地平時代の旧旭川駅2 ホームと列車と地下道

それでは改札口から入場してみましょうか。改札を入ってすぐは1番ホームに面していて、札幌方面行の特急列車が停車しています。ライラック、スーパーホワイトアロー、スーパーカムイと列車名と車両は変わっていますが、毎時00分発の特急列車は必ず1番ホームから発車していました。

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2002年1月
改札を入るとすぐワゴンの駅弁屋さんがいた。
もともと改札口は直接1番ホームに面していたが、自動改札導入後は改札口から地下道入口まで壁で仕切られるようになった。

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2001年10月
昔から毎00分初札幌方面への特急は1番ホームが定番だった。停車中の列車はスーパーホワイトアロー。

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2001年10月
時代を感じさせる1番ホームの階段。化粧タイルや手すりのエンド部分に古き良き時代を感じる。
地下道は駅舎より3年早い1957(昭和32)年に完成していた。

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2001年10月
改札口側はエスカレーターが設置されたが反対側は昔のままだった。

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2002年1月
右はスーパーホワイトアロー、左はライラック。真ん中の線路はよく貨物列車が停まっていた。

1991年から2007年までスーパーホワイトアローは毎時00分発、ライラックは毎時00分着となっていてダイヤ上は同時発着だが、実際は駅構内の札幌方で両列車が平面交差する事情から、ライラック到着後でないと1番線は青信号にならずスーパーホワイトアローは発車できなかった。

ライラックを1番線に、スーパーホワイトアローを2番線発着とすれば同時発着可能となるのだが、そこは旭川駅。最優等列車は1番線に着けるという国鉄時代からの大原則は最後まで曲げなかったのである。

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2000年8月
優等列車専用ホームに相応しい幅広で屋根が堂々と張り出した1番ホーム。

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2008年4月
駅長室と名石「神居古潭石」。

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2001年10月
1番ホームから階段を下りたところにあったステーションデパートの改札口。ただし、デパート以外にはどこにも通じておらず地上へは階段を登らねばならないため、ここから出場する客は少なかった。

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2003年8月
駅舎と各ホームを結んでいた地下道。改札時以外はがらんとしていた。

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2004年11月
壁面のタイルなど薄暗いがどこか風格を感じさせる。

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2004年11月
地下道の銘板。富良野線ホームへの狭くて長い通路は駅舎よりもさらに早い昭和28年に完成していたらしい。

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2001年10月
2・3番ホームへ登る階段。反対側にはエスカレーターが設置されている。

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2001年10月
新千歳空港からの特急ライラックが到着。

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2000年8月
2・3番ホームは毎時30分発の札幌方面行特急と石北・宗谷本線方面への特急が主に発着していた。

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2008年4月
ホームの売店と立ち食いそば屋。奥側にはキヨスクもあって、3店舗仲良く営業していた。

筆者は90年代の一時期稚内で暮らしていたころ、このホームからよく18:23発急行サロベツに乗った。
といってもあの頃の下り急行は混んでいて、改札口で並んで改札が始まるとホームで並んで慌ただしく列車に乗った記憶しか無い。

そういえばあの当時は発車メロディーがあったが、これもいつの間にか無くなっていた。

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2002年1月
2・3番ホームの東側にあった輸送事務室の建物。

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2000年8月
4・5番ホームは売店も電話もなく飲み物の自販機だけあった。ローカル列車専用だが、急行礼文や上り急行宗谷・サロベツは4番ホームに発着していた。さすがにその時は駅弁のワゴン販売が行われていた。
ホームの上屋は木造だったが、高架化工事のため2002年頃には仮設ホームになってしまった。

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1988年1月
読みが「あさひがわ」だった頃の駅名標。市名と同じいまの「あさひかわ」に変更されたのは1988年3月13日から。

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1988年1月
4両編成のL特急ライラック号。昔から1番ホームに横付けされるのは1番の花形列車だった。

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1988年1月
4・5番ホームに停車する気動車。奥のキハ22は永山から来た列車。手前のキハ54は当時昼間も運転されていた近文行普通列車。
国鉄末期頃から旭川近郊列車の増発が行われてきた。

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2003年4月
4・5番ホームの向こうには離れ小島のように富良野線専用の6・7番ホームが見えた。広い空地はかつてたくさんの貨物線があったが、90年代には撤去されたようだ。このスペースは後に現在の高架旭川駅が建設される。

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2003年4月
富良野線ホームはここから約70mも先にある。地下道はここから幅も半分になる。

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2004年11月
長〜い通路。90年代頃までは富良野線の列車の改札が始まるごとに席を取る乗客たちがダッシュする光景が見られた。

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2004年11月
6・7番ホームへ登る階段。

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2003年8月
ローカル列車のみなので私鉄のような雰囲気でもあったホーム。

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2003年8月
富良野線ホームから見た駅舎方向。構内越しに駅前のビル群を眺めると、稚内あたりから来ると結構な大都会に思えたものだった。

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2003年8月
美瑛からの普通列車が6番ホームに到着。

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2003年8月
富良野線は昔から本数が多く、駅数も多かったので旭川の都市近郊電車のような性格の路線だった。

7番ホームからは富良野行普通列車が発車するところですが、これに乗ると帰れなくなってしまうのでそろそろ現代に戻るとしましょうかネ。

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現在の旭川高架駅。

地平時代の旭川駅へのタイムスリップはいかがでしたでしょうか。
ではまたお会いしましょう。お付き合いくださいましてありがとうございました。


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posted by pupupukaya at 14/05/18 | Comment(1) | 北海道の駅

1999年 駅ビルが無かった頃の札幌駅

札幌駅は1988年11月に高架駅が完成してからも、旧駅舎を含め南口側のほうは長らく旧来の姿のままになっていましたが、90年代も後半になってようやく再開発事業がスタートしました。

