旧手宮線と小樽運河を歩く

6月27日の日曜日は快晴だったので小樽に行ってきました。

当初は買い物に行こうと車で出たわけですが、あまりにもいい陽気に誘われて、ついつい小樽まで車を走らせてしまいました。

小樽と言えば、一昨年までは某アジア系観光客ばかりになって、ここは日本か?と思いたくなるような場所になってしまって足が遠のいてしまっていましたが、観光客が減ったいい機会に小樽を散策して来ようと思ったわけです。

一度歩いてみたかったのが旧手宮線線路跡。

手宮線は、1880(明治13)年、北海道初の鉄道として、全国で3番目の鉄道として開通。
その後は貨物専用となったり、また旅客輸送が復活したりを繰り返したが、1962(昭和37)年を最後に旅客営業は休止して、以降は貨物線となった。
全線廃止は1985(昭和60)年のこと。

以降は長らく線路が放置されていたが、2001(平成13)年から遊歩道としての整備が始まり、2016(平成28)年には寿司屋通りから小樽市総合博物館本館手前まで完成している。

私は草生したり、駐車場代わりにされたりした手宮線跡は知っているが、遊歩道となった手宮線はまともに歩いたことが無かった。
前述の理由から、小樽自体から足が遠のいていたのもある。

そんな手宮線の跡を手宮から歩いてみた。

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旧手宮駅手前の踏切跡。4本の線路がアスファルトの中に埋まる。
デコボコして車は走り辛そうだ。

昔(2000年頃)、やはり手宮線探索でこの辺りをウロウロしていたら、近くに住んでいる爺さんに呼び止められて色々話を聞いたことがあった。
この踏切は昔は貨物列車の入れ替え作業が多く、あかずの踏切と呼ばれていたこともあったそうだ。

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手宮線の線路跡はタンポポが満開。
一面黄色に染まっていた。

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右へ寄ったり左へ寄ったりする遊歩道。
線路に背を向けた家々が往時を偲ばせる。

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人道踏切の跡。

小樽は晴れの日はあまり似合わないと思う。
寂れっぷりが際立って、一層侘しく見える。

小樽を歩くなら、どんよりとした曇りの日がいいな。

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臨港線の踏切。
さすがにここは線路は埋められてしまっていた。

車が多いのでここは渡ることができない。
すぐ脇に横断歩道があるのでそちらを渡る。

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臨港線を渡ると街中らしくなる。

ここは竜宮通りの踏切跡。
道路と交差する箇所でも、線路が残されているのが小樽らしい。

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軟石造りの踊場ミレー。
昔は小樽市内に数多くあったという社交ダンスホール。
小樽の街を歩いていると、時が止まったような街角が現れる。

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手宮線跡は南小樽駅から旧手宮駅までLRT(次世代型路面電車システム)として復活させる構想もあったようだ。
しかし実現することは無く、遊歩道として整備されることとなった。

こうして見ると、昨今増えてきた芝生軌道のようにも見える。
向こうから古びた電車が現れても違和感を感じないような気がする。

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小樽駅から延びる中央通りとの交差箇所は不自然な勾配がある。
これは中央通りが拡幅された際に路盤を削ったためにできたもの。

拡幅前の中央通りは、手宮線踏切を越えると急な下り坂となっていて、その部分は石畳となっていたのを思い出す。

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旧色内駅手前の枕木積みの土留めは、同駅のホームの名残り。

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旧色内駅舎を模して設けられた休憩所。
昔はここは色内交番があった。

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浅草通り(日銀通り)の踏切跡に残っていた踏切標識と警報機。
奥の重厚な建物は旧日銀小樽支店。

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浅草通りにもレールが残されている。

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寿司屋通りの手前で旧手宮線遊歩道は終点。

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寿司屋通りで分断される手宮線跡。
通りの向こうは草藪と化していた。
この先南小樽駅手前まで線路は続いているはずだが、歩くのは難しかろう。

レンガ積みの幅広の橋台は、かつて手宮線が複線だった頃の名残り。

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手宮線跡から寿司屋通りへは階段で降りられる。

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カフェや土産物屋が連ねる堺町本通りは、緊急事態宣言が終了して観光客が戻ってきたようだった。

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色内大通りと浅草通りの交差点には旧金融機関のビルが立ち並ぶ。
小樽港に多くの船が出入りして、北のウォール街と呼ばれた色内。

金融関係機関は小樽郵便局だけ残し、あとは美術館や博物館に転用されている。

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小樽運河といえば、ここ浅草橋からの眺めが定番。

一昨年までは記念撮影台が置かれ、写真屋がいて、修学旅行なんかでの記念写真の定番だった場所。
コロナ前はここを車で通ると、某アジア系の観光客がこぼれんばかりに溢れていたのを思い出す。

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小樽運河の定番写真だけど、人が少なければ悪くない眺め。

倉庫の壁の赤いマークは旧澁澤倉庫の社章。
創業者は今度1万円札の肖像画になる渋沢栄一。
新たなスポットとなるといいね。

橋から運河と倉庫を眺めていると、今と同じ時期に旅行したスウェーデンのヨーテボリの街を思い出した。
あそこも小樽と同じ運河のある港町だったなあ。

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中央橋から小樽運河を眺める。
運河沿いに石造りの倉庫が立ち並ぶのは浅草橋から中央橋までの300m足らず。

昔はこの裏側に、浜小樽駅からの貨物引き込み線があった。
小樽駅から中央橋を渡って第3埠頭まで行く間に、手宮線、埠頭への引き込み線の踏切があったなあ。

橋の上から運河を眺めていると、私が子供の頃は悪臭立ち込め、老朽船が放置されているドブ川だったと思い出す。

その後下水道が整備され、半分は埋め立てられて道路になったけど、こうしてきれいに整備されて小樽は世界的な観光地になったのは結構なことだ。

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石積みの倉庫群とは別に、運河沿いに異様な4階建てのビルが現れる。
これは北海製罐第3倉庫。小樽運河のもう1つの象徴でもある。

1924(大正13)年建築の鉄筋コンクリート造り。
小樽出身のプロレタリア作家小林多喜二は、小説『工場細胞』でこの建物をこう表現する。

“その一角に超弩級艦のような灰色の図体を据えていた。それは全く軍艦を思わせた”

2020(令和2)年には老朽化のため解体されそうになったが、小樽市の申し入れで1年間の猶予が与えられた。
保存には巨額の資金を投じて保全工事を行う必要がある。

コロナ禍で観光客が激減した厳しい状況の中、果たして保存されるのだろうか。

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こうして見ると、何やら軍艦のような容姿にも見えてくる。

製品を上げ下ろしするリフト。
歯車に架かるチェーンは外れて錆び付いてしまっている。
もう動かなくなって久しいのだろう。

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倉庫から運河の船に製品を滑り降ろすスパイラルシュート。
北洋漁業盛んな頃は、ここから缶詰用の缶を降ろして船に積み込んでいたのだろう。

こんな遺構をみて往時を想像してみたら、子供みたいにワクワクしてきた。
私が子供の頃に稼働している倉庫の姿を見たら、きっとギラギラと目を輝かせていつまでも眺めていたに違いない。

