2004年ロシアサハリン旅行記11

 2004年9月25日

 ◆ 出発の朝 コルサコフへ

6:30、セットした目覚まし時計で起きる。
まだ外は真っ暗で雨が降っている。今日でサハリンはおしまい。7:45にガイドのAさんという人が迎えに来て、車でコルサコフ港まで送ってくれることになっている。 

ほとんどの支度は昨夜のうちにやっておいたので、部屋でテレビをみながらボーっとしていた。テレビ番組はアニメの短編をずっとやっている。7時を過ぎるが、ニュースが始まらない。そういえば今日は土曜日だった。 

7:30すぎ1階におりてチェックアウトする。昨日の電話代を請求される。最初は25Рかと思ったが、2.5Рだった。
“用心棒”の兄さんが1人ウロウロしているほかは誰もいないロビーで、椅子に座って待つ。

雨はだんだん強くなってきている。
暗いし、旅行中ならば滅入るような天候だが、今はようやく帰国できる安堵感ばかりだ。

7:50頃少し遅れてワゴン車が玄関前に停まった。車から女性が降りてきて、ロビーにやってきた。 

「おはようございます。私がコルサコフまで案内しますです」
と日本語で言い、

「まず“電車”のチケットをください」

列車の切符は2枚になっていて、2枚目をもぎ取られて1枚目は返してくれる。旅行の記念に持って帰ろうと思っていたのだが、ガイドの人に渡さなければならないとは聞いていなかった。 

じつは1列車「ユジノ-ノグリキ」と2列車「ノグリキ-ティモフスク」の2枚の切符しかもっていなかったのである。「ティモフスク〜ユジノ」の切符は、車掌が同室の人の分をまとめてテーブルの上に置いていったのだが、同室のおばちゃんがその切符をゴミと一緒に捨ててしまったので持っていなかったのだ。 

2枚の切符を渡すと、Aさんは

「ティモフスクからユジノまでのチケットがありません。全部ください」と言う。
「それは貰ってこなかったです。ダメでした?」と言うと、彼女はしばらく考えて「いいです・・・大丈夫です」と言った。

車は玄関前の駐車場に停めてある。激しい雨の中、玄関を出て車へ向かう。

ワゴン車のトランクに荷物を積み車内に入ると、すでに2人の女性が座っていた。1昨日ティモフスクからの列車内で一緒だったKさんと、もう1人は大阪から来たという女性であった。

ガイドが日本からの3人をそれぞれのホテルで拾い、チャーター車でコルサコフ港まで送り届けるということらしい。

激しい雨の中、車は街中を走りぬけて、コルサコフへの国道へ出る。

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 雨の中をコルサコフに向け車は走る。

40分ほど走って車はコルサコフ市内に入る。昨夜からの雨で道路の排水溝はあふれて、あちこち水びたし。豪快に水飛沫をあげながら市内の道路を走る。9時前にフェリー乗り場に着いた。

車を降り、我々はガイドのAさんと一緒にフェリーターミナルに入る。
入ってすぐの所に窓口があり、そこで港湾税200Рを支払う。事前に知らされていたのは150Рだったが、いつの間にか値上げしたのかも知れない。 

Aさんに、
「ルーブルが余ったのだが、どうすればいいでしょうか?」
と聞いてみた。

「港には両替所はありません、両替は出来ないです」

別に再両替できなくてもいいのだが、ルーブルの国外持ち出しは禁止されているので、税関で没収されるだけだとしたら何とも馬鹿らしい。 

待合室にいるのは、ロシア人が20〜30人と日本人が十数人というところである。 

ここで、偶然にF社のS社長に再会した。F社とは、まだソ連時代にサハリンが開放になって以来サハリン旅行を手がけている札幌の旅行代理店で、2000年のサハリン鉄道ツアーではお世話になった方である。
あの時は社長がほぼ同行となり、ホテル列車の食堂車でウオッカを飲みながらサハリンのことなど色々教えていただいたりした。 

今回は列車でひとり旅してきたと言うと、積もる話は船内でビールでも飲みながらということになった。 

9:00、出国手続き開始となる。
待合室の奥のドアが出国審査室となっていて、1人ずつ中に入れられてそのたびにドアが閉められる。ドアの中の様子は分からない。別に怪しいものを持っているわけではないが少し緊張する。 

前の人の審査が終りドアが開く。自分の番だ。ドアをくぐればサハリンの人たちとはお別れである。ユジノサハリンスクからここまで一緒しただけだったが、Aさんともここでお別れとなる。 

「ダズビダーニャ(さようなら)」と言うと、彼女も笑顔で「ダズビダーニャ」と答えた。


 ◆ アインス宗谷 稚内へ

審査室に入るとドアが閉められる。
パスポートを渡すと、審査官に「おみやげは?」と聞かれる。これだと持っていたビニールの袋を指差す。中を開けて見せろという。ビニールをほどいて中を見せる。中身はカップラーメンやチップスそれにタバコが数箱である。
この日本人はなんでこんなものばかり買込んだのだ?と言いたげであった。 

