。

最後に定鉄復活の可能性について。
まあ、無理ですね。真駒内〜藤ノ沢ならば一部を除いて市の管理地のままになっていますが、それ以外は線路跡とはわからないほど変わって、線路跡にも住宅が建ち並んでいます。もし復活するとなると鉄道用地などもう残っていないので、道路地下を通すしかないでしょう。
また、豊滝付近は路盤が崩壊している箇所もいくつかあり、余程しっかりした路盤を作り直すか別ルートで新たに作る必要があります。

せめて藤ノ沢まで地下鉄をというのはあり得なくはありませんが、市の財政や乗客数を考えると難しいのではないでしょうか。地下鉄用地とはいえ、あの辺りは静かな住宅街の中を通っており、実際あんなところにシェルター付き地下鉄の高架が建設されるとなると沿線からは大反対されるような気がします。

それでは最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

おわり

参考文献
さっぽろ文庫11 札幌の駅
HTBまめほん定山渓鉄道
郷土史澄川ものがたり
鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション11



posted by pupupukaya at 15/05/13 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 11回目


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 定山渓鉄道の廃線跡地図 一の沢・錦橋間 その1(地理院地図から作成)

さて犬だが、幸いすぐ家の奥さんが気づいて出てきてくれたので事なきを得た。
地図を片手に持っている私の姿を見ていきなり「定山渓鉄道ですか?」と聞かれ、いきなりだったので逆に驚いた。

聞くと、私のように定鉄跡探訪の人が時々現れるらしい。
あそこに一の沢停留所があったんですが行ってみますかと聞かれたので喜んでお願いした。
停留所近くにあったという石垣や、地中に埋まっていたレールなどいろいろ見せてくれた。

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 一の沢駅があったと思われる場所。(1から北東方向)

奥さんが言うには、この石垣の上を電車が走っていたという。

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 一の沢駅付近の空中写真(国土地理院昭和36年空中写真)

画像中央が一の沢駅、やや左下に廃止された一の沢発電所も見える。

一の沢駅は一の沢停留所といって、ホームと待合所だけの無人駅だった。
他の停留所は殆どが戦後にできたが、ここの開業は大正15年と古い。一の沢発電所の建設工事のために設置された。

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 この辺りを整地するときに「出土」したという軟石。これはおそらく架線柱の土台。

地中に埋まっていた架線柱だったというレールも見せてくれた。
レールには「H.G.R」「CAMMELLS STEEL W 1897」らしき文字が刻まれていた。数字は製造年なので、1897(明治30)年製のレールということになる。

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 これも地中に埋まっていたレール製の架線柱を掘り起こしたもの。左側のレールは「H.G.R」の文字が見える。

帰ってからインターネットでレールの製造元を調べてみた。

「H.G.R」は北海道官設鉄道発注、「CAMMELLS STEEL」はイギリスのチャーリーズキャンメル社製ということらしい。
前にも述べたが、これは電化の際にレールを取り換えた際に古いレールを再利用したもので、大正7年の定鉄開業時に使用されていたレールだ。1mあたりの重さが22.5kgさらにさかのぼれば、元々は国鉄(北海道官設鉄道)の中古品である。

国鉄から定鉄に払い下げられ、さらに架線柱として再利用され、廃止後に根元を残して切断され、近年地主によって掘り起こされたという数奇な運命のレールだ。いずれにせよ大変貴重なものに違いない。

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 右側のレールには「CAMMELLS STEEL」と刻まれている。

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 かすれているが「W 1897」?

家の人はさらにこの先にある鉄橋跡まで案内してくれた。レンガ積みの橋台があった。けっこう深い谷で、ここは築堤で越えるのは無理そうで、鉄橋が架けられていた。横には豊羽鉱山の送水管橋がある。
前に来た人はこの上を歩いて渡って行ったらしいが私は怖くて渡れそうになかった。すぐそばに国道の橋があるので、そちらを迂回することにした。

いろいろ貴重な品を見せていただきありがとうございました。この場を借りてお礼します。

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 一の沢川に架けられた豊羽鉱山の送水管。左にレンガ積みの橋台が残る。(2から南西方向)

さて、再び国道230号を歩く。この付近は線路と国道がほぼ並行していた。百松橋付近は拡幅された国道に取り込まれてしまったところもある。わざわざヤブを漕いでまで歩く必要もない。もっとも、歩道は山側にしかなく、線路跡を辿ると車道を歩くことになる。車は結構飛ばしてくるので怖い。なるべくガードレールの外側を歩くようにした。

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 百松橋のバス停あたりで線路跡の路盤は拡幅された国道に取り込まれてしまう。(3から西方向)

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 歩道のあたりが線路跡だろうか。(4から西方向)右は百松橋。

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 電車からは豊平川の谷川は見えただろうか?(5から西方向)

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 線路跡は国道から離れるが、この辺りは一面笹に覆われていた。(6から西方向)

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 一の沢・錦橋間 その2(地理院地図から作成)

定山渓の手前に山が谷際までせり出した個所があって、ここは国道の錦トンネルで抜けているが、昔は山側の崖が迫る狭いところを線路と道路が通っていた。
国道の拡幅工事はここまで進んでいて、ほぼ完成した新錦トンネルも口を開けていた。線路跡も一部道路に飲み込まれたが、以前ここに大量に放置してあった廃車はきれいに片づけられて逆に歩きやすくなっていた。

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 新たに拡幅される国道に一部飲みこまれる線路跡。(7から東方向)

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 国道4車線化で今の錦トンネルの隣に新しく掘られた新錦トンネル。