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臨港線が山の方に曲がって行くと、ここからが本来の小樽運河となる。
奥の古い建物は北海製罐の工場。

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北海製罐第3倉庫と橋剛制作『友達』の像。

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昔ながらの形で残る北浜橋。
中央通りに架かる中央橋もこんな橋だったと思うが、あっちのは臨港線工事で架け替えられた新しい橋。

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鉄筋コンクリート建ての北海製罐工場は1931(昭和6)年建築。
直線を強調した昭和初期のモダニズム建築を今に伝える。

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浅草橋から続いた小樽運河はここが終点。
この少し先が手宮となる。

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小樽市総合博物館本館の手宮口脇の柵から覗くと、アイアンホース号が運転されて賑わっていた。
ちょっと寄ってみたくなったが、

“札幌市全域にお住まいの方に関しては、令和3年7月11日までの期間、当施設への入場はご遠慮ください”

との張り紙があり残念。

でも館内は賑わっているね。
ところで皆さん一体どこから来たのだろうか。

〜おわり

posted by pupupukaya at 21/06/27 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

石狩鉄道を探しに続編

前記事石狩鉄道を探しに の続編です。
過去に存在した札幌と石狩を結ぶ鉄道計画。その痕跡を探そうというものです。

前回は石狩市親船町の海岸林の中に眠る石狩鉄道の築堤を見に行ったが、今度は石狩駅予定地を探しに石狩本町地区まで行ってきた。
ここに起工式が行われた石狩駅予定地があったのだ。

北海道新聞1959(昭和34)年5月19日の記事から引用する。

“石狩鉄道やっと起工式”

“札幌と石狩を結ぶ鉄道建設の免許はとったものの資金難から着工が危ぶまれていた石狩鉄道の起工式が十八日石狩町浜町の同鉄道石狩駅設置予定地で行われた。”

石狩駅の予定地は石狩町浜町とある。
はて?浜町?・・・

浜町は本町の市街地を過ぎて人家が途切れるあたりから浜町となる。

計画では石狩駅の桑園起点のキロ数は22.520kmとなっていて、地理院の地図上に鉄道建設予定線上に線を引いて行くと、今の弁天歴史公園の裏、あるいは旧石狩展望台のあたりがその場所になった。
誤差はあるだろうが、当時の立地を考えればこの場所で納得がいく。

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 地理院地図上に石狩鉄道予定線を引いてみると。

この場所は、旧渡船場から浜へ向かう道と交差するところ。
当時は石狩河口橋も無く、対岸の八幡町との間は渡船で通っていた。
駅の場所としては申し分ないところ。

しかし、ここの住所は弁天町で、浜町はまだ300m以上も先。
駅舎はここに設けられることになっていたが、機回しや貨物のための引き込み線もこの先まで伸びるはずで、その終端が浜町にだったということになる。

一応終着駅の構内端まで駅構内ということになるが、ここが起点という意味で浜町で起工式を行ったんだろうか。

同記事には、

 “日本海に面した砂丘の石狩駅予定地で神式により行われ”

の一文もあり、日本海に面した砂丘となるとやはりここだなあ。
今は生い茂った林になっているが、起工式を行った当時は海を望む砂丘だったはずで、その後防風林の植林が進んで今のようになっている。

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 旧石狩展望台下の道路から日本海を望む。

石狩市WebGIS で見ると、ここから100mほど北の1区画が新町の飛び地となっていて、その1区画が整地されたような地形になっている。

もしかすると、新町と浜町を間違えた?
まさかね。

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 ここに石狩駅ができるはずだった? 弁天歴史公園から北東方向。

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 坂道を下って突き当りが旧渡船場となる。

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 老朽化のため立入禁止の石狩展望台。

石狩駅予定地については手掛かりになるようなものは見つからなかった。
浜町よりは弁天町のこのあたりの方が辻褄があうんだけどなあ・・・というのが結論。


もう一方、気になるのは札幌側の動き。
石狩と札幌を結ぶ鉄道なので、札幌市側でも当然用地買収や測量が行われていたはずで、それについては旧石狩町内の資料には何も書かれていない。

所詮は幻の鉄道。石狩町内だけの動きで終わってしまったのか。

と思っていたら、意外な所にその記録があった。
その資料は『新川郷土史編纂委員会発行新川郷土史』。

石狩鉄道による鉄道敷設計画の動きがあったとすれば、当然その記録がどこかに残っているわけで、この郷土史に同鉄道による用地取得劇が記載されていた。

石狩町内は海岸林や防風林用地をうまく利用して通り抜けてきたが、札幌市内に入るとそうはいかない。
石狩鉄道が立ち上がり、その役員が新川の地主のもとへに交渉にやってきたのは、まだ起工式も行われていない1958(昭和32)年のこと。

新川郷土誌によると、翌年には買収価格など具体的な交渉が始まったようだ。

この用地交渉も難航したようで、駅舎敷地を寄付とすることや営農に支障が出る北琴似駅手前のカーブ部分の用地取得は特に反対が多かったという。

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 石狩鉄道完成予想図。
(新川郷土史編纂委員会発行新川郷土史より引用)

昭和30年代前半の北区の新川や新琴似はまだ完全な農地だった。
市電の北端もまだ北24条だった頃、鉄道が開通して駅ができると聞いても、農家にとっては半信半疑だっただろう。
相手は国鉄ならばともかく、資金もロクにない地方鉄道。

郷土史には、その後用地取得に至ったかまでは書いていないが、その後石狩鉄道へ町有地の売却をめぐって町議会からの追及、株主から社有地の不正売却の追及を受けるなど、鉄道工事着工どころではなくなっていた模様。

石狩鉄道株式会社は1963(昭和38)年には社名を札幌臨港鉄道株式会社と改めて、東京の建設会社の手で石狩町側の工事を再開する。
その頼みの建設会社も不渡手形を出して工事からは手を引いてしまうのだった。

この頃は既に鉄道からバス・トラックへという時代になっていた。
石狩鉄道発足時は、札幌からの交通は冬季になるとバスが運行できず、花畔から雪上車や馬橇に乗り換えるような時代だった。
冬季の交通確保という意味でも、鉄道は切実な願いだっただろう。

しかし、あれから数年で道路事情が格段に向上することになる。石狩への国道231号線も舗装工事が進み、莫大な資金が必要な鉄道は必要とされなくなっていた。

もし開業していれば都市鉄道として・・・というのは後出しの結論で、当時は札沼線でもローカル線に過ぎなかったし、この11年後には定山渓鉄道も廃止になっているなど、地方鉄道は凋落の時代だった。

札幌臨港鉄道は同時期に本社を東京に移し、不動産会社として存続することとなった。
この当時の石狩鉄道にまつわる出来事を各資料から拾い出して時系列にまとめると以下のようになる。