時は1999年、地下街は大改装されてほぼ現在の形ができあがりましたが、地上部分は旧駅舎が解体されたところでひとまず工事は小休止。札幌駅前には広大な広場が出現しました。

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1999年12月の札幌駅南口広場。旧駅舎や旧ホーム部分は撤去され、今では信じられないほど空が広い。

地下街は半年間の休業・改装を経てアピアとして再オープンし、旧駅舎の解体工事も終わり工事中の囲いも取り払われて、南口の再開発もひと段落といったところだ。

高架駅の南側壁面は1990年の高架化全面完成時に整備された。北口に比べて素っ気ないデザインなのは駅ビル建設を見越してなのだろうか。この壁面も今では文字通り日の目を見ることは無くなった。

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ほぼ現在の形に出来上がっている南口のタクシー乗り場。奥に建設中の建物はヨドバシカメラ札幌店。
数年後ここにJRタワーが建設され、大通地区も凌駕する商業地区へと変貌するなど、この当時は誰も思わなかった。

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駅前通りから駅越しに北口のビル群を眺められるのが新鮮だった。おそらく今後見ることはできない風景。
旧駅舎に代わって登場したのはガラス張りの太陽の塔。しばらくは南口の顔になっていた。

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南口の旧駅舎と札幌駅を結んでいた通路。両端に動く歩道が設置されていたが、工事のためこの頃には撤去されていた。

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こちらは2000年12月、閉店した札幌そごう最後の頃。翌2001年7月にビックカメラがオープンする。右の西武ロフト館も今は無い。


2003年3月にJRタワーがオープンして再開発もようやく完成することとなりました。この次大きな変化が訪れることがあるとすれば、北海道新幹線の札幌延伸時でしょうか。
posted by pupupukaya at 14/05/25 | Comment(0) | 北海道の駅

学園都市線 於札内駅と昔ながらの電信柱

学園都市線(札沼線)の浦臼以北の運転本数は1日3往復のみ。

30年近く前にこのダイヤになってからはずっと変わることはない。


そんな超ローカル線の途中駅、於札内駅に行ってきました。


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町道から細い砂利道に入って行った踏切のところにある於札内駅。冬季通行止めの標識が立つ。


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角材を並べただけの踏切。キャタピラの車が通ると故障するらしい。


於札内駅は2両ほどが停まれるコンクリート製ホームとトタン製の待合室があるだけの無人駅。

周りは田んぼが広がる日本の田園風景といった感じ。


ホームの横は踏切になっている。

踏切と言っても踏切の標識は無いので、正式な踏切かはわからない。

一応カーブミラーと冬季通行止め標識があるので踏切の体裁は整っている。


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待合室のトタンの壁に打ち付けられたサビサビの駅名標。隣駅のローマ字表記がおかしい。


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「学園都市線」と書かれた駅名標は全く似合わない。『於』の字が異体字になっている。


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コンクリート製ホームと低い柵。ワンマンカー乗車口の文字も色あせてしまっている。


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時刻表や運賃表が掲示された待合室の内部。


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於札内駅の時刻表。列車は1日3往復のみ。


駅近くには農家も何軒かあって、意外と開けている印象だ。

1日の乗降客数はココによると1日4人とのこと。ダイヤからして通学生の利用はゼロと思われるが、それにしては意外と多い。

国道にはバスがあるが、於札内駅からは1km近く離れているので、駅側の住人からすれば貴重な足なのかもしれない。


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駅ノート。


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今では珍しくなった30kgレール。


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ところで、学園都市線北部には今では全く見ることができなくなった昔ながらの電信柱が残っている。

昔のSL時代の写真を見ると、線路脇に何本もの腕木と多くの碍子を抱えた独特の形をした電柱が写っているのをよく見る。
主要路線であれば、通信用の裸導線(架空裸線)が何十本も線路に平行して、それを支える電柱が延々と並んでいた。
その独特の姿から『ハエタタキ』と呼ばれていた。

70年代にはケーブル線に置き換えられてほぼ姿を消したようだが、使われなくなったがそのまま放置されているハエタタキは今でもたまにローカル線なんかで見かけることがある。


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今でも現役で使われているらしい架空裸線路支持柱(通称ハエタタキ)。

しかし、ここ学園都市線のは現在でも電線が張られていて現役。全国でもここだけじゃないかと思う。
架空裸線の区間は所々で途切れていて、その箇所はコンクリート製の新しい電柱が建てられていた。

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トトロでも出てきそうな日本の風景。


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コンクリート製の新しい電柱に建て替えられた箇所もある。


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架空裸線エンド部分。設備は最新だが碍子は旧来のものが使われている。


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電線から下りてきた線につながる携帯電話接続設備。
携帯電話と言っても今は誰でも持っているやつではなく、保線員や列車乗務員が電話機だけ携帯していて、電柱の端子に接続して駅や指令と連絡するためのもの。無線が無かった昔は、駅間の連絡手段はこれが唯一だった。


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携帯電話機用の端子箱。


訪問:2014/6/29







posted by pupupukaya at 14/08/14 | Comment(0) | 北海道の駅

新幹線開業前の渡島大野駅

江差線廃線跡めぐりの帰り道は北海道新幹線の終着駅になる新函館北斗駅に行ってきました。
おっと、まだこの駅は渡島大野駅でした。新函館北斗駅になるのはまだ先の話。

新しい駅舎の外観はほぼ完成していて、いまは内装と駅前広場の整備が進められています。新幹線が開業すれば函館駅、新千歳空港駅に次ぐ第3の北海道の玄関口となる駅です。

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外観はほぼ完成した北海道新幹線の新函館北斗駅。

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じつはまだ渡島大野駅です。

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エントランスの吹き抜け部分。細かい内装はこれからの工事のようだ。

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板で覆われたクランク状の通路。

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通路の案内板。

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ホームに出るところに掲示してある時刻表。

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渡島大野駅の駅名標。

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立派な上屋もできてほぼ完成している在来線ホーム。

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函館方向を見る。電化のため新たな架線柱も立っていた。

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行き止まりのホーム。新幹線のリレー列車になる「はこだてライナー」はここに発着するのだろう。

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上り特急「北斗」が通過して行った。ここはまだ渡島大野駅、特急は停まらない。

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新幹線の乗換口になると思われるドア。この向こう側に新幹線のホームがある。

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駅前に掲示してある完成予想図。

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駅前はまだこのとおり。やがて街になるのだろうか?

