私は踏切をこよなく愛するフミキリストの1人で、車でも歩いてでも踏切を渡るとなんとなくワクワクしてしまいます。
特に踏切手前で警報機が鳴りだして先頭で停止した時など、何が来るのか、特急かな普通かな快速かなと一人心が躍って列車が来るのを待つわけです。
だけど踏切ってのは世の中からすると迷惑な存在です。
町は分断されるし事故も起こる。
渋滞も発生するし、通過待ち時間のストレスも半端ない。
できればこんなものは無い方がよろしいということになります。
特に列車本数が多く、遮断回数の多い踏切などは『開かずの踏切』などと呼ばれて問題視され、立体交差化などによって解消されてきました。
それでもまだ多くの開かずの踏切が全国に残っています。
苗穂駅の西側にある東9丁目踏切もその1つ。
列車回数が多くて遮断時間が長いことから交通渋滞が多く発生することや、年に複数回の踏切支障が起こることなどから、国土交通省から『開かずの踏切』の指定を受けている踏切です。
北海道開発局が公開している踏切道安全通行カルテから主なデータを拾うとこうなります。
踏切長・・・27m
線路横断本数・・・5本
自動車交通量・・・2,518台/日
歩行者等交通量・・・2,001人/日
鉄道交通量・・・562本/日
ピーク時遮断時間・・・42分
(令和4年12月)
これを平面交差でやっていたのだから、さあ大変。
通常はこのような踏切は、道路の立体交差化や鉄道の連続高架化によって解消しますが、この東9丁目踏切は前後に立体交差化できるだけのスペースも距離も不足していることから、車は新たに作られる苗穂駅連絡通を迂回することにし、歩行者は苗穂駅移転で開通した苗穂駅自由通路を利用するということで、踏切自体を廃止することになりました。
このたび廃止日が正式に決定し、令和5(2023)年3月23日15時をもって踏切は通行できなくなります。
東9丁目踏切廃止のお知らせ。
この3月に苗穂駅自由通路とアリオを結ぶ空中歩廊が開通し、次いでJR線の北側を並行する苗穂駅連絡通が開通したことにより、東9丁目踏切の廃止が決定しました。
不便で危険な踏切が解消されるのは、世間一般的には喜ばしいことです。
ですが、踏切好きとして札幌から魅力的な踏切がまた一つ姿を消すのは寂しいところであります。
東9丁目踏切をなくなる前にもう一度見ておきたい。
もうひとつ、アリオが空中歩廊で苗穂駅と直結したと聞いていたので、駅周辺再開発工事がひと段落した苗穂駅の様子も見に行くことにしました。
奥にサッポロビールの煙突が立つ。
この東9丁目踏切の通りは、JR苗穂工場の北側あたりの人が都心と行き来するのに便利な道です。
私もアリオに行くときはもちろんですが、わざわざこの踏切を経由することもしばしば。
地元の利用者からすれば、混雑を助長する迷惑な奴と思われかねませんが、まあ勘弁してください。
で、この通りに差し掛かり、踏切の奥にそびえ立つサッポロビールの煙突を見ると「ああ苗穂だなあ」なんて思ったものですが、この風景も過去のものとなるわけですね。
SL型の踏切標識と東9丁目踏切。
ここの菱形の踏切標識がまたいいですね。
SL型の標識がまだ残っています。
近年は非電化路線の踏切でも電車型標識が幅を利かすようになりましたが、ここのはまだまだSLが健在。
踏切の手前に差し掛かると警報機が鳴りだしました。
この踏切の警報機の音がいいですね。
カンカンカンカン・・・
私は踏切のそばに住むってのが密かに憧れていましたね。
夏の日の夜に一杯やっていると、窓の外から「カンカンカンカン・・・」なんて踏切の音が聞こえてくる。
じつに風情があると思うんですが。
え、お前だけ?