昭和31年10月 石狩鉄道株式会社設立 資本金1000万円
昭和32年5月 運輸大臣より札幌北拾条〜石狩間地方鉄道の免許を取得
昭和32年6月 札幌市新川の地主に土地買収の話が来る
昭和33年3月 資本金4000万円に増資
昭和33年7月 新川〜石狩間で分割工事の施工認可
昭和33年9月 払い込み実態のない空株や役員個人名義の借入金を肩代わりなど杜撰な経営が明らかに
昭和34年5月 浜町の石狩駅設置予定地にて起工式を行う
昭和36年4月 資金難で建設目途つかず 工事施工認可期限を7月まで延期
昭和36年6月 高野建設(本社東京)と工事契約
昭和37年5月 株主総会で決算書の不正疑惑の追及
昭和38年4月 社名を石狩鉄道株式会社から札幌臨港鉄道株式会社へ改める
昭和38年5月 高野建設子会社の国土開発工業によって石狩起点側の土盛り工事開始
昭和38年7月 札幌臨港鉄道の本社を札幌から東京の国土開発工業内に移転


石狩鉄道設立から札幌臨港鉄道と名を変え不動産業へと転向するまでの7年余り、鉄道開通の夢は資金調達のための粉飾に奔走しただけで終わったようだ。

鉄道事業免許は新会社に引き継がれたが、社名に託した石狩湾新港の臨港線としての望みも絶たれ、1998年には最後まで残った新川〜石狩の鉄道事業免許も廃止されている。

新川郷土史にあった石狩鉄道完成予想図を基に地理院地図に改めて線を引きなおしてみた。
札幌市内はどのようなルートを取っていたのだろうか。

最初は西札幌駅をカーブして新川と並行する線を引いたが、今度は新琴似1番通りに並行する。
桑園起点のキロ程に当たる場所に点を落として駅の予想箇所とした。

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 石狩鉄道完成予想図より作成のルート図、北琴似〜南線
(地理院地図を加工して筆者作成)

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 石狩鉄道完成予想図より作成のルート図、西札幌〜北琴似
(地理院地図を加工して筆者作成)

最後に石狩鉄道の駅が設置されるはずだった場所の今を見てみよう。

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紅葉山駅予定地。
花川の住宅地を斜めに横切る防風林に沿って鉄道が通るはずだった。
ここは藤女子大学花川キャンパスが近い。あと石狩南高校が1kmほどの場所にあり、きっとこの駅は学生が多かっただろう。

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北琴似駅予定地付近。
場所はスーパーアークスの裏手に当たると思われる。
学校は札幌国際情報高校が近い。ここも学生が多く乗り降りしてたんだろう。

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周りは住宅地になったが、ここだけは牧場が残る。
石狩鉄道はここを斜めに通って、カーブを描いて新琴似一番通りに並行することになる。
今から60年以上前の用地交渉において一番難航したのもこのあたり。

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新川駅予定地。交差点が駅舎が建つはずの地点になる。
新川高校へは1.1km。ここも学生が多かっただろう。

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ロードサイト店舗がならぶ新川駅予定地付近の新琴似一番通り。
もし石狩鉄道新川駅ができていたら、この辺りは商店街として発展していたかもしれない。
麻生から花川へのバス路線となった四番通り(道道865号樽川篠路線)よりもこっちが栄えていた可能性もある。

昭和30年代初頭の当時と、発展した現在とそのまま対比してもしょうがないが、石狩鉄道の駅予定地を回ってみると、当時のルート選定はなかなか先見の明があったと見える。

90度のカーブで札沼線に寄り添ったところが西札幌駅の予定地だった。
今のJR新川駅の約300m札幌寄り。
ここから札沼線に並行して桑園駅へ向かうことになっていた。

桑園から札幌へは国鉄乗り入れを折衝していたほか、一時期は高架か地下鉄で都心乗り入れという大風呂敷な構想もあったようだ(昭和36年6月8日道新記事より)。

もし、石狩鉄道が実現していたら、現在のJR新川駅や八軒駅、また複線高架化もどのようになっていたのだろうと想像する。
国鉄末期までローカル線然だった札沼線に先んじて複線電化の鉄道となっていたかもしれない。

以上、夢幻に終わった石狩鉄道のまとめでした。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。


posted by pupupukaya at 21/05/03 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

石狩鉄道を探しに

石狩鉄道と聞くと、かつてどこかにあったような気がするような路線ですが、実際に鉄道として存在したことはなく、今回は未成線の話です。

石狩の今の本町地区は、古くから石狩川河口の河港として、また石狩川の水運の拠点として発展していた。
交通の拠点だった町も、道内の鉄道網が発達するとその役目を終えることになる。

そんな石狩に鉄道を誘致する運動は明治時代からあったようだ。
大正時代、昭和戦前と形を変えて何度も鉄道誘致運動が起こるが、どれも実ることはなかった。

鉄道敷設が事業として動き出すのは戦後になってからのことだった。

1953(昭和28)年に石狩港が地方港湾に指定されたのを契機に、当時の石狩町によって鉄道敷設の動きが始まる。
その年後の1956(昭和31)年には、石狩鉄道株式会社が設立される。
その発起人総代は、当時の石狩町長だった飯尾円什氏だった。

その翌年には石狩鉄道に対し、運輸大臣より札幌市北10条から石狩郡石狩町に至る間に地方鉄道を敷設して旅客と貨物の運輸営業の認可が下る。

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 札幌〜石狩間鉄道免許状。
 石狩湾新港史(財団法人北海道開発協会)からの引用。

これにより、悲願だった石狩への鉄道敷設が初めて具体化することになる。

同社による『札幌−石狩間鉄道計画書』によると、
旅客輸送は1日の運行回数を10往復で1日輸送人員1600人、貨物輸送はディーゼル機関車3両を配置し1日5往復というところまで計画されていた。
貨物の主な品は、当時は年々増産していた石狩炭田から産出される石炭で、これを石狩鉄道経由で石狩港に運び、船で各地に移出するという想定だった。

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 『電鉄予定線』が記された石狩港造成計画図
  石狩湾新港史(財団法人北海道開発協会)からの引用。

動き出した石狩鉄道だが、当初から資金難で工事開始すら危ぶまれる状況だった。

資本金4000万円に対して実際に払い込まれたのは石狩町民が出資し合った270万円と町が現物出資した土地を1500万円に評価して歳入した分だけというものだった。

資金不足で工事着工もできず、工事施工認可の期限切れが迫る中、1959(昭和34)年5月には、石狩町浜町の石狩鉄道石狩駅予定地で起工式が行われている。

その後も幾たびも工事の延期願いを運輸省に申請して免許は継続し、実際に工事着工となったのは着工式から2年後の1961(昭和36)年になってからだった。

一部工事にも着手したものの、その頃には資金面や運営のゴタゴタで行き詰っていたようだ。

鉄道開業の目途が立たなくなった石狩鉄道株式会社は、1963(昭和38)年に社名を札幌臨港鉄道株式会社と改められ、地方鉄道業免許は引き継がれたが、鉄道よりも不動産事業にシフトしてゆくことになる。


さて、計画された石狩鉄道だが一体どのようなルートで計画されていたのだろう。

実は石狩図書館へ行って色々探してみたが石狩鉄道に関しての資料は見つからなかった。

その代わりネット上で 未来鉄道データベース に札幌臨港鉄道(未成線)路線図として略図を見つけ、各駅のキロ程を参考に地理院地図上にルートと駅予定地を入れてみたのがこちら。

予定駅名とキロ程は同サイトからの引用、ルートは筆者の想定です。

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 桑園〜石狩のルートとキロ程1(地理院地図より筆者作成)