駅自体は開業へ向けて着々と工事が進んでいるが、駅前は造成こそ終えているものの建物が建つ気配は全くない。レンタカー会社やタクシーの営業所の進出は決まっているようだがそれ以外はさっぱりのようで、このまま新幹線開業を迎えると駅周辺は何も無い新幹線駅として話題になりそうだ。
長野新幹線が開業した時に安中榛名駅が同じような閑散ぷりで話題になったっけ。

あくまでここは新幹線と在来線の乗換駅、新函館北斗駅と函館駅を結ぶ「はこだてライナー」に頑張ってもらうとしよう。

2015/5/31訪問
posted by pupupukaya at 15/06/14 | Comment(0) | 北海道の駅

廃止になる秘境駅_鷲ノ巣駅

函館本線 鷲ノ巣駅

【開業】昭和19年9月1日(旅客取扱い信号場として)
【仮乗降場化】昭和24年8月1日
【信号場復活】昭和37年9月30日(旅客取扱い継続)
【駅格上げ】昭和62年3月31日
【所在地】八雲町花浦

2016年3月26日は北海道新幹線の開業日。その陰でローカル線は減便、8駅が廃止になる。
そんな廃止になる駅のひとつ、鷲ノ巣駅に行ってきました。


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林の中にひっそりとある鷲ノ巣駅。



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ホームへの階段と待合室。

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待合室入口。お邪魔しますお。

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管理が行き届き、ていうか住人でも居そうな雰囲気。

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ベンチはベッドメーキングされて宿泊もできそう。置かれていたノートは「駅ノート」ではなくここは「旅日記」。

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なぜかやたらとティッシュが置かれていた。

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待合室奥側から入口方向。住人が現れそうだ。

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アパートの共同トイレのよう。奥から住人が出てきて「あんた人の家に勝手に上がって何してる」なんて言われそうだ。

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トイレはボットン便所。紙も置いてあった。

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駅名標。

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 ホームから駅前を見る。人家は無く、ぬかるみの駅前通りが伸びる。

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ホームから八雲方を見る。

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構内踏切と駅舎反対側のホーム。短くて、1両分ほどの長さしかない。

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ホームの縁には”1962-10”と彫られている。信号場が復活した時に設けられたホームだろう。

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貨物列車が通過する。

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道道花浦内浦線から見た駅への道路。この先に駅があるとは思えない。

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これも道道にあるバス停。その名も「鷲の巣信号所前」。


駅の場所は道道花浦内浦線から細い道を150mくらい入ったところにあり、まわりは林や荒れ地ばかり。駅前に人家が無いあたりが秘境駅と呼ばれる所以である。鷲ノ巣駅周辺は無人地帯というわけではなく、八雲市街地の北端といったところにあり、隣の八雲駅までの距離も3.1kmと近いこともあって、地元の利用客はほとんどいなさそうだ。

駅としては一応、2016年3月25日で終了になるが、以降は信号場として存続するものと思われる。鷲ノ巣駅の北側で複線区間から単線区間になるためポイントがあるからだ。もしかしたら鷲ノ巣駅跡で交換待ちなんてこともあるかもしれない。

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 信号場として存続すればバス停は本来の名称に戻ることになる。函館バス『鷲の巣信号所前』停留所。

ところで駅名である「鷲ノ巣」の由来について調べてみたのだが、国鉄北海道総局発行の「駅名の起源」にも載っておらず、図書館に行って「角川日本地名大辞典」を見ても載っていなかった。駅のある場所の住所は花浦という住所で、鷲ノ巣という住所は存在しない。
近くに鷲の巣川が流れているので、駅名と何か関連があるというのは想像がつく。

これも図書館にあった八雲町史を見ると、もともと町内には雑多な地名が入り乱れていて、公簿上に載っていない通称名も含めると、字(あざ)名は町内に80以上も存在したという。そのほとんどはアイヌ語に漢字を当てはめたものやカタカナでそのまま表記したもので、その中に「鷲の巣」や「ワシノス」の字名もあった。これではあまりに複雑で不便ということで、戦後に字名地番改正を行い字名を整理した結果、現在の花浦という住所に整理されたと載っていた。

というわけで駅名の由来はどうもアイヌ語のようだ。“鷲”が多かったわけではなさそうだ。この駅の前身である鷲ノ巣信号場が開設されたのが昭和19年、このあたりの集落が「鷲の巣」と呼ばれていたためにこの名前がつき、住所が改正されても駅名だけは残されてきたということだ。

ワシノスの由来だけは結局わからなかった。

訪問日:2015年12月13日
posted by pupupukaya at 16/01/31 | Comment(2) | 北海道の駅

不思議の駅だった張碓駅研究

JR函館本線の銭函・朝里間にかつて張碓という駅があった。

覚えている人のうちのほとんどが海水浴場の最寄駅としてだろう。夏休みの海水浴シーズンには札幌方面から大勢の海水浴客が下車したものだった。臨時に駅員も配置され、切符も売っていた。80年代くらいまでの話である。