それはともかく、踏切のそばに住みたけりゃ、札幌も郊外の方まで行かなきゃならなくなってしまいましたね。
千歳線普通列車が通過。
ほどなく左側から733系電車が通過。
こうして待っている間に反対方向の列車を表す矢印が点灯したりするのですが、残念ながら(?)遮断機は上がってしまいました。
なんで私は踏切好きなのかというと、幼いころの鉄道の原風景が踏切だったからでしょう。
私の記憶にある最古の鉄道風景と言えば、琴似駅横の踏切。
今の琴似駅と駅前広場は昔のイトーヨーカドーこと今の5588の裏手にありますが、当時の琴似駅舎は琴似本通りに面した場所にありました。
まだ3歳くらいの幼い私は、両親のもう行こうという言葉を制止していつまでも食い入るように踏切を見ていた記憶があります。
踏切と木造駅舎、猫の額ほどの狭い駅前広場。
長い編成の列車が停車すると、踏切にはみ出して停車していました。
客車のドアは開けっ放しで走行していたし、大らかだった時代。
今では考えられない光景ですね。
その後は発寒中央駅横の踏切ですかね。
中学生にもなって、あちこち行きたいけどまだ自由に行けない頃、自転車に乗ってその踏切からよく眺めていました。
手稲の運転所からの回送列車が多いので、特急や急行列車も多く通りました。
方向幕の『釧路』『網走』『稚内』など、まだ行ったことのない見知らぬ町を思い、自由な旅路を夢見ていたのはこの頃。
5本の線路を跨ぐ踏切。
遮断機が上がったので踏切を渡ります。
横断する線路は函館本線と千歳線の複々線4本と苗穂工場・運転所への引き込み線が1本の計5本。
なかなか立派な踏切っぷり。
これだけの線路を跨ぐ踏切は、ここがなくなるとあとは白石駅横の川下街道踏切だけになってしまいました。
函館駅の北側にも5本跨ぐ踏切がありますけど、あっちは複線が2本で残り3本は側線ですから、格がぜんぜん違います。
東9丁目踏切から札幌駅方向を見る。
踏切の良いところは、線路を間近に見ることができること。
幹線の函館本線だけあって、こちらも立派な線路っぷりですな。
こんな眺めも踏切ならでは。
上には交流2万ボルトの電気が流れる架線が張られています。
この架線がプラス線で、電車はこの電気でモーターを動かし、下のレールにマイナス線として電気を流しているわけです。
だからレールは第2の架線というわけですね。
だけどレールに足を乗せても感電しないよ、何で?
なんて話もできなくなりますね。
踏切から見る線路もこれが最後ですね。
今後はJRの保線職員くらいしか見ることができなくなる風景です。
ああ、町から線路が遠くなる・・・
東9丁目踏切から苗穂駅方向を見る。
今度は反対側の苗穂駅方向。
あと10年もしたら、令和時代の前半までこんな場所に踏切があったなんて話をすれば、信じられないと思われそうです。
昭和〜平成の頃、札幌駅の高架化前の地平線時代にもこんな踏切がたくさんあって、西側から順番に挙げると、西9丁目、西8丁目、西7丁目、西6丁目、西2丁目、東2丁目、東3丁目、東4丁目とこれだけ並んでいたのだから、今からすると信じられませんね。
遮断機が上がっても、またすぐに次の列車が来るので踏切内でのんびり撮影している時間はありません。
さっさと渡り切ってしまいます。
先詰まり注意の看板。
今度は踏切の北側から。
長い踏切なので色々な注意を即す看板が設置されています。
先詰まり注意とは、踏切の向こう側で渋滞となっているときに進入してしまうと、踏切内で立ち往生してしまうことがあるため。
実際立往生もよく発生するようで、事故にまで至らないものの踏切支障となることも多いようです。
東9丁目踏切の表示。
これは線路側に表示してある『東9丁目踏切』の標識。
下の288K543Mは函館本線の函館起点からのキロ数を表したもので、踏切だけでなく鉄道施設のありとあらゆるものに付与されている、いわば鉄道施設の住所といったものです。
