5月7日付で廃止となった札沼線。
「付」とは、実際には北海道はコロナ禍の緊急事態宣言の対象となったため、4月17日新十津川駅10時発の列車が最後の運行となっていたからだ。
あれから半年がたつ。
コロナ禍で突然の打ち切りといった格好になったがその後どうなったのだろうか。
最初に新十津川駅へ。
駅前はイベントがあったのか、人だかりができていた。トラックの荷台にトレインマークが乗せられて多くの人が見送っていた。
駅前広場は仮設テーブルの片づけ中。
調べると今日は『新十津川駅89年記念祭』というイベントが行われていて、時間が10:00から14:00まで。
駅に来たのが14時半だったので、既に終わったところにきたわけだった。
人だかりができていた新十津川駅前。
人だかりとトラック荷台のトレインマークは5月6日に運転されるはずだった列車のもので、営業終了が急遽前倒しになったために幻のヘッドマークとなったものだ。
今日だけはイベントのためにホームが解放となっていたので撮影させてもらう。
看板類が取り払われていた新十津川駅ホーム。
ホームはパイプ柵で囲われて、駅名標の表示板は撤去されているが、そのまま残されている。
残されているというか放置という方が正しいのか。
駅舎もそのままの姿で残されている。
ホームから見た駅舎。こちらは営業当時のまま。
観光案内所として復活していた旧手小荷物窓口。
新十津川駅に発着する列車が1日1本になった頃からこの駅にやってくる客が増えだしたようだ。
それ以前は町民からも忘れ去られ、町はずれにある荒れた無人駅という印象だった。
廃止が決定してからはさらに訪れる人が増え、町側も駅舎内に観光案内所を設けたり、駅前でイベントを実施したり、それまで地味な農業町だった新十津川町の、それなりに観光スポットにはなっていたようである。
こうして廃止後も観光スポットとして旧駅を活用したりイベントを行って人を集めたり情報発信するのはいいことだ。
と思っていたら、道新電子版の記事にこんなのがあった。
“新十津川駅、誕生日の10月10日で終幕 来年度中に駅舎取り壊し 閉鎖日まで「軌跡展」”
(どうしん電子版 9/18)
どうやら今日のイベントは駅舎閉鎖のために行われたようで、来年度(2021年度)中には解体されるとある。
廃止になったおかげでこれだけ有名になったのに残念なことだ。
色々検討した上での決定事項なのだろうし、古い駅舎を維持管理するとなるとそれなりにお金もかかるので致し方ないことは理解できる。
旧江差線の旧江差駅舎も町の再開発の一環で取り壊されて、今は旧駅前広場に碑が立つだけとなっている。
去年(2019年)仕事で江差まで行く機会があり実際に江差駅跡を見たとき、あれだけ廃止反対をして、廃止が決定したら名残り乗車客がたくさんやってきて駅前でイベントまでやって名を知られるようになったのに、廃止後は冷酷なことをするものだと思った。
下徳富駅。
続いて向かったのは下徳富駅。
ここも木造駅舎が残っている。大型の農業倉庫に囲まれた場所にひっそりとある目立たない駅。今はすべてトラック輸送だが、貨物列車があった時代は米の積み出しで忙しかったということがうかがえる。
駅前は若干の集落があるが、市街地は国道275号線のほうにある。
3往復時代はこの駅から新十津川までの乗客が地味にあったようだ。
下徳富駅の駅舎内部。
駅舎の戸は南京錠で施錠されていた。ガラス窓から中はうかがえる。
待合室のベンチはそのまま置かれ時が止まったようだ。
今は外から窓越しに中をのぞくことができるが、この辺りは豪雪地帯。窓ガラスの破損防止のために窓はすべて板でふさがれることになるだろう。
中を覗き込めるのも今のうちだけだ。
下徳富駅のホーム側。
営業中当時からホーム側は草生して廃駅のようだったが、こうして改めて見るとしっかりとした造りだ。
新十津川駅や他の駅と違って完全無人化が早かったためか放置されたままとなっていた。
それが逆に原形のまま残っている数少ない駅舎となっている。
あれこれ手が入っている新十津川駅より、個人的には下徳富駅のほうが昔の駅らしくて好きだった。
踏切に面して簡素なホームだけの南下徳富駅。
南下徳富駅は吹きさらしのホームだけの駅だ。
手前側が木造の低いホームで奥の方がコンクリート製の立派なホームになっている。もともとは1両分に満たない木造ホームだけだったところにあとからコンクリート製を増設したのでこうなったのだろう。
鶴沼駅もこんな感じのホームだった。
まだ踏切の形が残っていた。
通常は廃止になると通行の邪魔なので踏切部分の線路が真っ先に撤去されるが、ここはまだ残されていた。
廃止後は『列車は通りません』旨の看板が設置されるのだが、どういうわけかそれもない。
もう何年も列車の通らない日高線の踏切も似たようなものだが、違うのは踏切の『×』型の標識が撤去されていること。
日高線のは遮断機は撤去されているが、バッテンの標識は残っているので一時停止をしなければならない。
線路は立入禁止の柵が設けられていた。
柵さえなければまたここに列車が通るような気がしないでもない。
いずれは線路が撤去されることは間違いない。跡地は深名線のように農地になるんだろうか。
数年後にここに来たら、もう線路があったことがわからないくらいにまで変わっているだろう。
まだ原形のまま残っている石狩月形駅の駅舎。
石狩月形の駅舎は意外にも営業当時と変わらない姿で、しかも待合室もバスの待合所として開放されている。どこの駅もホームへは柵でふさがれて立入禁止の看板があるが、この駅にはそうしたものはなかった。