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 ありし日の張碓駅駅名標(2003年9月筆者撮影)

駅周辺には人家など全くなく、他所へ通じる道路すらない孤島のような場所にある駅だった。海水浴シーズン以外に利用者はいないと思われたが、正式な駅として冬でも列車が停車していた。

海水浴シーズン以外は釣り人か物好きな鉄道ファンくらいが利用者であったのだろう、通年の利用者はいないと判断されて、JR化後の1990年には駅から臨時乗降場に格下げされている。この時から海水浴シーズンのみ営業となった。

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 崖下にあった張碓駅の駅舎(2003年9月筆者撮影)

90年代に入ると快速エアポートが小樽へ乗り入れるなど列車回数が増すことになる。海水浴客が線路付近を歩くと危険と判断されたのか、1997年夏を最後に営業を再開することは無くなった。

その後も列車は1本も停車しないが時刻表には掲載され、駅の運賃表にも掲示されたままという状態が長らく続いていた。駅舎は窓や出入り口が板で塞がれて空き家状態となっていたが、ホームや駅名標はそのまま残されていた。列車で行くことも、道路からも行くことのできないこの駅はいつしか『秘境駅』と呼ばれるようになった。

この不思議な駅は秘境マニアや廃墟マニアの心を牽きつけるものだった。駅への直接の道路は無かったが、国道5号線の張碓トンネル小樽側付近から海岸へ下る道路があり、私有地を抜けると駅に行くことはできた。

そうして訪れるマニアたちが後を絶たず、事故もあったようだ。JRとしても再開させる意図も見込みも全くない駅をいつまでも存続させたくないという事情からか2006年3月をもって正式に廃止となった。同じ年の7月には上記の私有地側から重機を搬入して駅舎とホームの撤去工事が行われた。

今回はそんな秘境駅として知られた張碓駅についていろいろ考察したいと思います。

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 2016年2月閲覧 電子国土Webより

さてこの張碓駅だが、なかなか謎の多い駅でもあった。
昔はあったのかもしれないが駅周辺に人家は全く無く、しかもこの駅へ通じる道が無いことで、一体何のために造られた駅なのか、どんな人が利用していたのだろうか。

もう一つの疑問は、恵比寿島付近に張碓の町があって線路のある海岸まで通じている道があるのだから、駅もそこに造れば良さそうだが、なぜ町から約2kmも離れたこの場所をえらんだのだろうか。しかも張碓トンネルの手前、崖の一番険しい場所である。

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 ホームの山側は崖、反対側はすぐに海岸だった(2003年9月筆者撮影)

駅の立地や役割について考察する前に、札幌−小樽間の鉄道の発祥について簡単に見ることにする。

明治2年に開拓使が札幌に置かれると、その外港ともいうべき小樽が海運による本州からの物資の中継地となった。

明治6、7年にかけて札幌と小樽の間には馬車道が延びていたが、張碓付近の海岸は『カムイコタン』(アイヌ語で魔神の住むところ)と呼ばれる、山が海に突き出すようにしてそびえ立つ難所だった。ここだけは絶壁にへばりつくような小道しか無く、小樽から札幌への物資は船積みで石狩へ行き、そこから石狩川、創成川で札幌へ運ぶので大変不便だった。

明治12年になって開拓使は熊碓〜銭函間の道路開削工事を始める。このときの現場監督が小樽市総合博物館に銅像が立つアメリカ人技師、J・U・クロフォードであった。
工事の進捗は早く、同年の12月には道路が開通した。開拓使はさっそく冬はソリ、夏は馬車による運輸営業を始めた。

札幌〜小樽間を結ぶ主要道路に、この開通した道路も翌年には無くなってしまう。もともとこの道路は将来鉄道を建設するときは道路を道床として使う前提としていた。開通翌年にはその前提の通り道路に線路が敷設されることになる。

線路の敷設工事は早く、明治13年11月28日に官営の幌内鉄道として開業する。これは北海道初、全国でも3番目のものである。

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 北海道鉄道百年史上巻『神威古潭(現在の張碓駅付近)』より。後に張碓トンネルに付け替えられる。

一方、鉄道線路として召し上げられた道路はというと、線路工事が始まってからは馬車の通行が禁止され、かわりに2隻の小蒸気船が往復することになった。沿線住人の生活道路でもあったため線路脇に人が歩く道は残されていたが、海岸と崖に挟まれた狭い場所に設けられた道は線路と何度も交差するなど危険きわまりなく、汽車はしきりに警笛を鳴らして走ることになった。

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 銭函郷土史『昭和初〜九年頃系図鰊建網沖場所』より。線路沿いの海岸にニシンの漁家が並んでいたのがわかる。

張碓、銭函海岸はもともと江戸時代からのニシンの豊富な漁場だった。春になると一面ニシンに埋もれるほどの群来が訪れた。ところが鉄道開通の翌年からニシンがさっぱり獲れなくなった。漁民たちはこの不漁の原因を汽車のせいとして鉄道排斥運動を起こす。
ニシンは音響を嫌うとして、それまで春の漁期中は寺の鐘をつくのも禁止した地方もあったほどだが、汽車の影や警笛におびえてニシンが逃げるわ、生活道路が汽車に占拠されるわでは当時の漁民が鉄道反対と考えるのは無理もない話だ。

この運動はだんだんエスカレートして、ついに漁民たちが大挙してムシロ旗を立てて、列車妨害をする動きまで出てきた。これは地元の親方たちの尽力もあってなんとか収まったようだが、明治29年には沿線住民から小樽銭函間の線路移転を求める請願書が貴族院と衆議院議長あてに出されている。
この後もニシンが不漁の時には必ずしも言っていいくらい持ち出されたといい、大正時代まで尾を引いたというこである。