あと、意外と知られていませんが、このキロ数は函館駅からではなく旧函館桟橋起点のものなんですね。
青函連絡船廃止後は旧函館桟橋というものは概念上の存在になりましたが、こうして今でも使われているわけです。
一方で営業キロは函館駅起点のものを使用しており、このキロ数とは別建てになっています。
このあたりの話はこちらでどうぞ。
踏切北側に残る踏切小屋。
北側にある小さな小屋は踏切小屋だった建物です。
もうだいぶ前から内側からカーテンが引かれていて使われていないようです。
昔は駅の前後にある踏切はこのような踏切小屋があって職員が詰めていて、踏切の動作を手動で行っていました。
列車が近づくと、警報機を鳴らしてハンドルを回し、滑車で吊り下げられたワイヤー製の遮断機がスルスルと下りてくる仕組みになっていました。
車の切れ目を見て遮断機を下ろすあたりは職人技があったのかも知れませんね。
道路を遮断したら、駅員と同じ制服制帽姿で白い旗を振って列車の運転士に安全を伝えていました。
駅間の踏切は自動化されていましたが、駅の前後は手動式の踏切が残されていたのは、昔は貨物列車の入れ替えなどがありどうしても手動で操作しなければならなかったこと。
貨物が無くなってからも、道路の遮断時間を短くするために、列車の停車中は踏切を開けるなどする必要があるからでしょう。
この職員の正式名は踏切警手と呼び、駅構内の踏切は駅の職員、駅間のものは保線区が担当していたようです。
国鉄からJRとなってもしばらくは残っていました。
踏切小屋と白い旗は、踏切の一種の風物詩でもあった光景ですが、札幌市内の高架化が完成してからはそんな光景もなくなりました。
この踏切小屋は高架化後もしばらくは職員が詰めていたような気がします。
おそらく、苗穂運転所へ出入りする列車があるから手動式が残されていたのかも知れませんね。
とは言っても少なくとも30年以上は昔の話。とっくに無人化されて今は遠隔操作となっていることでしょう。
小屋が残されているのは、臨時に手動で踏切を操作することがあるのかも知れません。
線路南側に残る地平線時代の線路跡。
今は5本の線路を跨いでいますが、昔は南側にもう1本線路があって、北ガス専用線としてタンク車が出入りしていました。
いつごろまであったのか調べてみたら2001年の3月までは使用していたようです。
今の北ガスアリーナがあるあたりが北ガスの工場となっていて、昼間タンク車が数両停まっているのをよく見かけたものです。
あの当時は専用線側にも遮断機がもう1本あったような気がしますが、うろ覚えです。
その後は駐車場や空き地となっていましたが、ここに北海道新幹線の車両基地ができることが決定しています。
こんな眺めも最後になりますね。
東9丁目踏切とサッポロビールの煙突(2004年6月撮影)。
これは19年前の2004年6月に撮影した画像。
まだアリオの建設が始まる前。
マンションもこの頃は少なく、遮るものが少ない風景でした。
正面に見える煙突はサッポロビール札幌工場のもの。
この工場は2003年に閉鎖して恵庭にある北海道工場に集約することになり、跡地に大型商業施設を建設することが決定していました。
東9丁目踏切の北側(2004年6月撮影)
こちらは踏切を渡った北側からサッポロビール方向を撮影したもの。
レンガ造りの煙突とポプラ並木が印象的です。
アリオはまだ姿かたちもなく、古い家屋や畑が残るのんびりとした光景でした。
サッポロビールの工場と線路に挟まれた、発展から取り残されたような一角でしたね。
この翌年にはアリオ札幌が開業、それども長らくは交通の便が良くない所でしたが、2018年に苗穂駅が移転してきて北口ができると利便性が急上昇しました。