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 桑園〜石狩のルートとキロ程2(地理院地図より筆者作成)

 ※注、上のルート図は2021/5/2に差し替えました。

地理院地図の作図機能を使い、ルートと思しき線を引いてみた。
駅(St)の場所は、線引きで営業キロの該当する場所に点を落としたもの。

桑園からは学園都市線と並行し、現:新川駅付近から新琴似1番通と並行し、現在の新川高校付近から北上して花川南防風林に沿う。

道道石狩手稲線と交差してしばらく道道と並行し、花畔手前から防風林沿いに北上。
西浜手前で道道小樽石狩線に近づくルートだったようだ。

石狩本町の砂丘上を通って石狩駅予定地に達するとすれば、旧渡船場からの道と交差するあたりが終点の22.520km地点ということになった。

さて、以上を踏まえた上で以下の画像をご覧いただきたい。

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 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真(1976/8/29撮影)から一部引用。

1976(昭和51)年撮影の空中写真。
道道小樽石狩線に並行して、林を伐採して道のようなものが作られているのが見える。
上画像を拡大したのが下の画像。

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 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真(1976/8/29撮影)から一部引用。

よく見ると、林が切り拓かれて築堤のようなものが作られている。
林の中にカーブを描いている築堤の正体は何だろうか。

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  地図・空中写真閲覧サービスの空中写真(1976/8/29撮影)から一部引用。

長さは800mくらい、幅は並行する道道と比較すると5m前後といったところ。曲線半径は地理院地図の作図機能で測ってみると約350mとなった。

これを見て真っ先に思いつくのが廃線跡。
先に挙げた石狩鉄道を知っていれば、建設途中で放棄された未成線跡ということになる。

いつ頃作られたものなのか、過去の空中写真から探ってみる。
以下に1961(昭和36)年撮影の空中写真と、1966(昭和41)年撮影のものを比較してみる。

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 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真(1961/5/2撮影)から一部引用。

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 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真(1966/7/7撮影)から一部引用。

1961(昭和36)年撮影の画像には件の築堤は存在しないが、1966(昭和41)年撮影の画像にはカーブを描いた築堤があるのがわかる。
上記の空中写真から推定できるのは、この築堤は1961年〜1966年のどこかで築かれたものだということ。

石狩町誌下巻(平成9年発行)によると、

“分割工事施工認可を札幌陸運局より受けて一部工事に着手したりしたが、同(筆者注:昭和)三六年に至って挫折に終った”

の一文があり、これ以降は鉄道敷設の進展はなかったと読んでとれる。
これにより、空中写真の築堤は謎の物件となる。

じゃあ何だろう。
堤防?防潮堤?にしては貧弱な気も。導水管でも埋まっているのか?

やっぱり石狩鉄道など幻の路線だったのかと思いかけた頃、別の新聞記事を見つけた。

1963(昭和38)年7月9日の北海道新聞の記事。
『いつ走る“石狩鉄道”』の見出しで、記事中に

“五月五日から石狩起点側の土盛り工事にとりかかった”

の一文がある。
だとすると、築かれた年代は上の空中写真と一致する。この謎の築堤は石狩鉄道建設の遺構で間違いない。

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 石狩鉄道の未成線跡と思しき築堤とルート図(地理院地図より筆者作成)

その築堤は今でも残っているのだろうか。

グーグルの衛星画像で見ても、林が開かれて道筋らしきものは確認できるが、築堤があるかどうかまではわからない。
そこで、実際に行って確かめることにした。

雪解けを待って藪が生い茂る前の4月の中旬、そこへ行ってみたのだった。

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道道小樽石狩線側から浜へ伸びている小道を行くと、熊笹に覆われているが築堤らしきものを見つけた。
笹をかき分けて進むと、先は金網の柵でふさがれていた。

よく見ると金網には扉があって、カギは付けられていない。
写真を撮るだけですから、何もしませんからと入らせてもらう。
並行する道道を走るクルマの音がひっきりなしに響くのでクマはいないだろうけど、放し飼いの番犬でも出てきたら嫌だな。

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しばらく進むとはっきりと築堤とわかるようになった。
築堤は笹に覆われて、所々に枯葉をまとったカシワの木が見通しを塞いでいるが、南へ向かっているのがはっきりとわかる。

低い部分には、もう姿を消したと思っていた雪がまだ残っていた。冬は日本海から吹き付ける雪の、吹き溜まりになっていたのだろう。

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築堤の高さは地面から膝上くらいまで。ざっと見で50cmくらい。
築堤の幅は路盤上で4mくらい。
知らない人がこれを見たらまさしく廃線跡だろう。

去年(2020年)春に廃止になった札沼線北部も、あと50年も経てばこうなるのかなあと思わせる。

もし石狩鉄道が実現していたら、電化されて都市鉄道としてここに電車が走っていたに違いない。

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熊笹の途切れた部分は砂があらわになっていた。
この辺りは砂地でカシワの海岸林となっている場所。
カシワ林を切り拓いて、砂を盛っただけの築堤のようだ。

当時、他所から土砂や砕石を持ってくるほどの資金は無かったのだろう。
もし鉄道開業が実現していても、軽便鉄道並みの脆弱な路盤では維持管理もままならず、線路改良工事にまた莫大な資金が必要になっていたものと思われる。

紆余曲折を経て工事着工まで取り付けたが、砂を盛った路盤が一部完成しただけで放棄。
それから58年の時を経て、ここに公開されることになった。

その一方で、年々拡大する札幌のベッドタウンとして大規模な宅地開発がおこなわれ、また石狩湾新港をはじめとする道央の一大工業地帯として年々発展する石狩町。

都市として発展する石狩は、地方鉄道よりも大量輸送ができる都市鉄道を要望するようになる。
1975年頃には地下鉄南北線の石狩町への延伸、1985年には都市モノレールの導入で札幌市と結ぶ構想が出る。

1998(平成10)年に石狩市は『石狩市軌道系交通等事業化調査(概要報告書)』という冊子を発行し、それによると札幌市と石狩市を結ぶ軌道系交通機関として地下鉄麻生駅または栄町駅から石狩市役所までを結ぶモノレール案が掲載されている。

また同書にはJR発寒駅から分岐して、追分通〜花川南防風林を経由して石狩市役所へ行く普通鉄道のルートも記載されていて興味深い。

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 石狩市軌道系交通等事業化調査(概要報告書)より引用。

石狩モノレール計画は一向に実現する気配がないが、市制を敷いたばかりのこの頃は、発展する石狩市の将来を見据えて本気で軌道系交通機関の導入を考えていたのだろう。

この冊子が発行された同じ年、石狩鉄道から引き継いだ札幌臨港鉄道は、新川駅予定地と石狩駅予定地の間に残っていた鉄道事業免許を失い、会社も解散している。

石狩が夢見た鉄道開業。
しかし現実はそれを許さなかった。

そんな夢の跡が、道道小樽石狩線から200mと離れていないカシワ林の中にひっそりと眠っているのだった。


posted by pupupukaya at 21/04/17 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

廃止半年後の札沼線

5月7日付で廃止となった札沼線。
「付」とは、実際には北海道はコロナ禍の緊急事態宣言の対象となったため、4月17日新十津川駅10時発の列車が最後の運行となっていたからだ。
あれから半年がたつ。