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 今は国道は左にカーブして錦トンネルに入るが、旧道はまっすぐ行って定鉄の線路と交差していた。(7から西方向)

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 現在の錦トンネル付近の空中写真(国土地理院昭和36年空中写真)

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 豊羽鉱山送水管の施設らしい構築物がある。(8から西方向)

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 構築物の上から線路跡を見る。(8から東方向)

右方向から国道が通ってきてこの辺りで線路と交差していたはずだ。

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 ここに国道と交差する踏切があったようだ。(9から北東方向)

ここから右(山側)が線路跡、左(谷側)が旧道跡になる。

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 ここに線路と道路が2本並んで通っていた。(9と10の間)

錦トンネル横の崖下を通り過ぎると線路は錦橋駅に向かっていたのだが、このあたりも国道拡幅工事や交差点の付け替え工事ですっかり整地されてしまっていた。それでも等間隔で立っている豊羽鉱山の看板があるので、線路跡位置はおおよそわかる。
ずっと辿って行くと、定鉄お馴染みの丸石をセメントで固めた土留めと川水を流す2本の土管があった。

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 旧小樽定山渓線との交差点付近も工事で大きく変わった。(10から北東方向)

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 眼鏡型の暗渠と石積みの土留めが残っていた。(11から北西方向)

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 土留めのコンクリートには「高島土建」の文字が掘ってあった。施工会社が遺したものだろうか?

交差点の工事現場を過ぎ「眼鏡橋」からしばらくは線路跡とわかる路盤が続いている。しかしその先は定山渓温泉病院が建ち、その向こうも住宅が立ち並んでいた。

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 錦橋駅跡へ続く路盤。(11から西方向)

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 定山渓温泉病院から先は民家の敷地になっていた。(12から北西方向)

住宅地はすぐに途切れ、じょうてつの管理地が現れる。ここがかつての錦橋駅構内であった場所だ。
札幌市雪堆雪場の大きな看板があって、雪山を崩す重機が動いていた。

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 錦橋駅の構内だった場所は今でもじょうてつの管理地になっている。(Lから西方向)

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 バス停に「錦橋」の名称が引き継がれている。

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 錦橋駅付近の空中写真(国土地理院昭和36年空中写真)

錦橋の駅名は西方にある豊平川に架かる橋名から採られた。初めは小樽内川流域からの木材輸送のために設けられたが、昭和14年に豊羽鉱山の専用線が敷かれてから鉱石輸送も行われるようになった。
豊羽鉱山の専用線が昭和38年に廃止されると側線も全て撤去され停留場に格下げになったようだ。

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 錦橋駅の駅舎は今でも土台だけ残っている。(14から西方向)


posted by pupupukaya at 15/05/10 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 10回目


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 豊滝〜定山渓間(昭和43年発行国土地理院5万分の一地形図)

昭和40年代になると230号線豊滝付近の新道や定山渓手前のトンネルも完成する。新しくなった国道に比べ定鉄の線形の悪さが目立つ

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 豊滝・一の沢間 その1(地理院地図から作成)

豊滝駅跡から再び豊滝除雪ステーションまで戻ってきた。ここから国道を定山渓に向かって出発する。
橋の上からは頭上に険しい岩肌を見せる八剣山がきれいに見えた。ヤブを漕いで一汗かいたが、国道に吹く涼しい風に当たって歩いていると汗が引いた。どういうわけかヤブの中は気温が周囲より高いようだ。

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 国道の新盤の沢橋から見た八剣山。

国道の新盤の沢橋を渡ったところから左折して旧道に入る。豊滝神社や豊滝小学校もあって、集落の中心はこの辺りだったようだ。ここからは滝の沢駅の方が近かった。国道から沢伝いの小道を行っても(旧)国道で滝の沢に出ても大差ないような気がするのだが、はたして豊滝駅はあの場所に必要だったのだろうか?

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 国道230号線の旧道。(1から北西方向)

豊滝付近は急カーブが多く、旧道時代は通称「七曲り」と呼ばれた。

旧国道の坂を下ると滝の沢駅のあった場所に出る。ここも駅構内だったところは小金湯と石山を結ぶ市道が貫通しているが何となく雰囲気は残っている。昭和6年に初代駅長が植えた2本の桜の木が今でも残っている。

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 滝の沢駅があった場所。(2から北西方向)

駅舎は無くなったが、初代駅長が植えた桜の木が2本今も残っている。

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 二美桜と名付けられて看板も立てられたが、看板は根元が腐って横倒しになっていた。

滝の沢駅は当初は停留所だったが、電化に伴い交換設備が設けられて駅に昇格した。上下列車の行き違いが主で貨物の扱いは無かった。駅周辺は農家が点在するだけで町は形成していない。当時は乗り降りする人も少なく、山間の静かな駅だったのだろう。
それでもこの辺りは山菜の宝庫で、春や秋には山菜取りの人の乗降が多かったという。また、八剣山の登山口はこの駅が最寄だった。

現在はバス停の名称に「滝の沢」は受け継がれていないが、「八剣山登山口」というバス停があり、八剣山最寄駅の役割はそちらが継いだようだ。

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 滝の沢駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

ここから豊滝駅方向へ行けるところまで探索してみようかと線路跡を行ってみたが、すぐに濃い笹ヤブに覆われていて進めなかった。

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 滝の沢駅から豊滝方向に歩いてみたがすぐに笹やぶに覆われていた。(3から南東方向)

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 上画像の逆方向。空き地になっている場所が滝の沢駅構内だった。(3から北西方向)