この辺も桑園のようにマンションだらけになる日も近いのでしょうか。
駅近でアリオも目の前とあっては、きっとそうなるでしょう。
苗穂駅南口駅前広場。
さて今度は発展の中心となる苗穂駅。
2018年に移転新築と新しくなった苗穂駅ですが、駅前の再開発工事はその後も行われていました。
その工事もほぼ完了し、計画図通りの苗穂駅が姿を現しました。
線路南側には新幹線車両基地が建設される。
南口の3階窓から札幌駅方向を見ます。
線路の南側に空き地が続いていますが、これは高架化される以前の地平線時代の線路跡。
桑園側は緑地や遊歩道として整備されましたが、苗穂側は長らく空き地や駐車場として放置状態でした。
桑園側は整備されたことが仇となって、こんど建設中の新幹線は地下区間となることを余儀なくされたわけですが、特に使用されなかった苗穂側の遊休地は新幹線用地として遺憾なく活用されることになりました。
創成川を跨ぐ新幹線札幌駅から先も高架橋が建設され、ここ苗穂駅の手前までは新幹線の車両基地が建設されます。
あと2〜3年もすれば姿を現すでしょうか。
そういえばここを札幌市電の延伸用地とすべしと書いていた、怪しげな
ブロガーがおりましたな (^^;
150mもある長い苗穂駅自由通路。
南口から入ってエスカレーターで登ると自由通路に出ます。
南北を結ぶ自由通路は長さ150m。
これは2面4線の苗穂駅と折り返し線、それに苗穂工場への引き込み線と数々の線路を跨ぐため。
自由通路から札幌駅方向を見る。正面は手稲山。
自由通路の窓からは行き交う列車が見えますが、架線のトラストビームが邪魔をしているのが少々残念ですね。
正面奥の白い山は手稲山。
札幌市民ならば見れば誰でもわかる山の一つです。
ちなみに、私は家を出るときに、手稲山が雲に隠れていれば雨か雪が降ってくる可能性が高く、綺麗に見えていれば降らないと判断しています。
統計を取っているわけではありませんが、おおむね当たっていると思います。
自由通路から苗穂工場を見る。
こちらは苗穂工場側。
車両のオーバーホールをしたり、改造したり、また廃車となった車両を解体する場所でもあります。
今日は珍しい車両はいないようで。
右側に木の陰になっていますが、新幹線用のトレインオントレインもまだあります。
苗穂駅入口。
自由通路中央にある苗穂駅入り口は、レンガや縦書きの駅名看板などレトロ調になっています。
旧サッポロビール工場の赤レンガをモチーフとしたものなのでしょう。
広い苗穂駅コンコース。
こうして改めて苗穂駅に来てみると、意外と広いコンコースですね。
明るく天井も高くて広々と気持ちよい。
一角にセブンイレブンができたのが良かったです。これがないと広々とした空間を持て余す殺風景なコンコースとなっていたことでしょうね。
21世紀からの駅はこうした将来を想定した思い切った建築が多くなったのは良いことです。
反対に80年代に新築された駅は狭い駅が多いですね。
1988(昭和63)年11月に高架化された桑園駅と琴似駅は、国鉄時代の乗降者数を想定した設計なのか、初めて見たときにホームもコンコースも随分狭いと感じたものでした。
その後の利用客の増加に対応するために、桑園駅は新たな改札口を設け、琴似駅はコンコース部分を増築することで対応しています。
券売機コーナー上にある『旅』看板のレプリカ。
『ふらんすへ行きたしと思えども』で始まる額入りの詩は、萩原朔太郎の『旅上』の一節。
元は移転前の木造駅舎のホーム側に掲げられていた看板で、これはその縮小版。
設置当時の画像がよほど貴重なのか、リンク先にある画像は某テレビ局で放映の番組で使用されたようです。
(このブログで使用の画像は出典明記による使用ならばご自由にどうぞ)
苗穂跨線橋から現在の南口広場方向を見る(2013年10月撮影)。
