だいたい週末が近づくと、土日はどこかへ行こうかなあと考える。
夜行列車があった頃は金曜発の夜行で出かけることもあった。
札幌発の夜行列車もなくなり、金曜の夜に出発したければ車でということになる。
しかし2021年5月の北海道は今、新型コロナの 絶賛緊急事態宣言中。
旅行好きには本当に参りましたね、こりゃ。
このあいだ実家に行ったら道内時刻表の1988年6月号を見つけた。
もう33年前。私が高校生の頃、夏休みに北海道フリーきっぷで道内旅行をしようと、その計画のために買ったもの。
久しぶりに読んでみると、この頃は鉄道がまだ元気だったんだなあと思い出す。
そうだ、1988年にタイムスリップすればいいじゃないか。
あの頃ならば夜行列車もあるし、もちろん緊急事態宣言なんてあるはずもない平和な日本。
「クルクルバビンチョ(以下略)」
タイムスリップの方法は秘密ですが、とにかく1988年6月にやってきました。
モグタンにお前1人で行けと言われたので1人で来ました( ^ω^)・・・
道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用
ここは昭和63年の札幌だよー!
期限は24時間。
明日の21時までに2021年の札幌に戻らなくてはならない約束。
それでは昭和63年6月の金曜日の夜、急行『利尻』で稚内に行ってみよう。
急行『利尻』は札幌駅を21:57に出発して、稚内には翌朝6:00に到着する夜行列車。
時刻表を見ると、函館本線下り最終ページに、21:57発急行『利尻』と22:50発の急行『大雪』が並んでいる。
特急は札幌21:00発ライラック27号が最終。
『利尻』と『大雪』は、札幌〜旭川間の最終列車の役割もあるのだとわかる。
道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用
夜9時半頃ようやく札幌駅に着いた。
まだ高架駅になる前、地平駅の札幌駅。
みどりの窓口で切符を買う。今日は奮発してB寝台券も買った。
地下改札口の前はこんな時間でも人が多い。
週末ということと、この時代は稀に見る好景気ということで、夜遅くまで残業したり飲んだりする人が多いのだろう。
“24時間戦えますか”
ここは昭和63年かあ。
人々の顔つきを見ていると、本当に平和と好景気を謳歌しているんだなと思える。
ふっふっふ・・・・
私は33年後の2021年から来た未来人だ。
これから起こる出来事は何でも知ってるんだぞ。
この大型好景気が突然終わること、北海道で1番の銀行の破綻、それから10年は日本経済は苦しむこと、大地震、大津波、パンデミック、テロ。
何でも知ってるんだぞ!
だからと言って、私が未来人だと人々に伝えるのはなかなか難しい。
昨今はインターネット掲示板に私のようなタイムトラベラーが出没するようだ。
が、ここは昭和63年。
ここには携帯もパソコンも無けりゃインターネットも無い。
例えば、そこらの通行人をつかまえて、
「あなた、今の好景気は再来年で終わって拓銀も潰れますよ」とか
「来年の元号は平成です」
なんて言っても頭がおかしい人と思われるのがオチ。
それと、私は賭け事は一切やらないので、競馬はどの馬を買えば当たるか聞かれてもわからないので答えられません。

とにかく昭和63年の札幌駅である。
改札口前では改札係がカチカチとパンチを鳴らす音が心地よい。
私も改札口でパンチを入れてもらって地下道へ。
ピカピカの地下鉄さっぽろ駅から地下街を通ってJR札幌駅に向かうと、だんだん煤けた雰囲気になるのが何となく旅情があって好きだなあ。
改札口からホームへ向かうこの地下道も相当煤けている。
国鉄からJRになったとき、多くの駅で始めたのが駅舎のリフォームだった。
函館駅や旭川駅も改装されて明るく清潔になったが、札幌駅だけは国鉄時代のままだった。
その理由は、この半年後に行われる高架開業。そっちに移転するのが決まっているからだ。
9番ホームの北側は、高架になる“新”札幌駅がもう姿を見せている。
地下道から階段を登って6番ホームへ。
急行『利尻』は既に入線してブルーに白線2本の車体が発車を待っていた。
ホームは14系客車の発電ディーゼルエンジンの音が響く。
いいなあ、いかにもこれから旅立つという思いが強くなる。
遠い旅に出るキャラバン隊がこれから出発するような情景が目に浮かぶ。
だからといって、ディーゼルエンジン付きの客車に乗るのは嫌だけど。
頭に『スハフ』の3文字が付く車番のやつね。
下り『利尻』の編成はB寝台車が2両、座席車が3両の5両編成。
だけどこの日は座席車が1両増結されて6両編成となっていた。
稚内までの夜行列車だが、旭川までの途中駅で降りる人が多いからだろう。