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 明治29年に提出された小樽銭函間線路変更請願書

北海道初の鉄道として単線で開通し、沿線住人とのいざこざが絶えなかった鉄道であるが、開通から25年たった明治38年10月8日、張碓駅が開業する。

張碓の地名の由来については『北海道駅名の起源』によると次の通りである。

“アイヌ語の「ハル・ウシ」(食料の多い所)の頃がしたもので、この付近は海陸共に漁猟が豊富であったためである。”

この由来については異論もあり、別資料によると「ハレイウシ」・・・引き潮の時にようやく這って通る地形で海岸通行の難所、断崖絶壁の地形を差したとの説もある。

もっともハリウスの地名は江戸時代から存在しており、駅名は付近の地名をとって名付けられたに過ぎない。張碓駅の設けられたカムイコタンの西側はチャラセナイ(アイヌ語で崖から流れ落ちる滝の意)と呼ばれていた。

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 張碓駅裏にあった滝、駅廃止後も現存する(2003年9月筆者撮影)

明治38年は、当時私鉄であった北海道鉄道の高島(現小樽)駅と小樽(現南小樽)間が開業し、札幌〜函館間が全通した年でもあった。
推測であるが、列車回数の増加から行き違い設備を設ける必要性が生じ、駅として開業したのではなかろうか。

また、明治42年には鉄道の複線化工事が行われており、それに伴いカムイコタンの断崖下を通っていた単線の線路を張碓トンネルを掘削してショートカットする工事も行われている。

明治43年には張碓−銭函間の複線化が完成、翌44年には張碓トンネル完成により朝里−張碓間が複線化となっている。
この張碓トンネル工事の基地としての役割もあったのかもしれない。

当時は鉄道に寄り添った道が札幌・小樽間唯一の道であったために人の通行があったこと、鉄道に沿った海岸にもニシン漁家の集落があったことなどから現在のような無人地帯ではなかった。そのためにそれなりに利用者はいたのだろう。
カムイコタンの難所に近いことから保線基地としての役割もあったのかもしれない。

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 国土地理院撮影の空中写真(昭和36年撮影)張碓駅付近。

昭和36年国土地理院撮影の空中写真を見ると、銭函〜朝里間でも線路に沿いに建物が並んでいるのが確認できる。国道が山の上に移ってからも漁民が生活しており、また崖下の唯一の交通機関が鉄道ということもあって、張碓駅の利用者も少ないながらも存在した。

また、崖の上を通っている国道5号線へはケモノ道のような小道が通じていて、そこから通ってくる利用者もいたというが定かではない。

数字を見ると、昭和21年1月の1日当たり乗降客数は183人(小樽市史第4巻掲載の数字より計算)となっている。

ところで、線路に召し上げられた札幌−小樽間の道路であるが、日露戦争中の明治38年にロシアの艦砲射撃をさけるべく山側を迂回する『軍事道路』が開削され馬車の通行を供するようになったが、紆余曲折の峠を越え勾配もきついため、いつしか廃道同然となってしまった。相変わらず、線路に沿った海岸沿いの道が利用された。
現在の国道5号線ルートの新道に切り替わったのは昭和9年のことである。同年から鉄道省の省営バス(国鉄バス)が走り始めた。

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 朝里村管内図(製作年不明とあるが昭和10年頃と思われる)

夏は海水浴客、それ以外の時期は線路沿いに住む漁民が利用するだけの小駅として細々と存続していたと思われた。ところが、どうも張碓駅はもう一つ別な使命があったようだ。

どうやら張碓駅は砕石の積み出し駅でもあったようなのだ。
『朝里叢書第九巻 朝里村史朝里外三村沿革史』によると以下の記述がある。

“小樽郡朝里村大字カムヒコタンニ於ヒテ張碓停車場ヲ建設ス 之レ主トシテ当地方ニ於ケル岩石運搬ノ便宜ニヨリテ設ケタルニ外ナラズ”

どうもカムイコタン付近で産出される砕石運搬のためにこの場所に駅が開設されたらしい。


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 昭和42年測量の5000分の1国土基本図である。張碓駅西側から海岸に向かって引込線が延びているのがわかるだろうか。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスからの転載なので少々見辛いが、山の上に「採石場」の文字が見える。

これを裏付ける資料もあって、昭和47年発行の『北海道保線のあゆみ』という本に、線路のバラストに使用される砕石の産出地一覧表が載っていて、その中に張碓の名もあった。
それによると張碓の採石場は昭和15年開設、昭和42年10月廃止とある。昭和30年度では年間13,230立方メートルの砕石を産出していたとある。

それを踏まえて改めて昭和36年撮影の空中写真を見てみると、張碓駅西方から引込線があり、貨車らしき車両が停まっているのがわかる。この引込線から砕石を積んだ貨車が線路のバラストとして道内各地に搬出されていったと思われる。

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 北海道保線のあゆみ『道床バラスト採取地』より

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 国土地理院撮影の空中写真(昭和36年撮影)張碓駅付近の一部。

上の空中写真を見ると、画像中央付近、引込線の位置には2両の貨車が見える。バラストを積んだトラ(無蓋貨車)だろうか。
引込線の先には採石場の施設か積み込み設備かわからないが大き目の建物が見える。
海側に並んでいるのは漁師の家か番屋と思われる。また、駅本屋の左側にはヘアピンカーブを描いて崖を登る線状の小道が見える。

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 上記の空中写真に関係施設を書き入れてみる。


【張碓駅付近空中写真の変遷】
以下国土地理院撮影の空中写真の一部を切り抜いたものです。

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 1961(昭和36)年撮影、まだ採石場や引込線が稼働していたころ。