滝の沢駅から先はまた新しい道路ができていて、ここも道路敷地に取り込まれたのかと思っていたが、道路わきに線路跡の路盤がそのまま残っていた。地下には豊羽鉱山の送水管が敷設されていて、等間隔で「送水管あり」と書かれた札が立てられている。このおかげで道路にならずに線路跡が残されていたようだ。

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 滝の沢駅跡からの線路跡は豊羽鉱山の送水管の敷地として残っている。(4から北西方向)

線路跡を見ながら道路の方を歩いていたが、橋の下にレンガ積みの橋台が残っているのを発見。戻って線路跡の方に行ってみる。
おお、これは立派な橋台だ。送水管は定鉄の橋台は使わずにその脇に架けられていた。

東札幌からずっと歩いてきて、ここで初めて橋の跡を見つけた。市道の橋の直下なので、車からは見ることはできないだろう。歩いてきたからこその発見だ。まだまだ造りはしっかりとして、この場所では河川改修工事でも行われない限りは残るものと思われる。

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 レンガ造りの橋台を発見。(5から北西方向)

横の水管橋の上はちょっと歩けそうもないのでまた道路の方に戻って橋を渡る。この先も線路跡は続いていたが、道路の擁壁が続いているので線路跡の方に移ることはできない。

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 鱒の沢川に架けられていた鉄橋の跡前後。(6から北東方向)

このあたりの廃線跡は、豊羽鉱山の送水管のおかげで道路には取り込まれなかったようだ。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 豊滝・一の沢間 その2(地理院地図から作成)

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 線路跡は道路右手に並行して見える。(7から北西方向)

向こうには烏帽子岳が姿を現した。おそらく電車の車窓からも見えていただろう。

国道230号線へ出る交差点を過ぎると道路は線路跡と合流する。

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 小金湯温泉へ向かう市道と交差するあたり。(8から南東方向)

小金湯駅は正式には小金湯停留場で、湯治場だった黄金湯温泉(のちに小金湯温泉と改称)への客が多く、当初無人駅だったが後に売店兼乗車券取扱いの駅舎が建てられた。
7月の土用の丑の日には、丑湯の日帰り入浴客で混雑して、応援の駅員も来たという。

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 小金湯付近の空中写真(国土地理院昭和36年)画像中央が駅舎とホーム。

ホームがあったところも、温泉へ向かう市道が整備されて路盤ごと消えてしまっていた。国道のバス停と温泉をつなぐ近道の屋根付き階段が駅っぽい感じがしたが、実際はもう少し先のコンクリートブロックの擁壁あたりにあったようだ。

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 上の画像の反対方向。(8から北西方向)

正面に見える被覆のあたりに駅があったようだが、新しい市道に削り取られて見る影もない。

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 小金湯駅があったあたりは平らに整地されていた。(9から北西方向)

小金湯駅跡から道路から離れて線路跡の路盤が続いている。ここも夏には草が生い茂るのだろうが、豊羽鉱山が送水管敷地として使用しているせいか倒木がないぶん歩きやすい。それでも進むにつれて笹ヤブになってきた。

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 整地された小金湯駅跡からも線路跡の路盤は続いている。(9と10の間)

またヤブ漕ぎかと思いながら歩き進んでいると、脇に何か立っている。近づいてみるとなんと「22」と書かれたキロポストではないか。
キロポストとは線路わきに立てられる起点からの距離を記した標識で、線路であればどこでも必ず存在する。
ここは東札幌起点から22kmの地点になる。3回に分けたとはいえよくここまで歩いてきたものだ。

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 キロポストを発見!(10から北西方向)

ああ、キロポスト。今まで住宅街だったり、ただの道路だったり、あるいはヤブとかそんなところばかり歩いてきたが、このキロポストを見たとたんに何か報われたような気がした。
元々は白く塗られていて、数字の彫ってある箇所は数字が黒く刻まれていたのだろうが、長年風雪にさらされて塗料は剥げてしまっていた。
お前も長いこと苦労したんだなあと思わせる風貌であった。

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 「22」と刻まれたキロポストを発見。

ところでキロポストは木製のものが多いが、定鉄のはコンクリート製になっている。軌道の構造物はあれだけコンクリートを使わずに建設した定鉄だが、なぜかキロポストだけはコンクリート製の立派なものが置かれていた。

ちなみにJR北海道のものは雪で埋まらないようにポールを立ててその先にキロ数を表示している。

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 表面は塗料がすっかり剥げてしまっているが裏は白いまま残っている。

ここまで笹ヤブをかき分けて歩いてきた甲斐があったというもの。キロポストを後にまた歩き出す。
途中からけもの道ができていて、歩きやすくなった。送水管関連の工事が最近行われた箇所があって、そのために刈り取られたようだ。

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 途中から笹が刈り取られてけもの道のようになって歩きやすくなった。(11から北西方向)

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 線路跡の両脇を雪解け水が流れる。(12から北西方向)

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 湿地になってしまった線路跡。(13から東方向)

途中から線路跡は雪解け水が溜まった湿地のようになっていたが、その脇に道があってそっちを歩ける。水芭蕉がいくつか咲き始めていた。
しばらく進むと線路跡の路盤は車のわだちのある道になった。市道ではなくあぜ道のようなものだが。

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 ここからは道になっている。上画像の反対方向(13から西方向)

道の両脇は家庭菜園の用地になっていて、もう畑仕事をしている人を見かけた。持ち主は農作業のときはここで寝泊まりするのかバラック小屋も建っていた。こんなところに土地を持って、週末はここへ寝泊まりしに来るのもいいなあなんて思った。

