前記事石狩鉄道を探しに の続編です。
過去に存在した札幌と石狩を結ぶ鉄道計画。その痕跡を探そうというものです。
前回は石狩市親船町の海岸林の中に眠る石狩鉄道の築堤を見に行ったが、今度は石狩駅予定地を探しに石狩本町地区まで行ってきた。
ここに起工式が行われた石狩駅予定地があったのだ。
北海道新聞1959(昭和34)年5月19日の記事から引用する。
“石狩鉄道やっと起工式”
“札幌と石狩を結ぶ鉄道建設の免許はとったものの資金難から着工が危ぶまれていた石狩鉄道の起工式が十八日石狩町浜町の同鉄道石狩駅設置予定地で行われた。”
石狩駅の予定地は石狩町浜町とある。
はて?浜町?・・・
浜町は本町の市街地を過ぎて人家が途切れるあたりから浜町となる。
計画では石狩駅の桑園起点のキロ数は22.520kmとなっていて、地理院の地図上に鉄道建設予定線上に線を引いて行くと、今の弁天歴史公園の裏、あるいは旧石狩展望台のあたりがその場所になった。
誤差はあるだろうが、当時の立地を考えればこの場所で納得がいく。
地理院地図上に石狩鉄道予定線を引いてみると。
この場所は、旧渡船場から浜へ向かう道と交差するところ。
当時は石狩河口橋も無く、対岸の八幡町との間は渡船で通っていた。
駅の場所としては申し分ないところ。
しかし、ここの住所は弁天町で、浜町はまだ300m以上も先。
駅舎はここに設けられることになっていたが、機回しや貨物のための引き込み線もこの先まで伸びるはずで、その終端が浜町にだったということになる。
一応終着駅の構内端まで駅構内ということになるが、ここが起点という意味で浜町で起工式を行ったんだろうか。
同記事には、
“日本海に面した砂丘の石狩駅予定地で神式により行われ”
の一文もあり、日本海に面した砂丘となるとやはりここだなあ。
今は生い茂った林になっているが、起工式を行った当時は海を望む砂丘だったはずで、その後防風林の植林が進んで今のようになっている。
旧石狩展望台下の道路から日本海を望む。
石狩市WebGIS で見ると、ここから100mほど北の1区画が新町の飛び地となっていて、その1区画が整地されたような地形になっている。
もしかすると、新町と浜町を間違えた?
まさかね。
ここに石狩駅ができるはずだった? 弁天歴史公園から北東方向。
坂道を下って突き当りが旧渡船場となる。
老朽化のため立入禁止の石狩展望台。
石狩駅予定地については手掛かりになるようなものは見つからなかった。
浜町よりは弁天町のこのあたりの方が辻褄があうんだけどなあ・・・というのが結論。
もう一方、気になるのは札幌側の動き。
石狩と札幌を結ぶ鉄道なので、札幌市側でも当然用地買収や測量が行われていたはずで、それについては旧石狩町内の資料には何も書かれていない。
所詮は幻の鉄道。石狩町内だけの動きで終わってしまったのか。
と思っていたら、意外な所にその記録があった。
その資料は『新川郷土史編纂委員会発行新川郷土史』。
石狩鉄道による鉄道敷設計画の動きがあったとすれば、当然その記録がどこかに残っているわけで、この郷土史に同鉄道による用地取得劇が記載されていた。
石狩町内は海岸林や防風林用地をうまく利用して通り抜けてきたが、札幌市内に入るとそうはいかない。
石狩鉄道が立ち上がり、その役員が新川の地主のもとへに交渉にやってきたのは、まだ起工式も行われていない1958(昭和32)年のこと。
新川郷土誌によると、翌年には買収価格など具体的な交渉が始まったようだ。
この用地交渉も難航したようで、駅舎敷地を寄付とすることや営農に支障が出る北琴似駅手前のカーブ部分の用地取得は特に反対が多かったという。
石狩鉄道完成予想図。
(新川郷土史編纂委員会発行新川郷土史より引用)
昭和30年代前半の北区の新川や新琴似はまだ完全な農地だった。
市電の北端もまだ北24条だった頃、鉄道が開通して駅ができると聞いても、農家にとっては半信半疑だっただろう。
相手は国鉄ならばともかく、資金もロクにない地方鉄道。
郷土史には、その後用地取得に至ったかまでは書いていないが、その後石狩鉄道へ町有地の売却をめぐって町議会からの追及、株主から社有地の不正売却の追及を受けるなど、鉄道工事着工どころではなくなっていた模様。
石狩鉄道株式会社は1963(昭和38)年には社名を札幌臨港鉄道株式会社と改めて、東京の建設会社の手で石狩町側の工事を再開する。
その頼みの建設会社も不渡手形を出して工事からは手を引いてしまうのだった。
この頃は既に鉄道からバス・トラックへという時代になっていた。
石狩鉄道発足時は、札幌からの交通は冬季になるとバスが運行できず、花畔から雪上車や馬橇に乗り換えるような時代だった。