自由席の方は混んでいるようだが、こちら寝台車は静かだ。
2両のB寝台は下段がさらりと埋まるほどの乗車率。
道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用
寝台に荷物を置いたらホームのキヨスクに酒とつまみを仕入れに行く。
ワゴンを置いて駅弁の立売もあったが、買おうかどうしようか迷ったが買わなかった。
夕食はもう済ませてあるし。
もし何か欲しくなっても、途中の旭川での停車中にまた買い物ができるのだった。
通路の折り畳み腰掛に座って発車を待つ。
寝台車の客は、もう10時になるからなのか、寝具をセットして着替えて寝支度の人が多い。
私は腰かけてしばらくここで1杯やらせてもらう。
ほどなく発車ベル。
ウィウィウィウィ〜といった高い電子音が特徴の発車ベル。
昔はジリジリジリジリ〜と鳴った本当のベルだったが、電子音に変わったのはいつごろからだったかな。
ベルが止むと手笛の音。続いて出発指示のブザーが「ブー」と鳴る。
出発指示がベルのホームとブザーのホームがあるのだった。
ガタンと軽い衝撃があって発車する。
発車する頃には、寝台車の乗客は自分の寝台に引っ込んでしまい、私のように起きている人は数えるほどだった。
車内放送のチャイムはハイケンスのセレナーデ。
「皆様おばんでございます、今日もJR北海道をご利用いただきましてありがとうございます」
いきなり北海道弁で始まった車内放送は、この列車の編成の案内が終わると、
「寝台車はこの放送をもちまして、座席車は旭川到着を最後に南稚内到着20分前までの放送を中断させていただきます」
「また車内も減光させていただきます」
「途中駅でお降りの方はお乗り過ごしのないようご注意ください」
「それでは途中停まる駅と到着時刻のご案内をいたします」
「江別22時16分、江別22時16分、続きまして・・・」
全ての停車駅の到着時刻を2回続けて言うのだった。
そんな車内放送が終わるころにはもう白石駅を通過するところだった。
22:32、岩見沢着。
前の方の車両から大勢の人が降りるのが見えた。
美唄、砂川と停まるごとに座席車からは多くの人が降りる。
あの人たちからすれば、夜行列車というより最終の帰宅列車といったところだろう。
滝川を過ぎた頃には、混んでいた自由席もだいぶ落ち着いたようだ。
座席を向かい合わせにして横になっているのは稚内まで行く人達だろう。
もうこの先乗ってくる人も少ないと知っているのだ。
23:59、旭川駅1番ホーム着。
ここで21分停車する。
札幌からけん引してきた電気機関車のED76からディーゼル機関車のDD51に付け替えるためだ。
私はちょっと飲み足りないので、停車中にお酒を仕入れてこよう。
改札口で切符を見せて「買い物したいので」と言って一旦出させてもらう。
コンコースにあるキヨスクはまだ営業中だ。
このあとは1:15発急行『大雪』、その次は札幌行急行『利尻』が3:19に到着するので、旭川駅は24時間開放していた。
キヨスクでお酒を買ってホームに戻る。
ホームには駅弁の立売が出ていた。
ちょっと寄って覗いてみたら寿司しかない。
販売員が「どうですか」と勧めてきたが、この時間に寿司をつまむ気もしないので軽くことわって車内に戻る。
旭川からは宗谷本線だ。
0:20、機関車のピーという汽笛が聞こえて発車する。
しばらくは旭川市内の高架線を進む。
お酒をもう1本開けて横になったらいつの間にか眠ってしまった。
昔は夜行列車に乗ると眠れなくて困ったものだが、今はこうしてお酒を飲んで横になったら気持ちよく眠れるようになった。
★ ★
思えば私が初めて1人で夜行列車に乗ったのが中学2年の時。
あの時も急行『利尻』だった。
初めて夜行列車に乗って、まだ行ったことのない稚内を目指すということにとてもワクワクしていた。
この次は名寄で26分、音威子府で15分の長停車がある。
あの時はその度にホームに降りて外をウロウロしていた。
その晩は結局一睡もしていなかったんじゃなかろうか。
道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用
気づくと窓の外が明るくなっている。
時計を見たら5時少し前。
幌延と豊富の間くらいを走っている。
今日は良い天気だなあ。
地平線の向こうに利尻富士がくっきりと見える。
また通路の腰掛に座ってどこまでもついてくる利尻富士を眺めた。
5:35、昨夜のお約束の車内放送が流れる。
ハイケンスのチャイムが2回流れ、
「皆様おはようございます、列車は只今定刻で運転しております」
「あと20分で南稚内到着でございます、どなた様もそろそろお起きになりましてお仕度をお願いいたします」