コロナ禍で突然の打ち切りといった格好になったがその後どうなったのだろうか。

最初に新十津川駅へ。
駅前はイベントがあったのか、人だかりができていた。トラックの荷台にトレインマークが乗せられて多くの人が見送っていた。
駅前広場は仮設テーブルの片づけ中。
調べると今日は『新十津川駅89年記念祭』というイベントが行われていて、時間が10:00から14:00まで。
駅に来たのが14時半だったので、既に終わったところにきたわけだった。

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 人だかりができていた新十津川駅前。

人だかりとトラック荷台のトレインマークは5月6日に運転されるはずだった列車のもので、営業終了が急遽前倒しになったために幻のヘッドマークとなったものだ。

今日だけはイベントのためにホームが解放となっていたので撮影させてもらう。

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 看板類が取り払われていた新十津川駅ホーム。

ホームはパイプ柵で囲われて、駅名標の表示板は撤去されているが、そのまま残されている。
残されているというか放置という方が正しいのか。
駅舎もそのままの姿で残されている。

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 ホームから見た駅舎。こちらは営業当時のまま。

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 観光案内所として復活していた旧手小荷物窓口。

新十津川駅に発着する列車が1日1本になった頃からこの駅にやってくる客が増えだしたようだ。
それ以前は町民からも忘れ去られ、町はずれにある荒れた無人駅という印象だった。

廃止が決定してからはさらに訪れる人が増え、町側も駅舎内に観光案内所を設けたり、駅前でイベントを実施したり、それまで地味な農業町だった新十津川町の、それなりに観光スポットにはなっていたようである。
こうして廃止後も観光スポットとして旧駅を活用したりイベントを行って人を集めたり情報発信するのはいいことだ。

と思っていたら、道新電子版の記事にこんなのがあった。

新十津川駅、誕生日の10月10日で終幕 来年度中に駅舎取り壊し 閉鎖日まで「軌跡展」
 (どうしん電子版 9/18)

どうやら今日のイベントは駅舎閉鎖のために行われたようで、来年度(2021年度)中には解体されるとある。
廃止になったおかげでこれだけ有名になったのに残念なことだ。
色々検討した上での決定事項なのだろうし、古い駅舎を維持管理するとなるとそれなりにお金もかかるので致し方ないことは理解できる。

旧江差線の旧江差駅舎も町の再開発の一環で取り壊されて、今は旧駅前広場に碑が立つだけとなっている。
去年(2019年)仕事で江差まで行く機会があり実際に江差駅跡を見たとき、あれだけ廃止反対をして、廃止が決定したら名残り乗車客がたくさんやってきて駅前でイベントまでやって名を知られるようになったのに、廃止後は冷酷なことをするものだと思った。

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 下徳富駅。

続いて向かったのは下徳富駅。
ここも木造駅舎が残っている。大型の農業倉庫に囲まれた場所にひっそりとある目立たない駅。今はすべてトラック輸送だが、貨物列車があった時代は米の積み出しで忙しかったということがうかがえる。

駅前は若干の集落があるが、市街地は国道275号線のほうにある。
3往復時代はこの駅から新十津川までの乗客が地味にあったようだ。

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 下徳富駅の駅舎内部。

駅舎の戸は南京錠で施錠されていた。ガラス窓から中はうかがえる。
待合室のベンチはそのまま置かれ時が止まったようだ。

今は外から窓越しに中をのぞくことができるが、この辺りは豪雪地帯。窓ガラスの破損防止のために窓はすべて板でふさがれることになるだろう。
中を覗き込めるのも今のうちだけだ。

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 下徳富駅のホーム側。

営業中当時からホーム側は草生して廃駅のようだったが、こうして改めて見るとしっかりとした造りだ。
新十津川駅や他の駅と違って完全無人化が早かったためか放置されたままとなっていた。
それが逆に原形のまま残っている数少ない駅舎となっている。
あれこれ手が入っている新十津川駅より、個人的には下徳富駅のほうが昔の駅らしくて好きだった。

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 踏切に面して簡素なホームだけの南下徳富駅。

南下徳富駅は吹きさらしのホームだけの駅だ。
手前側が木造の低いホームで奥の方がコンクリート製の立派なホームになっている。もともとは1両分に満たない木造ホームだけだったところにあとからコンクリート製を増設したのでこうなったのだろう。
鶴沼駅もこんな感じのホームだった。

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 まだ踏切の形が残っていた。

通常は廃止になると通行の邪魔なので踏切部分の線路が真っ先に撤去されるが、ここはまだ残されていた。
廃止後は『列車は通りません』旨の看板が設置されるのだが、どういうわけかそれもない。

もう何年も列車の通らない日高線の踏切も似たようなものだが、違うのは踏切の『×』型の標識が撤去されていること。
日高線のは遮断機は撤去されているが、バッテンの標識は残っているので一時停止をしなければならない。

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 線路は立入禁止の柵が設けられていた。

柵さえなければまたここに列車が通るような気がしないでもない。
いずれは線路が撤去されることは間違いない。跡地は深名線のように農地になるんだろうか。
数年後にここに来たら、もう線路があったことがわからないくらいにまで変わっているだろう。

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 まだ原形のまま残っている石狩月形駅の駅舎。

石狩月形の駅舎は意外にも営業当時と変わらない姿で、しかも待合室もバスの待合所として開放されている。どこの駅もホームへは柵でふさがれて立入禁止の看板があるが、この駅にはそうしたものはなかった。

札沼線の代替バスは月形駅で分断され、石狩当別駅〜月形駅間は下段モータース、月形駅〜浦臼駅間は美自校観光バスによる運行になる。
時刻表を見ると石狩当別行が1日9本、浦臼駅行は1日5本。本数だけ見ても鉄道として維持してゆくのは限界だったことがわかる。

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 駅舎入口の張り紙。

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 看板類が撤去されたほかは営業当時のままの待合室。

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 線路が錆びている以外はそのままになっている駅構内。

石狩月形駅に立入禁止の柵がないのは、駅の裏側へ通り抜ける通路として開放しているからなのだった。
裏側は団地が立ち並んでいて、住民にとっては近道ができるようになったので便利になったことだろう。
そしてこれは近い将来駅舎が取り壊されることのフラグでもある。

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 ホームとを結ぶ構内踏切は、駅反対側と行き来する住人の通路になっていた。

月形町には、新たに交流施設を併設したバスターミナルを建設する計画があるようだが、その候補地の1つとして石狩月形駅の敷地が挙げられている。
仮にバスターミナルが別な場所にできても駅舎は取り壊され、この場所に団地と町を結ぶ道路ができるだろう。

老朽化した駅舎を保存するなどというのは鉄道ファンならではの発想で、普通の感覚であれば廃止になった駅施設など市街地を分断するだけの無用の長物でしかない。

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 駅南側の踏切から見た石狩月形駅構内。

あと3年もすればここに駅があったこともわからなくなっているんだろう。
駅南側の踏切跡は、ここは線路が撤去されて舗装されてフラットになっていた。

踏切跡をウロウロしていると結構車がやってくる。
駅裏の団地から正面側の町に行くにはこの踏切跡を通るしかないためだ。
住民にとっては駅舎など早く解体して道路が開通してほしいところだろう。