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 家庭菜園の中を進む。(14から西方向)

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 この先に一の沢駅跡があるはずなのだが・・・(15から西方向)

家庭菜園の畑を過ぎると建設会社の資材置き場のようなところに出た(地図15の位置)。ここから先は私有地のようで、ニワトリが歩いていた。放し飼いらしい犬の姿もあるし、ここからは国道を迂回した方が良さそうだ。

国道の方にむかって歩き出すと犬に見つかった。放し飼いの犬たちが吠えながらこちらに走ってきた。

やばいよ、さてどうなる。


posted by pupupukaya at 15/05/06 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 9回目

前回から1週間、また続きを歩くためにやってきた。今度は定山渓の公共駐車場に車を置いてバスに乗り、簾舞で降りた。
先週は石山から簾舞駅跡まで歩いてきて終了となった。今日はここからリスタートする。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 簾舞・豊滝間(地理院地図から作成)

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 再びやってきた簾舞駅跡の敷地。(1から南西方向)

だだっ広い簾舞駅構内の跡地は立入禁止の表示こそないものの、私企業の所有地になっていて勝手に入るのをためらうような感じがする。
「防犯カメラ」の札もあったが、ここを通らないと廃線跡へは行けないのでちょっと通り抜けさせてもらう。敷地の一番奥まで行くと、林の中にそれらしくなっている空間が続いていたので、これが線路跡だとすぐにわかった。

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 敷地の奥の方は新しい畑とか四阿(あずまや)がつくられていた。(2から北東方向)

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 敷地の一番奥まで行くと、線路跡とわかる路盤が続いている。(2から南西方向)

人里はここでおしまい。ここから線路は豊平川に沿う山肌の中腹を通っていた。
国道はここから一段高いところを通っているが、深い谷がいくつもあって旧道はヘアピンカーブで谷を下って沢を渡り、また登ってという悪路で、「七曲り」と呼ばれていた。いまでこそ高い橋が架けられて直線に近くなっているが、定鉄建設当時はそんな技術も予算もあるはずもなく、豊平川沿いの中腹を通すしかなかったのだ。

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 しばらく進むと四角い土台を見つけた。(3から北東方向)

四角い土台はレールが埋まっていないので架線柱ではないようだ。簾舞駅の場内信号機の土台か?

しばらく行くと石組みの土留めが現れた。河原の丸石を積んだだけで、おそらく大正7年の開業時から使われて今まで残っていたものだろう。

石山からずっと歩いていてきて思ったが、定鉄の線路は極力コンクリートを使わずに建設されたことがわかる。
定鉄の発足は大正2年に「軽便鉄道敷設免許申請」の提出に始まった。その後建設が始まるも、ただでさえ資金難なところに山岳地帯で地形が複雑なため工事費がかかり過ぎた。結局、急勾配や急曲線だらけの軽便鉄道並みの路線になってしまったようだ。

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 雪は無くなったが、笹や倒木が多くて歩きにくい。(4から南西方向)

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 河原の丸石を積んだだけの石垣。(4付近)

石垣は、それにしても100年近く崩れもせずよくぞ持ちこたえてきたものだ。

豊滝付近ではいくつもの沢を渡ることになるが、このあたりの路線では橋を架けずに盛土で谷を埋めて線路を通していた。下に土管を通して川を流していた。
そのひとつ空沢川の沢にさしかかったところで、築堤が大きく崩れてえぐられたようになっていた。まだ3分の1ほどは残っていて渡るのには問題は無いが、崩れた土はむき出しになっていて、今でも少しずつ崩れているようだ。あと何年かしたら完全に崩れて無くなっているかもしれない。

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 空沢川上の築堤は3分の2ほど崩れてえぐられていた。(5から南西方向)

沢を越えたら倒木のほかに笹ヤブも加わった。
覚悟はしていたが、倒木を避けたり跨いだりしながら進んでいくと何でこんなことしているんだろうという気持ちがわいてきた。

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 ひたすら笹やぶと倒木との戦い。もう嫌になってきた。(6から南西方向)

それでも今さら引き返すわけにもいかず進んでいくと、架線柱の土台を見つけた。線路跡の遺物を見つけると嬉しい。ヤブをかき分けてきた甲斐があったというものだ。

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 架線柱跡。このほかにもいくつか見つけた。(6と7の間)

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 これはなぜか根元から20cmほど残したタイプ。(6と7の間)

谷側は断崖になっていて、まだ冬芽の木々の隙間から豊平川が眼下に見え隠れしている。定鉄が走っていた頃はこんなに木は生い茂っていなかっただろうから、眼下に豊平川を見てその向こうは八剣山がそびえるという景勝だったに違いない。

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 林が途切れて豊平川と八剣山が見えた。(6と7の間)

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 谷側にあった丸石とセメントで作った土留め。(6と7の間)

線路跡が右に大きくカーブして国道に近づく箇所があるが、新しくできた国道230号の擁壁が立ちはだかっていた。線路跡は道路の法面に取り込まれてしまっていた。壁伝いに行けないこともなさそうだが、ヤブ漕ぎもうんざりしていた。脇に上へ通じる作業用の通路があったのでそこから国道に出ることにした。

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 国道230号線の擁壁に塞がれてしまった線路跡。(7から南西方向)

国道へ出るとなんと気持ちが良いことか。歩きやすいし、また高いところを通っているので橋の上からの眺めは何と良いことか。
橋の上からは線路跡の築堤がはっきりとわかる。国道の擁壁が終わったところにある沢の線路跡築堤は完全に崩れてしまっていた。もし国道に上がらずにあのまま進んでいても引き返さざるを得なかっただろう。