寝台車の客もぼちぼち起き出してきた。
「ただいま抜海駅を定刻に通過いたしました」
「間もなくしますと左手に日本海が見えてまいります」
ずっと笹をまとった宗谷丘陵が続いていたが、列車が減速するとその日本海を望む高台の上に差し掛かる。
「今日は利尻富士がきれいに見えております」
「利尻島にあります利尻富士は海抜1721m・・・」
と名所案内が続く。
列車も止まるのではないかというほど速度を落としてゆっくりと通過する。
ここを過ぎるとしばらくして稚内の家並みが見え始める。
再び車内放送。
「まもなく南稚内でございます」
「連絡列車は、声問行き普通列車は8時15分、鬼志別浜頓別方面音威子府行きは10時20分でどちらも時間がございます」
右から天北線の線路がより沿って南稚内に到着する。
駅裏の笹だらけの丘を見ていると、何となく最果てに来たような気持になる。
南稚内から稚内市街を高架橋から眺めて、列車は終点稚内へ。
ホームに降りると寒い。
札幌はもう汗ばむ日も出てきたのに、こっちはようやく春になったばかりのようだ。
ホームの柱にある『函館から682km』『東京から1422km』の表示を見ると稚内に来たなって実感する。
このあと急行『利尻』の車両は、機関車の前後を付け替えられて車内整備を終えると、今度は上り急行『宗谷』として札幌へ向かう。
駅前に出るとフェリーターミナル行きのバスが1台お客を乗せて発車を待っていた。
車内は島へ向かう人たちで満員だ。
バスが出て行くと駅前も待合室も静かになった。
これからどうするか。
まず朝食だな。
稚内駅の旧駅舎と言えば、待合室にあった立ち食いそば屋を思い出す人も多いだろう。
けど、今は昭和63年。
まだあの立ち食いそば屋はできる前なのよ。
待合室のキヨスクは『利尻』到着前からやっているけど、朝食になるようなものはパンとカップ麺くらいしか置いていない。
その代わり、駅前の食堂と喫茶店は『利尻』到着前から店を開けている。
その1軒の『ひとしの店』で朝食とした。
店を出てから歩いて北防波堤ドームへ向かった。
フェリーターミナルでは利尻・礼文行きのフェリーが出航を待っている。
その近くにあるのが『稚泊航路記念碑』と宗谷本線を走っていたSLのC55。
戦争で樺太がソ連に奪われるまでは、ここから樺太の大泊まで稚泊連絡船があって、宗谷本線の急行もこの場所まで乗り入れていた。
函館からの直通急行が朝ここに着いて、その列車に接続して樺太の大泊へ連絡船が出航していた。
昔日の面影はギリシャ神殿風の長いドームだけとなり、賑わうフェリーターミナルとは対照的なほど寂しさが漂う。
樺太連絡を失った宗谷本線も、戦後はローカル線になってしまった。
また稚内駅に戻る。
改札口の前は7:30発札幌行急行『宗谷』の改札を待つ人たちの行列ができていた。
これで札幌に戻るかなと思いかけたが、それではトンボ返りだ。
この次の8:10発天北線の声問行きに乗って往復してみようか。
今日は土曜日。
南稚内から高校生がドッと乗ってきて、次の宇遠内でまたドッと降りた。
この時代の学校は土曜日は午前中だけあったんだよね。
完全週休二日となるのはまだまだ先の話。
車内はがら空きになり、板張りのホームだけの宇遠内駅を後にする。
その次が終点の声問。
おや、あんなに天気だったのに雨が降り出した。
声問駅は木造駅舎があり駅員がいるのだが乗車券の販売はしていない。
窓口も板で塞がれていて、営業上は無人駅という扱いになっている。
声問は稚内市街の東端。
町はみんな国道の方に向いていて、駅はいかにも裏側のような場所。
国道は稚内へのバスが1時間に1本あるのに対し、こちらは声問折り返し列車を含めて1日7本のみ。
そりゃバスのある国道の方が栄えるわな。
現代に帰れば線路だった所が国道になり、声問駅の場所もわからなくなってしまった。
道内時刻表6月号(昭和63年6月1日発行)より引用
7分の折り返しでまた稚内駅に戻ってきた。
天気も崩れちゃったね。
もう行くところもないし、11:53発の急行『天北』で札幌に戻るとしよう。
〜おわり
〜この旅行記は1988(昭和63)年の記憶に基づいたフィクションです。
〜画像は全て筆者撮影。寄せ集めなので若干季節・時代感が合わないのはご容赦願います。
コロナ禍でJR北海道も苦境に立たされて更なる廃線の話も聞こえており寂しい限りです。
LCCで北海道旅行が身近になりましたがこういった古き良き旅情も味わいたいものです。
もぐたん懐かしい〜。。。
いつも楽しく拝見させて頂いております。
旅には歴史は付き物ですからね。コロナ禍で動きにくいですが、旅行記の更新楽しみにしておりますm(__)m