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 ポイントの手前で切られた線路。

踏切部分で切られた先にポイントがあって、ためしにトングレールを押したら動いた。
ポイントも廃止後は固定されてしまうものだが、ここのは器具を外してただ放置という感じだ。
踏切もそうだが、廃止後もなかなか手が回らないといったようにも見える。

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 貨車駅だった中小屋駅駅舎。

次が貨車駅の中小屋駅。
貨車駅とは貨物列車の車掌車を改造して駅舎を指す。
JR化の前後あたりに無人化された木造駅舎が次々に置き換えられた。

貨物列車のコンテナ化で国鉄末期から大量に余っていた車掌車を活用する、当時としては画期的なアイデアだったのだろうが、30年も経てばこれも老朽化して問題となってくる。
貨車駅は撤去して新たな待合所を建て直す駅も出てきた。中には貨車駅のまま驚くようなリフォームをした駅もある。

ここも立入禁止の柵が設けられていたが、貨車駅の出入り口には柵がないのでここからは出入りできると解釈して中に入ってみる。

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 貨車駅の内部。

札沼線では石狩金沢、本中小屋、中小屋の3駅が貨車駅となっていた。
ここも中に入る戸は南京錠で施錠されているので外から中をのぞく。

貨車駅は見た目にはかわいらしいが、実際は夏は暑いし虫は飛んでいるし狭いしあまりいい印象はない。

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 中小屋駅のホーム。

ここも線路が錆びている以外は変わっていない。
ひっきりなしに車が通る国道とは違って時が止まったような空間だった。


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 中小屋駅南側の踏切。

中小屋駅南側にある踏切跡は線路は切断して撤去しているが、警報装置は残っている。
ここもバッテン型の標識が撤去されているので踏切ではありませんということだ。

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 早くも草が侵入してきた線路。中小屋駅南側の踏切から。

踏切から南側を見ると、早くも草が線路に覆いかぶさるようにして生えているのが見えた。
来年の夏ごろに来たら、線路上を覆うようになっているかもしれない。
鉄道に限らないが、人が来なくなると途端に草が生い茂るようになるのは不思議だなあ。

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 札沼線のホームだった1番ホームは残る北海道医療大学駅。

最後は札沼線の終点となった北海道医療大学駅。
ここから札幌までは電化され、本数も多くなり鉄道の本領発揮の路線となる。

ホームは2本あって、1つは札沼線の浦臼や新十津川まで直通する1番ホーム。もう1つがこの駅で折り返す列車専用の2番ホームになる。
多くの列車は2番ホームに発着するが、1線だけではさばき切れないようで、2番ホームも電化されている。
駅に掲示の時刻表を見ると、1日9本が1番ホーム発着となっていた。

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 石狩金沢の名称が消え、終着駅となった医療大学駅の駅名標。

もうここは札沼線ではなく学園都市線の駅。
札沼線があったことなど誰も気にも留めてないだろう。
駅名標は『いしかりかなざわ』の表記がない新しいものに変えられていた。

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 ホームの先に車止めが設置された。

1番ホームの先には車止めが設置され、その先で線路が切られて架線を支えるための新たな電柱が建てられていた。

札沼線、思えば地味な路線だった。
札幌から北海道医療大学までは都市鉄道として生まれ変わったが、あとは沿線の町同士を結ぶだけの路線だった。
観光客が乗るようなこともなく、特に見るべき車窓もなく、並行する国道275号線を走る車に次々と追い抜かれる。
運炭路線のように華やかりし時代もなければ、急行列車が走ったこともなし。
石狩平野の米どころをただトコトコと走っているだけの路線だった。

いちばん脚光を浴びたのが、皮肉なことに路線の廃止ということになる。

ローカル線に客を呼び込む一番の方法は何か?
それは廃止イベントを行うということにほかならないのであった。

〜最後までお読みいただきありがとうございました。


posted by pupupukaya at 20/10/17 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

旧増毛駅と鉄道廃止後の盛況

留萌本線の留萌〜増毛間に最後の列車が走ったのは2016年12月4日。早いもので廃止から今年で3年になろうとしている。

旧増毛駅の駅舎は、増毛町がリニューアルして保存することになった。
駅前の歴史的建造物と合わせて新たな観光拠点とするため、建物は大正時代の開業当初の大きさに復元して保存するということだった。

新しくなった旧増毛駅がどのようになったのか。
2019年7月6日と7日。機会があったので見てくることにしました。

廃線前は増毛町を車で通るたびに駅に立ち寄っていたものだが、その過去の画像と現在の画像を定点対比でご覧ください。

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 ↑ 2014年6月撮影。 

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 ↑ 2019年7月撮影

駅舎正面から。
手前の四角い建物は公衆トイレで、これが建ったのは90年代だったかな。

札幌から国道231号線を車で走ること2時間以上、増毛駅はちょうどよいトイレと休憩場所でもあった。
リニューアル後はこのトイレも含め、一体感のある感じに仕上げてある。

せっかくリニューアルした旧駅舎も、この建物が前面にあるおかげで存在感も半減している気がする。
せめて移設するなどしてほしかった。

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  2014年6月撮影。

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↑ 2019年7月撮影 

ホームから駅舎方向を見る。
レールが錆びているのと電柱が撤去されたほかは当時のまま。

上画像は雑草が伸び放題だが、下のは草が刈られて手入れされているようだ。

廃車になった気動車を保存車として展示すれば観光スポットになったかもしれないが、こうしてまた列車が現れるかもしれない雰囲気にしておくのもまた違った良さがある。

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 2014年6月撮影

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 ↑ 2019年7月撮影。 

駅舎は倍の広さに増築されていた。

かつては駅事務所や荷物扱い所などがあった場所だが、駅無人化で不要になり取り壊されていた部分が復活したことになる。
増築した部分は鉄道が現役時代の写真などが展示されたギャラリーとなっていた。

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 ↑ 2016年10月撮影

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 ↑ 2019年7月撮影

駅舎のホーム側。
上画像は無人駅化から30年以上経ち、荒れた感じが否めない。

リニューアル後は映画のセットのようにも見える。
こうして新旧見比べると、柱は新品に取り換えたらしい。

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 ↑ 2015年9月撮影

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 ↑ 2019年7月撮影

屋根の下から線路側を見る。
荒れた感じがするとはいえ、上の画像はまだ現役の頃。1両の列車が見える。

有人駅だったころは、乗客は改札口からこの屋根の下を通ってホームへ向かっていた。

奥の車が駐車してあるスペースは、ここも線路が何本も並んでいた。
無人化で貨物列車も無くなり、線路1本だけの棒線駅となった。

見違えるように綺麗になった駅だが、列車が来ない駅はやはり寂しい。

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2015年9月撮影

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↑ 2019年7月撮影 

駅舎の待合室。
映画『駅』でも印象的な、真ん中の銀色の柱はちゃんと残っていた。

待合室と旧事務室を仕切っていた壁は取り払われて広々となった。
個人的には、旧改札口の出入口はそれっぽくディスプレイしてほしかったが。

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2015年9月撮影

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 ↑ 2019年7月撮影 

駅前の風待食堂。これも映画『駅』のロケで使用された建物。
観光案内所として活用されている。

2019年に訪れたときは、半分が『駅STATION』で居酒屋『桐子』のスタジオセットを再現した部屋がある。
最初見たときは、なんだ半分はテナントになったのかと思ったほど精巧にできている。