これは10年前、まだ新・苗穂駅の建設が始まる前の苗穂跨線橋から見た風景。
だだっ広い駐車場となっているのが今の南口広場ですね。
この頃の苗穂といえば交通の便が良くない古びた町という印象でした。
中央区と東区を結んでいた苗穂跨線橋(2013年10月撮影)。
吹きさらしの長い通路の跨線橋が南北を結んでいました。
現在ほどではないにせよ、苗穂駅から東区方面を結ぶ数少ない連絡路でしたので歩行者はそれなりにいました。
だけど、ラッカースプレーの落書きがあったり、飲み干しの空き缶が放置してあったり、夜に通ると怖いところだったでしょうね。
古くはレールを組んだトラス橋でした。
いつ頃開通した橋なんでしょうかね。
地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を見ると、1948(昭和23)年撮影のものには存在せず、1961(昭和36)年のものには存在しているので、この間に建設されたことは間違いないようです。
苗穂駅北口広場とアリオへ続く空中歩廊。
北口も駅前広場が整備され、再開発の建物も一通り完成したようです。
南口は中央区ですが、北口は東区になります。
中央区側は線路と豊平川に挟まれた古い住宅地で商業施設もちょっと遠い。
それに比べてこちら側はアリオが空中歩廊で直結し、少し離れれば東豊線の環状通東駅や東区役所もあるといった立地。
苗穂駅の利用客も圧倒的に北口の方が多い感じで、苗穂駅の住所は中央区ですが、ほぼ東区の駅と言っても過言ではないですね。
この苗穂駅北口も、東区の新たな玄関口とも言えそうです。
しかしそれにしては駅前広場が寂しい。
タクシー乗り場はあるものの、タクシーは1台もなく。人影もほとんど見かけません。
東豊線の駅へ連絡するバス路線があれば便利でしょうが、一昔前ならばともかく、運転手の確保も難しくなってきた今ではあまり期待できそうにありませんね。
人が少ないのは空中歩廊を使うからということもあるでしょう。
東区側の玄関口として、これからまだ発展株ということなのでしょうか。
空中歩廊の終点はアリオ札幌店内入口。
苗穂駅からアリオまで繋がったと聞いてやってきました。
空中歩廊の終点は風船で飾り付けがされ、『祝 空中歩廊開通』の文字も見えます。
苗穂駅直結はアリオ札幌2005年の開業以来の悲願だったとも言えましょう。
それにしては小さい出入口。
そこからアリオに入ると、すぐにどこかの売り場のようでした。
裏口感が半端ないんですけど。
祝日とあってか子供連れの家族客が多い売り場の中。
いくつか折れ曲がって進むと広い場所に出ました。
振り返ると、どうやらトイザらスの店内に空中歩廊の出入り口ができたようです。
通路が分かりにくいので迷ってしまいそう。
テナントの権利関係があるのかわかりませんが、何とも中途半端な感じのするアリオの苗穂駅連絡口でした。
このあたりも改善されてゆくことでしょう。
南口と北口の再開発工事がひと段落した苗穂駅。
これからは民間業者による周辺の発展ということになります。
少々延期が危ぶまれていますが、2030年度を予定している北海道新幹線札幌開業。
その頃には苗穂駅周辺もさらに大きく変わっていることでしょう。
あと20年もすれば今の人たちは、
「今の若い奴は知らないだろうけど、ここに踏切があってな」
「苗穂駅は今の駅よりも東側にあって木造駅舎で」
なんて話をしているんでしょうねえ。
いつまでも変わらない街というのも魅力的ですが、20年経っても30年経っても変わらないまま、道行く人々だけが年老いてゆく街なんてつまらないよ。
年月とともに風景も変わって、道行く人も代替わりして若い人がやってくる。
その方がやはり街としては魅力的だなあ。
そんなことを苗穂駅とその周辺を見ていて思いました。
〜最後までお読みいただきありがとうございました。