冬季の交通確保という意味でも、鉄道は切実な願いだっただろう。
しかし、あれから数年で道路事情が格段に向上することになる。石狩への国道231号線も舗装工事が進み、莫大な資金が必要な鉄道は必要とされなくなっていた。
もし開業していれば都市鉄道として・・・というのは後出しの結論で、当時は札沼線でもローカル線に過ぎなかったし、この11年後には定山渓鉄道も廃止になっているなど、地方鉄道は凋落の時代だった。
札幌臨港鉄道は同時期に本社を東京に移し、不動産会社として存続することとなった。
この当時の石狩鉄道にまつわる出来事を各資料から拾い出して時系列にまとめると以下のようになる。
昭和31年10月 石狩鉄道株式会社設立 資本金1000万円
昭和32年5月 運輸大臣より札幌北拾条〜石狩間地方鉄道の免許を取得
昭和32年6月 札幌市新川の地主に土地買収の話が来る
昭和33年3月 資本金4000万円に増資
昭和33年7月 新川〜石狩間で分割工事の施工認可
昭和33年9月 払い込み実態のない空株や役員個人名義の借入金を肩代わりなど杜撰な経営が明らかに
昭和34年5月 浜町の石狩駅設置予定地にて起工式を行う
昭和36年4月 資金難で建設目途つかず 工事施工認可期限を7月まで延期
昭和36年6月 高野建設(本社東京)と工事契約
昭和37年5月 株主総会で決算書の不正疑惑の追及
昭和38年4月 社名を石狩鉄道株式会社から札幌臨港鉄道株式会社へ改める
昭和38年5月 高野建設子会社の国土開発工業によって石狩起点側の土盛り工事開始
昭和38年7月 札幌臨港鉄道の本社を札幌から東京の国土開発工業内に移転
石狩鉄道設立から札幌臨港鉄道と名を変え不動産業へと転向するまでの7年余り、鉄道開通の夢は資金調達のための粉飾に奔走しただけで終わったようだ。
鉄道事業免許は新会社に引き継がれたが、社名に託した石狩湾新港の臨港線としての望みも絶たれ、1998年には最後まで残った新川〜石狩の鉄道事業免許も廃止されている。
新川郷土史にあった石狩鉄道完成予想図を基に地理院地図に改めて線を引きなおしてみた。
札幌市内はどのようなルートを取っていたのだろうか。
最初は西札幌駅をカーブして新川と並行する線を引いたが、今度は新琴似1番通りに並行する。
桑園起点のキロ程に当たる場所に点を落として駅の予想箇所とした。
石狩鉄道完成予想図より作成のルート図、北琴似〜南線
(地理院地図を加工して筆者作成)
石狩鉄道完成予想図より作成のルート図、西札幌〜北琴似
(地理院地図を加工して筆者作成)
最後に石狩鉄道の駅が設置されるはずだった場所の今を見てみよう。
紅葉山駅予定地。
花川の住宅地を斜めに横切る防風林に沿って鉄道が通るはずだった。
ここは藤女子大学花川キャンパスが近い。あと石狩南高校が1kmほどの場所にあり、きっとこの駅は学生が多かっただろう。
北琴似駅予定地付近。
場所はスーパーアークスの裏手に当たると思われる。
学校は札幌国際情報高校が近い。ここも学生が多く乗り降りしてたんだろう。
周りは住宅地になったが、ここだけは牧場が残る。
石狩鉄道はここを斜めに通って、カーブを描いて新琴似一番通りに並行することになる。
今から60年以上前の用地交渉において一番難航したのもこのあたり。
ロードサイト店舗がならぶ新川駅予定地付近の新琴似一番通り。
もし石狩鉄道新川駅ができていたら、この辺りは商店街として発展していたかもしれない。
麻生から花川へのバス路線となった四番通り(道道865号樽川篠路線)よりもこっちが栄えていた可能性もある。
昭和30年代初頭の当時と、発展した現在とそのまま対比してもしょうがないが、石狩鉄道の駅予定地を回ってみると、当時のルート選定はなかなか先見の明があったと見える。
90度のカーブで札沼線に寄り添ったところが西札幌駅の予定地だった。
今のJR新川駅の約300m札幌寄り。
ここから札沼線に並行して桑園駅へ向かうことになっていた。
桑園から札幌へは国鉄乗り入れを折衝していたほか、一時期は高架か地下鉄で都心乗り入れという大風呂敷な構想もあったようだ(昭和36年6月8日道新記事より)。
もし、石狩鉄道が実現していたら、現在のJR新川駅や八軒駅、また複線高架化もどのようになっていたのだろうと想像する。
国鉄末期までローカル線然だった札沼線に先んじて複線電化の鉄道となっていたかもしれない。
以上、夢幻に終わった石狩鉄道のまとめでした。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。
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