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2014年6月撮影

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 ↑ 2019年7月撮影

駅前の通り。
撮影場所は若干違うが、奥の古い建物は旧商家丸一本間家。

同じ休日の画像でも、通りを歩く人の数が全然違う。

   

この日増毛を再訪して思ったのは、観光客の多さだった。
7月の休日で天気も良かったせいもあるのだろうが、増毛ってこんなに観光地だったっけ、と目を疑うほどだ。

かつての増毛駅前と言えば、古い建物が立ち並び、ただ朽ちはてて寂れた商店街、それに無人駅で荒れるがままの増毛駅という感じだったのだが、鉄道廃止後のこの変わりようはすごい。

増毛の観光客が増えたきっかけは、やっぱりあれしかない。

そう、留萌本線の留萌〜増毛間の廃止である。

廃止が近くなると多くの乗り納め客があちこちから駆け付けた。
そのころから、増毛の町中に観光客が増えだしたのだ。

鉄道の廃止というのも、マスコミなどで取り上げられて話題になったのも、増毛の名が知られるようになった理由の一つだろう。

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 休日は多くの乗り納め客が増毛にやってきた。(2016年10月撮影)

もちろんそれだけが理由ではないだろう。

増毛駅周辺に、北海道遺産に指定された古い建物が多数残っていたこと。
もう一つが、旧増毛駅の無料駐車場の存在も大きい。

車で来た観光客はここに駐車することで、歩いて各スポットや飲食店を回ることになる。
町の一番奥にあった駅を駐車場とし、観光拠点とすることで、回遊性が増したことになる。

観光の魅力だけでなく、ここは札幌と留萌を結ぶ国道231号線の途中にあるという地の利もあるだろう。

ともあれ、鉄道の廃止というイベントがきっかけで観光客が増えたとすれば、何という皮肉だろうか。

観光客のそぞろ歩く増毛の旧駅前を見ていると、鉄道ファンとしては悔しいが、鉄道の存続よりも、廃止イベントで観光客への知名度を上げた方が得策ではないかと思えてきた。

具体的な駅名は挙げないが、木造駅舎があって国道からも近く、増毛駅のように整備すればそれなりに観光スポットとなるだろうなと思う駅はいくつかある。
そのどれもが、現役の鉄道駅であるが故に町の整備計画からも外れて中途半端な存在となっているのは残念に思う。

暴言は承知で言わせてもらえば、無理に鉄道の存続にこだわるよりは、廃止後に過去の産業遺産として保存し、観光スポットとした方が町の発展になるのでは、と思われた。

〜最後までお読みくださいましてありがとうございました。

posted by pupupukaya at 19/07/15 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

廃止1年後の江差線4

木古内町側の最初の駅が吉堀駅。
現役時代から草むらの中の駅という感じだったが、あまり変わっていない。

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草に覆われた吉堀駅。ここも貨車駅だった。

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雑草が生えていかにも廃線跡らしい。綺麗に線路が残っていた神明駅とは対照的。

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無人駅だが、吉堀から湯ノ岱まで13kmにわたる峠越えに備えて保線基地であったようだ。

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お寺の境内を列車が走るとして有名だった禅燈寺踏切。

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唯一完全な形で残っていた踏切だった。

最後の駅が渡島鶴岡駅。札幌から車できたので江差駅側からの訪問になったが、起点側から辿れば木古内を出て最初の駅。

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渡島鶴岡駅の待合所。

今までは上ノ国と宮越を除いてどの駅もオレンジ色の板で塞がれていたが、渡島鶴岡駅の待合所はずいぶんと中途半端な塞がれかたをしている。一応ドアの部分に板が打ち付けられて中に入れないようになっているのだが、窓は塞がれていないので中が丸見えだ。見られて困るものがあるわけではないが。
ここで板が足りなくなったけどまあいいやという感じがしなくもない。

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建物の中も丸見えである。

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立派なコンクリート製のホーム。

渡島鶴岡駅は木古内から2.3km。遠くには北海道新幹線の高架橋も見える。
木古内駅へ向かう途中で脇道に入り、新幹線と在来線が分岐する部分が見える丘へ寄ってみた。

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江差線廃線跡と北海道新幹線の高架橋。

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完成している新幹線と在来線の分岐部分。新幹線は直進し、貨物列車は分岐して道南いさりび鉄道経由となる。

新幹線は既に試運転も行っているので線路は完成している。去年来たときは新幹線の線路は分断されていたが、着実に開業へ向かって進んでいるようだ。

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海峡線と江差線の分岐部分にある踏切。

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江差線の廃線跡が右に分岐して行く。まっすぐ行くのは海峡線で、新幹線と合流する。

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レールは一部切断されているがポイントはまだ残っていた。動かないように鎖錠されているんだろうけど。

最後は木古内駅へ行った。駅舎は後方の新幹線駅に合わせたデザインに改築されて、去年とは様変わりしていた。

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新幹線に合わせたデザインに改築された木古内駅。駅前の工事はまだ続いていて、開業に間に合うんだろうか。

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木古内駅の4・5番ホームは函館方面への気動車発着専用になり、江差方の出発信号機は×印が取り付けられた。

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函館行「白鳥93号」が入ってきた。8両編成だが、がら空きだった。

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新幹線開業後は道南いさりび鉄道の駅となる木古内駅。

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江差方面の文字が消えた案内表示。

〜廃止1年後の江差線 おわり〜
posted by pupupukaya at 15/06/14 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

廃止1年後の江差線3

今朝目覚めると雨が降っていた。天気予報を見ると雨は夜のうちだけで昼間は晴れるようだ。
雨が上がるのを待って道の駅「上ノ国もんじゅ」を7時に出発した。

まずは湯ノ岱へと向かう。

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道道から見える天ノ川に架かる鉄橋。

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湯ノ岱駅遠景。夏になると線路は草に覆われてしまうのだろうか。

湯ノ岱駅は昨日行ったのでまずは神明駅跡へ行った。

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今にも列車が来そうな神明駅跡。木造の待合室は板で塞がれていた。

さっきまで雨が降っていたのか神明駅のホームは濡れていた。
踏切部分は撤去されているが、それ以外の線路はきれいに残っている。草があまり生えないのは山岳地帯のためだろうか。

ホームに立ってみると今にも列車が現れそうだ。でも、二度と列車は来ないとわかっているので寂しい。

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神明駅は道道から400m離れていて、代替バスが神明に立ち寄るためにバス回転場が設けられた。

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踏切の部品が無造作に置かれている。ただ撤去されるのを待つだけの線路。

道道江差木古内線は何回か江差線跡と交差するがそのうち1箇所は立体交差になっている。
廃線跡の陸橋のそばに線路に登って行く階段があった。階段といっても古枕木を組んで作った保線用の作業道だったのだろうが、登ってみると線路があった。
レールは錆びているが、現役の頃とそう変わらないほど線路はきれいだ。江差方向へ少し歩いてみる。稲穂トンネルまで行けるだろうか。