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 1976(昭和51)年撮影、採石場施設は撤去され、番屋が数軒残るがこの頃はすでに無人になっていたと思われる。
海の色が澄んでいる。当時銭函海岸はゴミが散乱して汚く「銭函はゴミバコ」などと呼ばれていた。わざわざ張碓まで海水浴に来る人が多かったのも綺麗な海岸を求めてのことかもしれない。

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 2008(平成20)年、張碓駅廃止後になる。いつの間にか船着場のような突堤が建設されている。すでに崩れかかっているようだが。だれが何の目的で建設したのか。これはこれで謎である。

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 カムイコタンの絶壁と張碓トンネルのコンクリート窓(2003年9月筆者撮影)

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 採石場の跡地、後方はカムイコタンの崖(2003年9月筆者撮影)


大正や昭和初期までが最盛期であったニシン漁も次第に下火になる。戦後の一時期はまたニシンの群来があり、戦後の食糧難の折、札幌方面からの買い出し客で張碓駅が賑わったようだ。

ニシンの買い出しで混み合う張碓駅(どうしんウェブ フォト海道)

全国からヤン衆がやって来て賑わった銭函・張碓海岸も、昭和28年頃を境に不漁となっていったようだ。漁師をやめて札幌に行く人も出はじめた。

国道を走っているバス路線も年々便利になり、わざわざ崖を登り下りして駅まで通う人もいなくなり、利用者は皆無に近くなっていたと思われる。

採石場も1967(昭和42)年には廃止されたようだ。貨物列車の発着が無くなると利用客はほとんど無くなったのだろう。試しに手許にある過去の時刻表で張碓駅に停車する列車の本数を見てみることにする。以下、下り列車の停車本数になる。

1967(昭和42)年 27本
1972(昭和47)年 9本
1980(昭和55)年 4本
1990(平成2)年 3本 ※この年の9月から季節営業に

やはり採石場廃止後の本数削減が著しい。この頃には駅周辺はすでに無人となっていたのだろう。

それでも当時は駅である以上は利用者があろうがなかろうが駅員がいて切符を売っていた。これまた当時は列車が発着するたびに出発合図を出さねばならず、そのために駅員を置く必要があったという事情もある。

しかし国鉄合理化の事情もあってか、Wikipediaによると1969(昭和44)年には貨物扱い廃止、1978(昭和53)年には無人駅化されたとのことである。

以降は無人の停留場として営業、海水浴シーズンのみ駅員が派遣される駅となった。
冒頭の通り、1990年には季節営業の臨時乗降場に格下げとなり、1997年の営業を最後に2006年廃止となる。

現在銭函〜朝里間を列車で通過しても、張碓駅跡の存在は注意して見ていないと気付かない。と言うか、そんな存在を知っている人の方が少ないだろう。

いまでも列車は明治期に開通した頃と変わらない風光明媚な海岸沿いを走る。
とかく海側の車窓に目がいきがちであるが、たまには山側の車窓も見てほしい。所どころに廃屋となった漁師の家があるはずである。

それはかつてニシンに沸き立った繁栄の、また混迷の中で鉄道と共存していた時代の遺物でもある。

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現在の張碓駅付近の車窓。

最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

〜おわり〜

参考文献
札幌駅116年の軌跡(北海道ジェイ・アール・エージェンシー)
北海道鉄道百年史(日本国有鉄道北海道総局)
北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局)
北海道保線のあゆみ(北海道保線史編集委員会)
朝里叢書第三巻 札樽交通史(小樽・朝里のまちづくりの会)
朝里叢書第五巻 朝里驛物語前編・後編(小樽・朝里のまちづくりの会)
朝里叢書第九巻 朝里村史朝里外三村沿革史(小樽・朝里のまちづくりの会)
はりうす開校百周年記念誌(小樽市立張碓小学校)
ぜにばこ物語(奥野 実)
銭函郷土史(銭函郷土史研究会)
小樽市張碓のアイヌ語地名についての一考察(福岡イト子)
朝里村管内図
どうしんwebフォト海道
交通公社の時刻表
posted by pupupukaya at 16/02/28 | Comment(0) | 北海道の駅

厚床駅と奥行臼駅

厚床駅が2016年3月26日ダイヤ改正から交換列車が無くなって棒線駅化されたという。
同ダイヤ改正によってそれまで1日16本発着していた列車が12本に削減されたため、列車交換設備が不要ということで撤去されたようだ。

そんな厚床駅が今どうなったのかを見てきました。

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 標津線廃止後の1989年に新築された駅舎。

厚床駅は時刻表だけ見ていると主要駅のような扱いだが、ここは根室市内の駅。根室市内にあるひとつの町に過ぎない。
昔は標津線がこの駅から分岐していて、別海や中標津まで結んでいた名残であろう。ダイヤ改正前までは厚床始発根室行きの時刻表に載っていない列車が運行されていた。

鉄道はすっかり数ある途中駅になってしまったが、標津線の代替バスはここ厚床駅前から発着しているし、国道は44号線が通っているが、厚床で248号線が分岐する。
根室市内の小さな町に過ぎない所だが、国道沿いにコンビニが2軒もあるあたり、交通の要所としての地位を保っているといえる。

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 かつて標津線が分岐していたことを示す看板。

標津線があった時代、3回ほど乗りに行ったことがあった。
根室本線と標津線の接続はどういうわけか悪く、乗り換えのために厚床駅に長時間滞在することになった。
当時は木造駅舎で、駅員も配置されていた。キヨスクもあり、コンビニなど無かった当時、町の人がよくキヨスクに買い物に来ていた。

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 1989年3月、厚床駅に停車する標津線の列車。

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 1988年3月、厚床駅。都会じゃ「バブル景気」で浮かれていた時だったが。