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 国道の橋から見た板割沢。(8から北方向)

線路跡は完全に崩れて無くなってしまっている。

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 これも国道の中の沢橋からの眺め。(9から北東方向)

断崖の中腹に沿って走る線路跡が一望できる。

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 中の沢の暗渠はまだ残っていた。この上を定鉄の電車が通っていた。

豊滝除雪ステーションはトイレや自販機もあるので、ここで少し休憩する。

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 立派な建物の豊滝除雪ステーション。

以前は「道路情報館」として展示室もあったがいつの間にか無くなった。今はトイレと自販機だけ稼働している。

ちょうど豊滝除雪ステーションの下あたりに豊滝駅があったようだ。
豊滝の人家は昔から国道沿いの高台にあり、定鉄の線路は段丘の下で、ここよりだいぶ低いところを通っていた。昭和36年撮影の空中写真を見るとわかるが、国道から豊滝駅までは細い道が駅方向へ向かってあり、途中からは沢沿いに駅まで下っていたようだ。

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 豊滝駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

丸囲み箇所が豊滝駅ホーム。

除雪ステーションの斜面の下に小さな沢がある。この沢に沿って駅への道があったようなのだが。
ちょっと行ってみたくなった。ここまで来て豊滝駅だけ行かずに通り過ぎるのも勿体ない気がした。

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 豊滝の集落と豊滝駅をつなぐ道があったと思われる沢。(10から北東方向)

道と行っても、けもの道のようなものだったと思われる。沢の右岸は道としては残っていないが歩けないこともない。
途中からだんだん歩き辛くなってきた。この先に堰堤もいくつかできていて道は無くなったのだろう。

しょうがないので沢の上へよじ登る。山の斜面はヤブもなく下まで歩いて行けそうだ。
しばらく歩いて行くと、どうも道路跡のような感じになってきた。途中でヘアピンカーブ状になっている所があって、木が生い茂っているが道路跡で間違いない。これが豊滝駅に通じていた道路なのだろうか?

道なりに下って行くとどうもここが線路跡らしい。一面笹で覆われていて、駅跡と分かるものは何もなかった。

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 なんとなく道跡らしき路盤が現れた。ずっと線路跡へ下っている。

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 豊滝駅のホームだったと思われる場所。(11から東方向)

奥の一段低いところが線路だったと思われる。

さっき歩いたの沢があった。当時はこの沢を跨いでホームがあったようだ。ここの路盤も崩れてしまっていて、地中に埋まっていた土管があらわになっている。ここが駅跡で間違いないようだ。

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 ホームはこの沢を跨ぐように設けられていたようだ。(11から北西方向)

豊滝駅は正式には豊滝停留所といって、ホームと待合所だけの無人駅だった。
開業は昭和23年。地元の人たちの要望で設けられた。当時は定鉄のほかには「七曲り」の国道230号しかなく交通が不便だったところだ。しかし国道が整備され定鉄バスが運行されると、集落からかなり離れた駅は利用者がほとんどいなくなったようで、晩年は朝2本、夜2本計4本しか電車が停まらなくなっていた。
今ならば「秘境駅」のひとつになっていたに違いない。

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 豊滝駅ホームだったとおぼしき場所に立ってみる。

正面には八剣山がそびえ立つ。カーブの向こうから電車が走ってくる姿を想像した。

ここから滝の沢駅跡まで線路跡を歩こうか、また山を登って国道に戻ろうか考えたが、前後は笹がびっしりと生えている。また、行く先は除雪ステーションから投げ捨てられた雪が山のようになっていた。あきらめて国道に戻ることにした。


posted by pupupukaya at 15/05/06 | Comment(2) | 廃線跡・未成線

定山渓鉄道跡を歩く2015年 8回目

下藤野から定鉄の線路は河岸段丘に沿って豊平川の断崖上へ向かっていた。

藤ノ沢から下藤野まではすっかり宅地化されて定鉄があった頃の形跡はほとんど消えてしまっていたが、ここからは自然に還ってしまった廃線跡をめぐることになる。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 下藤野・簾舞間その3(地理院地図から作成)

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 市道と線路跡(1から北西方向)

線路は下藤野駅から河岸段丘に沿って池見学園の裏へ向かっていた。
線路の土手は白川浄水場に向かう市道が通ったために削られてしまった。

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 線路跡は池見学園の建物が増築されている。(2から北西方向)

定鉄の線路は池見学園の裏、土手の上を通っていたが、今は増築された学園の敷地が通せんぼして通り抜けることはできなかった。
2万5千分の1地形図には池見学園の裏あたりから破線道が描かれている。そこから廃線跡へ行けるのではないかと土手の下の道を歩いて行くと山の斜面を登って行くけもの道があった。ここから廃線跡へ登れるようだ。(地図3・4の間にある赤破線)

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 線路跡へ登るけもの道。(3から南西方向)

けもの道を登ると送電線の鉄塔が建っていた。どうやら送電線の管理用の道だったらしい。
ともかく、ここから東簾舞駅跡までの廃線跡になる。

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 登ったところは送電線の鉄塔があって草も刈り取られている。(4から西方向)

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 曲線を描くように石垣があってまさしくこれは線路跡。(4から西方向)

地形図では線路跡に破線の道が描かれているが、とても歩けるような道ではなかった。進むにつれて笹やぶや倒木が折り重なり歩くのに難渋する。
それでも左側に続く石垣は定鉄時代のもので、また右側から見える豊平川の眺めも良く、電車からの渓谷沿いの景勝の車窓を想像させた。