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道道と江差線の立体交差。ここも早々に撤去されるものと思われる。

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下から見上げる。

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線路から道路を見下ろす。

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なだれ覆いが見えてきた。この先いくつかのなだれ覆いがあって、その先に稲穂トンネルがあるはずだ。

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レールを組んで作られたなだれ覆い。

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天井は蒸気機関車が吐き出した煤がこびりついている。この辺りは稲穂峠にむかって25/1000という急勾配。蒸気機関車は喘ぎながら登ったことだろう。

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なだれ覆いを抜けた所は・・・

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線路が撤去されて、新しく作られる道道江差木古内線の工事現場になっていた。

3つ目のなだれ覆いをぬけた所で線路はぶった切られ、新しく付け替えられる道道の工事現場だった。
急カーブや急勾配の多い現道道を改良するために新たに掘られた「新吉堀トンネル」で、2016年に開通する。

線路は撤去されて、その場所には新しくできる道路の橋台が建てられていた。江差線廃止から1年ちょっとしか経っていないが、ここだけはえらい変わりようだ。道路の設計は江差線廃止を前提として進められていたのだろうか。

平日ならば重機がうごめいている工事現場なのだろうが、今日は日曜日なので誰もいない。ウロウロしている所を見つかるとあらぬ疑いをもたれそうな感じだった。稲穂トンネルはあきらめて引き返す。

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工事現場の側から見ると、なだれ覆いが妖しげな坑口のようにも見える。

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雨に濡れた廃線の線路。

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道道に数か所あった踏切。線路は撤去されて舗装されたが、警報機はそのままになっている。

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木古内川に架かる鉄橋。

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まくら木の間から下が丸見えの鉄橋。



posted by pupupukaya at 15/06/14 | Comment(0) | 廃線跡・未成線

廃止1年後の江差線2

さて、上ノ国駅を後にしてこんど道道江差木古内線を中須田駅へ向かう。道道沿いはずっと人家が続いていて、代替バスは新しい停留所も設けられている。

代替バスは鉄道時代より乗客が増えていて、毎日新聞の記事によると平均利用者数が1日当たり30人だったのが100人に増えたとのこと。こまめに停留所を設けたり利用者の多い江差病院や江差高校まで延長できるのはバスならではで、終点の江差駅の場所など考えると鉄道輸送には向いていなかったということなのだろう。

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道道に立っている中須田駅の看板。

中須田駅は貨車を改造した待合所が使われていた。ここも内側から板が張り付けてある。駅名が書かれた部分は白く塗りつぶしてあった。

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貨車駅の中須田駅。駅とホームはそのままだが、横の踏切は撤去されていた。

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この辺りは水田地帯。青森県の私鉄駅という感じがしないでもない。

続いて同じような貨車駅だった桂岡。ここも駅名は塗りつぶされ、看板類はすべて外されているがそれ以外は変わっていない。ここの窓ガラスもやはり内側から塞がれている。外側から塞がないとガラスの破損を防ぐ役割は果たさないと思うのだが、おかげで廃墟然としたむごたらしい姿にはならずにいられるのだが。

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中須田駅と同じく貨車駅の桂岡駅。出入り口部分は塞がれておらずホームへ自由に出入りできる。

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桂岡駅のホーム。

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道道に立つ桂岡駅入口の看板。踏切以外は何もかも江差線があった頃のままになっている。

天ノ川の谷がだんだん狭まってきて、このあたりから山間部になる。途中で脇道に入った橋の手前に宮越駅はあった。
駅横の踏切は道路部分こそレールが剥されて舗装されているが警報機はそのまま残っていた。踏切の手前にある道路標識も残ったままだ。

宮越駅には木造の待合所があるが、ここはなぜか板で塞がれることも無く、施錠もされておらず中に入ることができた。時刻表やポスターはすべて撤去されているので納屋のような感じになっているが、ベンチはそのまま残っていた。バス停は道道にあるのでバス待合所として残っているのではなさそうだ。

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宮越駅は天ノ川の川岸にあって、木造の待合室がポツンとあるそんな駅だった。

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他の駅と違い、宮越駅は施錠も窓も塞がれておらず自由に出入りできた。

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ホームと待合室。

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踏切の部品が無造作に積まれている。

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使われなくなった線路は自然へ還ってしまう。

宮越駅跡から次は湯ノ岱へと向かう。ここからは山間部になり人家はほとんど無くなる。
途中の道道沿いに『天ノ川』駅を見つける。駅ではなくモニュメントなのだが、一応寄ってみた。

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天の川駅。といってもこちらは駅を模したモニュメントだが。踏切は撤去されたが、カーブミラーの「踏切」の文字はそのまま。

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JRの所有ではないので、駅名票も残されている。

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五稜郭から64kmのキロポスト新旧。ポールの方は雪に埋もれても見えるように後から立てられた。

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江差線代替バスがやってきた。

4時半を過ぎたばかりなのに薄暗くなってきた。日の長い季節なのに曇り空と山間部のせいだろうか。廃線跡と並行する道道も車はほとんど通らない。静かなのはいいが、熊が出そうでなんだか怖くなってきた。

再び車を走らせ、天ノ川きららトンネルを抜けると谷が開けてきて湯ノ岱に着く。
ここも道道沿いには「湯ノ岱駅入口」の看板がそのまま残っていた。

湯ノ岱駅の広場にはさっき天ノ川駅で見た木古内行きの代替バスが停車していた。バスはここで5分間停車するダイヤになっている。トイレ休憩のためだろう。
湯ノ岱の駅舎はバス待合所になっていた。やはり看板やポスターはすべて撤去され、きっぷうりばだった所は板で塞がれていた。壁のポスターの跡が痛々しい。
それでもベンチの座布団には少し温もりを感じた。

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湯ノ岱駅の駅舎はバス待合所として使われている。

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ベンチと座布団は残されたが、きっぷ売り場は板で塞がれ寒々とした印象。

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去年のGWは大勢の名残客で賑わったホームだがすっかり寂しくなった。

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うっすらと湯ノ岱駅の文字が浮き出ている。

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駅舎と代替バス。バスの乗客はゼロ。

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舗装の隙間から生えた草の生命力はさすが。

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冬期間使われていた乗務員の宿泊所。

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出発信号機とポイント。湯ノ岱は線内で唯一の列車交換駅だった。

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ポイントはローカル線でよく使用されるスプリングポイント。トングレールを足で押してみたがびくともしなかった。

今日はここ湯ノ岱でおしまい、次の神明からはまた明日スタートします。

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せっかくなので湯ノ岱の国民温泉保養センターで一風呂浴びてきました。
お湯は茶褐色の炭酸泉でタオルが茶色くなります。入浴料は350円と安いですが、銭湯と同じく石鹸やシャンプーの備え付けが無いので持参する必要があります。あと、ドライヤーは備え付けがありました。

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上ノ国の「トライマート」で買ったからあげ。ここのからあげは一風変わっていて、衣がサクサクしている。

この日は道の駅「上ノ国もんじゅ」で車中泊しました。





posted by pupupukaya at 15/06/07 | Comment(2) | 廃線跡・未成線
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