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 厚床駅の入場券。

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 1988年8月、厚床駅ホーム。

あの頃は毎年のようにローカル線の廃止や駅の無人化が相次いでいた時代だった。
最後まで残ったのは名寄本線、池北線、天北線、標津線の長大4線と呼ばれた路線。その中でも天北線と標津線は思い入れがある路線だった。

以下現在に戻る。

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 2016年10月の厚床駅ホーム。

あれから27年、再び道内のローカル線廃止の動きが始まっている。
今度来るときはこの駅がまだ残っているだろうか。

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 草生したホームの向こうは牧草地が広がる。27年前と変わりない風景。

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 2番線の線路はまだ残されていた。出発信号機はそっぽを向けられている。


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 使われなくなった線路は赤錆びて草が侵入してくる。

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 標津線があった頃から変わらないホームの待合室。もう使われることはない。

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 2番ホームの駅名標とベンチ。

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 棒線化されたが、信号機は灯っている。

棒線化されたという厚床駅は、列車交換が無くなって使われなくなったホームを閉鎖しただけで、交換設備や軌道回路はそのまま生きているようだった。
撤去する費用が無いからそのままになっているのか、将来的に列車本数が増えて列車交換が復活することがあるからなのか、わからない。多分前者だろう。

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 国道を走っていると、よくもまあこんなところに鉄道があったものだと思わせる。

厚床駅を後に、今度は旧標津線の奥行臼駅跡に行ってみました。
奥行臼駅は1989年、標津線の廃止と伴って廃駅になった。その後1991年に別海町の指定文化財に指定され、ほぼ現役時代の姿で保存されることになった。

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 標津線時代からの駅舎が保存されている奥行臼駅跡。

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 昭和初期の建築様式の原形を留める駅舎。

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 昭和初期の当時はモダンな建物だったのかも知れないが、今はあばら家のようだ。


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 奥行臼駅の案内板。

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 ホームと駅舎。

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 駅構内の南端から。

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 構内の端で線路は途切れ、その先はヤブになっていた。

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 腕木式信号機が残る。じつはこれ別海駅にあったものを移植してきたものだとか。


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 きれいに整備されて、列車がやってきそうな雰囲気。

よくある廃止になった駅跡に客車を保存して、手入れも行き届かず朽ち果てた車体が放置してあるだけの「交通公園」なんかより、ここは何十倍も良い。
雑草も無く、手入れの行き届いたホーム跡に立っていると、今にも列車がやってきそうだ。本当に現われたらそれは幽霊列車だが。

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 ホームから見た改札口。


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 駅舎の屋根の下に立っていると、昭和初期にタイムスリップしたよう。

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 これも多分昭和初期からそのままのトイレ。

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 この線路の続く先は、お伽の国かもしれない。

奥行臼駅の近くには別海村営軌道の車両が保存されている。
この軌道は、道内各地にあった植民軌道のうち最後まで残った路線で、昭和46年3月末をもって廃止になっている。

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 自走客車や機関車が保存されている奥行臼停留所跡。

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 村営軌道があった当時の見取り図。

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 昭和38年釧路製作所製造、KSC―8型自走客車。まだ現役かと見紛うほど保存状態が良い。

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 客車の内部。板張りの床と「バス窓」に時代を感じる。

訪問日 厚床駅:2016/9/17
    奥行臼駅跡:2016/9/18
posted by pupupukaya at 16/10/14 | Comment(0) | 北海道の駅

稚内駅にある最北端キロポストの謎

先日、といっても2017年6月のことだが、仕事で稚内に行く機会があった。

前回稚内に来たのは2年前の2015年8月だった。その時と同じく稚内駅に寄ってみる。
新しくなった駅舎から到着する特急を見ていると、線路わきにキロポストがあるのを見つけた。

あんなところにキロポストがあったかなと取りあえず写真に撮ってきた。
帰ってから前回来たときの画像を見てみたらキロポストは写っていない。やっぱり新しく取り付けられたもののようだ。

旧駅舎時代もたしか無かったはずだ。
このキロポストを見て、ひとつの謎が生じた。

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 『最北端の線路』標と特急サロベツ。

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 線路右側にキロポストがある。

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 259と表示されている。

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 ホーム側から。

立っているのは稚内駅ホームの駅舎よりの端。
キロポストの数字は『259』。

あれ?稚内駅のキロ程は旭川起点259.4kmじゃなかったのか?
あとの0.4km分の線路はどこへ行った?

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 2015年8月の画像。キロポストは見当たらない。

キロポストには3種類あって、1つは起点駅からのキロ数を表示した甲号で、これは1キロごとに立っている。2つ目はキロ数に『1/2』と表示された乙号で、これは500mごとに。3つ目は1ケタの数字だけ書かれた丙号で、これは100mごとに立てられている。

キロポストの数字は259、これは1キロごとに立てられている甲号ということになる。
キロポストの場所がずれているにしたって、せいぜい数mだろう。

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 ホームにある旭川駅より259.4kmの表示。

0.4kmはもちろん駅舎を北に通り越して外に飛び出している線路のことではない。あれはキロポストから70mほどの所までしかない。
それにあれはモニュメントであって、実際に使用されている線路ではない。

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 『日本最北端の線路』のモニュメント。旧駅舎時代はここまで線路があった。

ところで時刻表を始め、あちこちに表示してある259.4kmというのは、時刻表に載っている営業キロから持ってきた数字である。

時刻表に載っているキロ数は『営業キロ』で、運賃や料金計算を行う際に基になる数字である。
それに対して実際のキロ数は『実キロ』などと呼ばれていて、鉄道施設の場所をキロ数で表わすものである。よく踏切なんかに数字が書いてあるが、それが実キロで営業キロとは別物となる。