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 豊平川に沿って走る電車からは渓谷鉄道のような車窓であっただろう。(5から北西方向)

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 線路跡はだんだんひどい状態になった。(5から少し西に進んだあたり)

笹やぶをこいで倒木を避けながら歩いてきたが、だんだん残雪が多くなってきた。日の当たらない場所は雪解けが進まないようで、また雪の上に乗ると足が埋まってしまう。スニーカーの軽装ではこの先進むのは難しくなった。
しかし、ここまで来て引き返して遠回りするのも馬鹿らしい。

左手の土手の上は230号線の旧道がずっと並行している。ここから土手をよじ登って道路に出た。
廃線跡と違って道路を歩くのはなんと楽なことか。
道路はほぼ廃線跡と並行しているので、終始確認しながら歩くことができた。ほとんどが笹に覆われていた。

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 線路跡に沿った崖の上には旧国道が並行している。(6から西方向)

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 旧国道から見下ろすと線路跡と分かる路盤が見える。(7から北西方向)

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 旧国道は架け替えられた御料橋付近のT字路にぶつかる。(8から西方向)

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 東簾舞駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

画像中央の踏切右側の建物が東簾舞の駅舎。

旧国道と御料橋を渡って国立南病院へ向かう道路が分岐するところに東簾舞駅があった。
昭和26年に国立南病院の便を図るために無人の東簾舞停留所として開業するが、昭和30年に住宅兼駅舎を設けて駅員を配置し停留場に昇格された。

その後定鉄は廃止されるが、定鉄バス路線は今の国道230号線(新道)に移されており、病院最寄りの交通機関が無くなってしまった。その後病院利用者からの要望もあり、市営バス定山渓線が旧道経由で運行されることになった。
国立南病院も無くなり、市営バスもじょうてつバスに移譲されて現在に至っている。

駅と病院を結んでいた御料橋も新しく東側に架け替えられて道路も付け替えられたために、このあたりもすっかり変わってしまった。

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 東簾舞駅があった場所(9から南西方向)

このあたりも道路の付け替え工事で様変わりした。
雪山の場所に駅舎があったようだ。

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 簾舞の旧国道は街道のような雰囲気が残っている。

ここでちょっと寄り道して旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)へ行く。
通行屋とは、明治時代に開拓のために開拓使が主要道路の要所に設置したもので、早馬の乗継場所として、また旅行者や入植者の宿泊所としての施設であった。

建物の内部は簾舞郷土資料館となっている。
ここでの見どころは、定山渓鉄道関係の展示物で、簾舞駅で使われていたタブレット閉塞機など貴重な品を見ることができる。ちなみに入場は無料。
定鉄の廃線跡めぐりをする際はぜひ立ち寄りたい施設だ。

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 旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)。

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 簾舞駅で使用していたタブレット閉塞機。

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 定鉄の制帽。

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 記念きっぷや定期券など。

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 電車の側面に取り付けられていたサボ(行先表示板)。

黒岩家住宅を後にしてまた歩き出す。
ここからの廃線跡は完全に道路になっていた。
石山から小金湯まで続いている市道で、混雑する国道230号線のバイパスとして整備された道路だ。信号も無く、国道を行くより断然早い。私もよく利用させてもらっている。

しかし、定鉄の遺構がまた一つ消えたのはそれはそれで悲しいことだ。

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 簾舞川にはレンガ造りの橋台がずっと残っていたが、ここも道路になってしまった。(10から西方向)

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 定鉄「簾舞川鉄橋」モニュメント。

レンガ積みの橋台があった場所は新しい道路橋が架けられて線路跡など見る影もない。
橋のたもとには橋台のレンガを使用したモニュメントが建っていた。旧簾舞通行屋保存会による建立とあった。
一昔前ならば古い時代の遺物など葬りさられてしまったのだろうが、近年は郷土史を見直そうという機運が高まっているようで、こうした形でも定鉄があった頃の記録を残して行こうという気持ちは嬉しく思う。

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 「簾舞通行屋橋」と名付けられた橋の下には橋脚の跡が顔をのぞかせていた。

道路となってしまった線路跡だが、このあたりまで来ると田園風景が広がって、定鉄があった当時と変わらない風景が見られる。

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 この辺りは田んぼがまだ残っている。のどかな風景。(Jから北西方向)

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 道路は右へカーブして砥山橋へ向かうが、線路は緩やかな左カーブで簾舞駅へ向かっていた。(12から西方向)

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 簾舞駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

ほぼ中央の建物が簾舞駅の駅舎。

線路跡を完全に飲みこんだ道路と別れ、ここからは旧簾舞駅構内となる。
電化される前の汽車時代は給水、給炭設備もあって、定山渓へ向かう列車は乗務員も乗客もこの駅で一息入れてから発車したという。
また、定鉄唯一のホームでの立売があった駅でもあった。電球型をした「発電もなか」はすこぶる好評だったとか。

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 定鉄廃止後は長らく原木を積み上げた貯木場となっていたが今は空き地のようだ。


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 駅舎があったとおぼしき場所にはゴミステーションの小屋が建っていた。(13から南西方向)

今日の定鉄廃線跡歩きはここで一旦終了することにします。来週改めてここからスタートしたいと思います。
歩いて国道まで出て、簾舞バス停からバスに乗り、車を置いてある石山までもどりました。