札沼線の代替バスは月形駅で分断され、石狩当別駅〜月形駅間は下段モータース、月形駅〜浦臼駅間は美自校観光バスによる運行になる。
時刻表を見ると石狩当別行が1日9本、浦臼駅行は1日5本。本数だけ見ても鉄道として維持してゆくのは限界だったことがわかる。
駅舎入口の張り紙。
看板類が撤去されたほかは営業当時のままの待合室。
線路が錆びている以外はそのままになっている駅構内。
石狩月形駅に立入禁止の柵がないのは、駅の裏側へ通り抜ける通路として開放しているからなのだった。
裏側は団地が立ち並んでいて、住民にとっては近道ができるようになったので便利になったことだろう。
そしてこれは近い将来駅舎が取り壊されることのフラグでもある。
ホームとを結ぶ構内踏切は、駅反対側と行き来する住人の通路になっていた。
月形町には、新たに交流施設を併設したバスターミナルを建設する計画があるようだが、その候補地の1つとして石狩月形駅の敷地が挙げられている。
仮にバスターミナルが別な場所にできても駅舎は取り壊され、この場所に団地と町を結ぶ道路ができるだろう。
老朽化した駅舎を保存するなどというのは鉄道ファンならではの発想で、普通の感覚であれば廃止になった駅施設など市街地を分断するだけの無用の長物でしかない。
駅南側の踏切から見た石狩月形駅構内。
あと3年もすればここに駅があったこともわからなくなっているんだろう。
駅南側の踏切跡は、ここは線路が撤去されて舗装されてフラットになっていた。
踏切跡をウロウロしていると結構車がやってくる。
駅裏の団地から正面側の町に行くにはこの踏切跡を通るしかないためだ。
住民にとっては駅舎など早く解体して道路が開通してほしいところだろう。
ポイントの手前で切られた線路。
踏切部分で切られた先にポイントがあって、ためしにトングレールを押したら動いた。
ポイントも廃止後は固定されてしまうものだが、ここのは器具を外してただ放置という感じだ。
踏切もそうだが、廃止後もなかなか手が回らないといったようにも見える。
貨車駅だった中小屋駅駅舎。
次が貨車駅の中小屋駅。
貨車駅とは貨物列車の車掌車を改造して駅舎を指す。
JR化の前後あたりに無人化された木造駅舎が次々に置き換えられた。
貨物列車のコンテナ化で国鉄末期から大量に余っていた車掌車を活用する、当時としては画期的なアイデアだったのだろうが、30年も経てばこれも老朽化して問題となってくる。
貨車駅は撤去して新たな待合所を建て直す駅も出てきた。中には貨車駅のまま驚くようなリフォームをした駅もある。
ここも立入禁止の柵が設けられていたが、貨車駅の出入り口には柵がないのでここからは出入りできると解釈して中に入ってみる。
貨車駅の内部。
札沼線では石狩金沢、本中小屋、中小屋の3駅が貨車駅となっていた。
ここも中に入る戸は南京錠で施錠されているので外から中をのぞく。
貨車駅は見た目にはかわいらしいが、実際は夏は暑いし虫は飛んでいるし狭いしあまりいい印象はない。
中小屋駅のホーム。
ここも線路が錆びている以外は変わっていない。
ひっきりなしに車が通る国道とは違って時が止まったような空間だった。
中小屋駅南側の踏切。
中小屋駅南側にある踏切跡は線路は切断して撤去しているが、警報装置は残っている。
ここもバッテン型の標識が撤去されているので踏切ではありませんということだ。
早くも草が侵入してきた線路。中小屋駅南側の踏切から。
踏切から南側を見ると、早くも草が線路に覆いかぶさるようにして生えているのが見えた。
来年の夏ごろに来たら、線路上を覆うようになっているかもしれない。
鉄道に限らないが、人が来なくなると途端に草が生い茂るようになるのは不思議だなあ。
札沼線のホームだった1番ホームは残る北海道医療大学駅。
最後は札沼線の終点となった北海道医療大学駅。
ここから札幌までは電化され、本数も多くなり鉄道の本領発揮の路線となる。
ホームは2本あって、1つは札沼線の浦臼や新十津川まで直通する1番ホーム。もう1つがこの駅で折り返す列車専用の2番ホームになる。
多くの列車は2番ホームに発着するが、1線だけではさばき切れないようで、2番ホームも電化されている。
駅に掲示の時刻表を見ると、1日9本が1番ホーム発着となっていた。
石狩金沢の名称が消え、終着駅となった医療大学駅の駅名標。
もうここは札沼線ではなく学園都市線の駅。
札沼線があったことなど誰も気にも留めてないだろう。
駅名標は『いしかりかなざわ』の表記がない新しいものに変えられていた。
ホームの先に車止めが設置された。
1番ホームの先には車止めが設置され、その先で線路が切られて架線を支えるための新たな電柱が建てられていた。
札沼線、思えば地味な路線だった。
札幌から北海道医療大学までは都市鉄道として生まれ変わったが、あとは沿線の町同士を結ぶだけの路線だった。
観光客が乗るようなこともなく、特に見るべき車窓もなく、並行する国道275号線を走る車に次々と追い抜かれる。
運炭路線のように華やかりし時代もなければ、急行列車が走ったこともなし。
石狩平野の米どころをただトコトコと走っているだけの路線だった。
いちばん脚光を浴びたのが、皮肉なことに路線の廃止ということになる。
ローカル線に客を呼び込む一番の方法は何か?
それは廃止イベントを行うということにほかならないのであった。
〜最後までお読みいただきありがとうございました。
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