この『実キロ』という言葉は正式な名称ではない。キロポストや踏切に表示されている施設上のキロ数をここでは『実キロ』と呼ばせていただく。

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 時刻表の営業キロ。JR時刻表2017年3月号より。

たとえば、函館本線の営業キロと実キロはかなりずれていて、たとえば札幌駅の函館起点の実キロ数は286.970kmだが、営業キロでは286.3kmとなっている。これは営業キロは函館駅を起点としているのに対し、実キロは青函連絡船のあった旧函館桟橋を起点としていることから発生している。

話をもとに戻す。この0.4kmの差はどこからきているんだろうか。
隣駅の南稚内から稚内までの営業キロは時刻表で見ると2.7kmとなっている。ところが、地図上で計測してみると約2.35kmとなった。
どうやらこの差分は南稚内〜稚内間で発生しているらしい。

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 地理院地図(電子国土Web)で南稚内〜稚内間の距離を計測してみると・・・。

いつからこうなったのだろうか。旭川〜稚内間の営業キロを過去の時刻表で見てみよう。
  • 時刻表(東亜交通公社)昭和19年12月号・・・258.9km
  • 時刻表(日本交通公社)昭和31年11月号・・・259.4km

戦前のキロ程は実キロに近いが、戦後に0.5km加算されている。南稚内のひとつ手前、抜海駅のキロ程は戦前から現在まで245.0kmと変わっていない。

先代の2階建て駅舎は1965(昭和40)年に建てられたものだが、その前の木造駅舎から場所はほとんど変わっていない。もちろん戦前から戦後にかけて稚内駅が移転したということもない。




まずは0.4kmの謎。この答えはウィキペディアにありました。
それは旧国鉄『営業線基準規定』第7条、営業キロの設定に関する規定。

以下Wikiからの引用。黄色マーカーは関係個所。
「営業線基準規程」第7条 (1) 営業キロ程の設定は、次の各号に掲げる基準によるものとする。
営業キロ程は、起点から停車場中心までの実測キロメートルによるものとし、キロメートル未満のは数については、二位以下を四捨五入し、一位にとどめるものとする。ただし、線路延長計画のない終端停車場にあっては、おもな線路の終端までとする。

つまり延長計画のない終点の駅では、駅を通り越した線路の終端がその駅の営業キロとなるわけだ。
実際測ってみるとこうなる。

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 稚内駅より400m北の地点。(地理院地図(電子国土Web)より作成)

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 上記地図の1977年撮影空中写真。稚内駅構内の線路は北防波堤付近まで延びていた。(地理院地図(電子国土Web)より)

昔の空中写真を見ると、稚内駅構内の線路は北防波堤の道路手前まで延びていたことがわかる。
当時の国鉄の規定により、駅構内の線路の終端を稚内駅の営業キロと定めたので0.4km多くなったということだ。

このような例はほかにもあって、根室本線の東根室〜根室間は実キロ1.375kmに対し営業キロは1.5kmとなっている。
逆に同じ終端駅でも日高本線の西様似〜様似間は実キロ・営業キロ共に2.9kmで同じになっている。これは当時は広尾まで延長する計画があったため、通常通り停車場中心(駅本屋)のキロ程を採用したのだろう。

さて、もう一つの疑問。戦前と戦後でキロ数が変わったのはなぜだろうか。

じつは戦前の稚内駅は終端駅ではなかった。
いまの北防波堤ドームの場所に稚内桟橋駅というのがあった。当時日本領だった樺太・大泊まで運航していた稚泊連絡船への乗継のための駅である。
当時の時刻表には営業キロは表示されていないため、正式な駅では無かったのかもしれないが、当時の急行列車はこの駅に発着していた。
その稚内桟橋駅も1945(昭和20)年8月24日の便を最後に稚泊連絡船が停止されると事実上廃止となる。

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 稚泊航路記念碑がある稚内桟橋駅跡地。

その後、1932(昭和27)年に南稚内駅が今の場所に移転している。移転前の南稚内駅はスイッチバックで出入りしなければならないという面倒な駅だった。スイッチバック解消と現稚内駅に近すぎるという理由から今の場所に引っ越したのである。

それまで南稚内〜稚内間の営業キロは1.2kmとなっていたが、これを機に駅構内の線路終端までの延長を含む2.7kmに改められたようだ。
稚内桟橋駅も無くなったし、これ以上北に延長する計画などあるはずもない。営業キロも他の終端駅同様の扱いになるのは当然のことだ。

今回の疑問の答えはこうなる。

稚内駅の営業キロは、昔は400mほど先まで延びていた線路終端のキロ数と定めたので、この距離の差が実キロと営業キロの間に出た。
現在駅舎から先の線路は使用されなくなり撤去されているので、実際の線路長より0.4km長い営業キロとなっている。

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 昔は右側の空き地まで稚内駅の構内だった。

新たに設置された259kmのキロポストは日本最北端のキロポストである。そのうちまた新たな名所になるんだろうか。

そのおかげで宗谷本線は時刻表の営業キロよりも実際は約0.4km短かったことがわかった。

それにしても0.4kmである。しかも既に存在しない線路。
たとえば名寄〜稚内間の運賃は実際のキロだと182.8kmとなって3,670円になる筈だが、現在の営業キロで算出すると183.2kmになり3,990円と320円余計に高くなっている。
今は存在しない線路のために余計にお金を取るのはどうかと思う。

しかし、こんな例は全国にいくらでもありそうだし、これで営業キロを0.4km改定したら、全国からの運賃が変わってしまうので。難しいところなんだろう。


〜最後までお読みいただきありがとうございました。

posted by pupupukaya at 17/08/06 | Comment(0) | 北海道の駅
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