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 国道にある簾舞のバス停。
訪問日:2015/4/18


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定山渓鉄道跡を歩く2015年 7回目

藤ノ沢駅跡付近までは地下鉄南北線の将来延伸予定地ということで保留地が多く、廃線跡めぐり的には良い状態を保たれていたと言える。
ところがここから先は札幌市による買収もなされず、宅地用地として切り売りされたらしく地図上でも痕跡をたどるのは難しい。

幸い、今はインターネットで閲覧の地形図に昔の空中写真を重ね合わせる機能ができたために、当時の線路がどこをどう通っているかかなり正確に解るようになった。
ここからはその地図を見ながら、様変わりした線路だった場所を歩いてみようと思う。

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 藤ノ沢・簾舞間その1(地理院地図から作成)

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 藤野沢川を渡る。線路跡だったところは遊歩道の橋が新たに架けられている。(1から西方向)

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 藤ノ沢駅があった頃から変わらない「ふじのストアー」と「藤野沢簡易郵便局」。

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 バス回転場所は藤野3条2丁目が終点の便が使用する。(2から西方向)

バス回転場所は元は「藤の沢」というバス停で市営バスが使用していた。隣は南消防署藤野出張所でこれも市の施設。地下鉄をここまで延伸した際はバスターミナルにする予定だったのかもしれない。

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 ショッピングセンターになった線路跡(3から西方向)

「カウボーイ」改めトライアルの敷地内に取り込まれてしまった。
この辺りは藤野地区のショッピングセンターといったところ。最近はちょっと寂れたようだが。

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 不自然に斜めになった道路区割りに線路があった名残りを残す。(4から西方向)

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 十五島公園駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

画像中央の建物が駅舎だった。

十五島公園へ向かう炊事遠足の小中学校生の団体は藤ノ沢駅を利用していたが、アクセスを良くするため、また定鉄の住宅分譲地のために昭和34年に十五島公園停留所が設けられた。定鉄としては2番目に新しい駅であった。
最盛期は小中学生を乗せた臨時電車も出たが、廃止近くにはバスに移行したという。

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 十五島公園の標柱が建っていた。駅舎はもう3軒ほど西側にあったようだが。(5から西方向)

藤ノ沢駅跡を過ぎ、現在のトライアルやホーマックのあたりを過ぎると、廃線跡とわかるものは何もなくなってしまった。
地図上で不自然に斜めになった道路区割りから何となく線路跡を想定できるだけで完全に宅地となってしまった。

廃止になった時代遅れの電車など完全に葬りさられてしまったかのようだが、この地を走っていた定鉄電車を郷土史として残そうという動きが近年出てきたようで、駅跡には地元の人の手によって駅跡を示す標柱が建てられていた。

しかしこの標柱も本来駅があったと思われる場所からはズレた場所に建っていた。駅跡がほとんど民家の敷地内になってしまった今では勝手に敷地内に建てるわけにもいかず、やむを得ずこうなったのだろう。

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 駅名は国道のバス停名称に引き継がれている。十五島公園バス停。(6から東方向)

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 ここも完全に東光ストアの敷地に取り込まれている。(7から東方向)

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 左側の民家がちょうど線路跡になるようだ。(7から西方向)

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 藤野郵便局の裏手に河岸段丘の斜面があって、ここを線路が通っていた。(8から東方向)

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 はっきりとした形では残っていないが、この辺りから線路跡らしき雰囲気は各所に現れる。(8から西方向)

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 藤野みどり公園の南端が線路跡。塀が住宅に対して斜めになっているのが線路の名残。(9から東方向)

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 公園の中を通ってきた線路跡はアパートに突き当たる。

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 アパート下にある軟石の土留めは定鉄時代のもの?(10から東方向)

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 アパートの先で野々沢川に突き当たる。

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 何の変哲もない住宅地だが、ここは初代下藤野駅があった場所。

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 「下藤野停留所跡」の標柱(12から西方向)

標柱は東野々沢川の手前にがあった。
しかし実際は下藤の停留所は川向うにあったはずだが。

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 家が建っているが川縁の擁壁は線路の土手の形をしている。(12から南方向)

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 下藤野駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

ピンク丸は下藤野駅の場所、水色丸は旧下藤野駅とおぼしき場所。

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 本当の下藤野駅があった場所。(13から東方向)

下藤野駅跡も何の変哲もない住宅地になっている。
下藤野停留所として開業したのは昭和23年だが、当初は約300m東寄りにあった。野々沢川沿いにある人家のために設けられたのだが、定鉄の藤野団地が造成されることになり、昭和34年にこの場所に移転してきた。移転に当たっては賛否があって住民とかなり揉めたようだ。

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 ここも河岸段丘の上を線路が通っていたようだ。(13から西方向)

宅地化されて住宅地の中になってしまったが、道の反対側には駅裏という雰囲気が無くもない。




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定山渓鉄道跡を歩く2015年 6回目

先週末は東札幌駅跡のイーアスから石切山駅跡まで歩いてきました。
あれから1週間、今回は近くのショッピングセンターまで車で来て、そこから石切山駅跡までやってきました。

さて、ここから定鉄跡歩きをリスタートします。

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 石切山駅裏の公園には汽車の形の遊具があった。電化前の定鉄の汽車を模したものだろうか。

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 定鉄廃止直前、藤野・簾舞あたりはまだ農地が多い。定鉄廃止後に宅地化が進み国道の渋滞も慢性化するのは皮肉な話。(昭和43年発行国土地理院5万分の1地形図)

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 定山渓鉄道の廃線跡地図 石切山・藤ノ沢間(地理院地図から作成)

出発する前にちょっと石切山について語ってみる。

石山地区の鉄道は定鉄が初めてではない。「札幌石材馬車鉄道」の馬車鉄道が明治43年に札幌から現在の石山通を南下し、今の硬石山バス停のあたりから豊平川を渡って石切山駅のあたりまで開通していた。現在の札幌市電の前身である。石切山はそのころ穴の沢と称していたようだ。

札幌市内へ運ぶ軟石はこの馬鉄と呼ばれるトロッコを馬に牽かせていたが、大正7年に定鉄が開通すると石材の積み出しは鉄道に移り、道内で広く販売されるようになり建築業界に大きく貢献することになる。反面馬車鉄道は廃止になった。

昭和19年、千歳飛行場の滑走路強化のため対岸の硬石山から砕石を輸送するために豊平川を渡る引込線が設けられた。終戦の日まで1日も休むことなく千歳まで砕石を積んだ貨物列車を送り出していた。このころが石切山駅のピークであったのだろう。

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 石切山駅付近の空中写真(国土地理院昭和23年米軍撮影)

戦後、駅舎が増改築されているが、コンクリートに押された軟石は用途を失ってゆく。当然石材の輸送もなくなってしまった。
札幌軟石を切り出していた山は現在石山緑地として公園になっている。

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 旧石切山駅前後は市道になっている。(1から西方向)

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 市道は石山小学校手前の川で終わっている。(2から西方向)

真駒内から藤ノ沢までは地下鉄延伸予定地として札幌市が保有している。しかし、延伸計画が白紙状態のままなので道路に転用されたり、学校敷地になったりしたほかは未使用の空き地となっている。

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 石山小学校の北側(3から西方向)

札幌市水道局の所有地で芝生になっている。
左側の一段高いところを線路は通っていた。

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 未舗装の道になるがここに面した家は無い。公道ではないのかも。(3と4の間)

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 水道局敷地から続いた未舗装の道は国道230号線石山通の擁壁に突き当たる。(4から西方向)

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 230号線から廃線跡を見る。今にも電車が現れそうな雰囲気。(5から東方向)

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 230号線と交差する線路跡(5から南西方向)

線路跡と交差する部分だけ中央分離帯が設けられてある。
地下鉄を建設したらここに高架の橋脚を立てる予定だったのかもしれない。

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 国道から先も廃線跡とわかる空き地が続いている。(5から西方向)

石山通を超えると線路跡は雪山が結構残っている。道路わきの空き地は格好の雪捨て場になるのだろう。
ここからオカバルシ川までの区間は特に良い廃線跡だった。河岸段丘の縁に敷設された線路の跡は土地の再利用も難しいようで、それが却って廃止から今まで手も付けられずに路盤が残ってこれたようだ。

しかし線路跡の脇には真新しい杭が打ち込んであるのを各所で目にした。近々遊歩道でも整備されるのだろうか。
ずっと空き地のまま放置しておくのは勿体ないし、あまり好ましいこととは言えないが、風情ある廃線跡がどこにでもある遊歩道になってしまうのもどうかと思う。

どっかから古レールを持ってきて、小樽の手宮線跡地のような遊歩道にすればいいのになと思った。そんなカネどこにあるんじゃー!という声が聞こえてきそうだが。

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 うーんいかにも廃線跡。いいねえ。(6から東方向)

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 線路跡は河岸段丘の斜面にそってじわじわと登って行く。(7から西方向)

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 5から8までの区間は特に良い状態で廃線跡が残っていた(8から東方向)

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 8の位置からは道路が並行することが多くなり、線路跡は花壇などにされていたりする。(9から西方向)

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 すっかり宅地化されたが、定鉄の跡地だけはずっと連続して空き地になっている。(10から南西方向)

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 この先にあるオカバルシ川で一旦途切れる。(11から南西方向)

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 オカバルシ川からさっき歩いてきた線路跡を振り返る。(12から北東方向)

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 オカバルシ川を越えても線路跡は続く。(12から西方向)

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 ここからは藤野東公園の遊歩道となる。柵で仕切られたが、石垣はそのまま残されていた。(13から西方向)

定鉄跡を歩いていて気が付いたが、土留めに用いられている建材は丸石が本当に多い。
大正7年に開業した定山渓鉄道は当時財政事情は良くなかった。定山渓までの山岳地帯の複雑な地形は工事費が掛かりすぎた。費用を切り詰めるために曲線や勾配だらけの路線となってしまったこともあるが、土留めにしても費用を切り詰めたことを窺わせる。

当時高価であったコンクリートを極力使わず、豊平川の河原でいくらでも採取できた丸石を資材として活用したのだろう。

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 野球場では早くも少年野球の練習試合が行われていた。(14から西方向)

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 藤ノ沢駅付近の重ね図(国土地理院昭和36年空中写真と現在地形図)

画像中央「消防」文字の下の建物が藤ノ沢駅舎。

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 公衆トイレがあるところが駅前広場で、その奥に駅舎があったようだ。(15から北方向)

藤ノ沢駅のあった辺りは藤野東公園として整備されている。
国道沿いもこの辺りは山と公園に挟まれたパッとしない場所だが、地図を見ると山の方から坂を下ってくるとこの辺りに出てくるような道路区割りになっていて、駅があれば案外発展していたかもしれない。

戦前は付近の農家からの豊富な農作物や果物の輸送で、戦後は藤の沢女子高(現在の北海道文教大学・明清高校)の通学輸送の駅だった。東札幌や豊平からこの駅まで通学専用電車も運転されていたようだ。

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 「藤ノ沢駅跡」の標柱が建つ。


posted by pupupukaya at 15/04/26 | Comment(0) | 廃線跡・未成線
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