審査官の1人がタバコを1箱つまみあげて「マリファナ?」と言った。「ノー、タバコだ」と答える。「ピストルは?」「麻薬は?」と聞かれるが「ノー!」と答える。バッグの方を開けられると少々厄介だなーと思う。

別に禁制品が入っているわけじゃなく、荷物をギチギチに詰め込んでいるため、中を開けられると元に戻すのが大変なのだ。
いい加減に次がつかえているので、パスポートを返されて放免になる。バッグは開けられなくて済んだ。 

次は手荷物のX線検査を通り、出国審査へ。実はノグリキとティモフスクのホテルでは、パスポートにスタンプ(外国人宿泊登録確認済みのスタンプ・・・出国審査の際の確認事項となっている)を押して貰えず、ひと悶着あるのかとヒヤヒヤしていたが、何も言われなかった。

最後にパスポートとボール紙の審査済みの整理券を渡される。そういえば税関申告書はまたしても出さずじまいだった。 

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 出国審査済みの整理券。

Kさんの話によると、行きの入国時の審査の際も申告書を渡すと、必要ないとクシャクシャにして捨てられたそうだ。関税の支払いが無い場合は必要ないのだろうか。
いずれにしても審査官の気まぐれかもしれないし、何せロシアのことなので本当のところは分からない。

審査がすべて終わると、バスでフェリーまで向かうことになる。相変わらず中古の宗谷バスが使用されている。最後にロシア人の乗客が大勢やってきて満員になる。最後に制服制帽の軍人らしい職員が乗り込んで発車となった。 

桟橋への橋を渡るとすぐにフェリーの前に着く。フェリー最後部の車両甲板入口から乗船となる。
入口に軍人らしいロシアの職員が立ち、出国審査の時に渡されたボール紙の整理券を回収される。これで出国手続きはすべて終り。

日本の船員に迎えられて乗船する。車両甲板から狭い階段を2階に登ると船室になっている。ここでフェリーの係員に乗船券を渡す。 
フェリーは『アインス宗谷』といい、東日本海フェリーが運航している。

船室のきれいなこと!売店もある!自動販売機もある! 

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 サハリンとは別世界のような船内。

1週間サハリンを旅して来た身には何もかも清潔すぎて別世界に見える。
ここではすべてが日本語だ。 “水を得た魚”ならぬ日本語を得た日本人となり、急に元気になる。 

我々日本人には船首に近い区画があてがわれた。中の方はロシア人の団体が占めていてにぎやかである。聞くところによると、日ロの文化交流の公演だかの一行なのだそうだ。

そろそろ出港となる時刻だ。出港風景を見るために甲板に出る。外はまだ小雨が降っている。何気に海面をのぞくと馬鹿でかいクラゲがたくさん泳いでいた。 

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 市内と桟橋を結ぶ橋。

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 見送り人と警備隊が立つ岸壁。

10:00、稚内に向け出港する。数人に見送られ、船は岸壁を離れる。いろいろあったけど大したトラブルも無く無事に旅行できたなあ。最後部の甲板にたたずんで、去り行くサハリンの島影をしばらく眺めていた。 

今度来るのは何年後になるかわからないが、その日まで「ダズビダーニャ(さようなら)」。

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 コルサコフ港を出港。女性が2人じっと離れゆく港を眺めていた。

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 港がだんだん遠ざかる。

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 船内の売店。国際線らしく免税の酒やタバコも置いている。

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 ケースにコニャックやブランデーが並ぶ。

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 壁に貼ってあった宗谷海峡の海図。

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 東伏見湾や大泊など旧日本名が併記された海図。

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 海図に見どころなどが記されている。

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 サハリン航路名物100円ビール。水の方が高い。

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 2等船室は基本桟敷席。ロシア人客にも概ね好評のようだ。

寒くなったので船室に戻る。自動販売機で“100円ビール”を買って席に戻ると、杉山さんたちがさきイカと缶ビールを十何本も並べて早速やっていた。桟敷にあがると、ビールとさきイカをすすめてくれる。 

同じ区画だった、ユジノからの車内で一緒だったKさんたち、出張でサハリンに来たという留萌市役所の職員お二人、それにファルコンジャパンの社長さんと囲んで、それぞれの体験談などを話しながらビールで宴会となる。

湾口から海峡に出たのか、船はかなり揺れるようになった。元気なのはこの区画でビールを飲んでいる我々くらいで、あとは皆さんグッタリと横になっている。 

12時を過ぎた頃に昼食の弁当と缶コーヒーが配られる。稚内から積み込んだ『パン弁当』なのだが、パック入りのサンドイッチと真空パックに入ったままのオカズは相変わらずだ。
サハリンから戻ってきてこの弁当を食べさせられるとガッカリするのだが、100円ビールのツマミだと思えば悪くはない。 

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 船内弁当。稚内出港時に積み込んだものなのでビールのつまみ程度。

弁当を食べるとゴロンと横になった。まだ先は長い。

1時間ほど眠って、酔い覚ましに風にあたるため甲板に出る。風が強い。
コルサコフを出港時は雨が降っていたが、いつの間にか青空が広がって良い天気になっていた。 

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 クリリオン岬と3つ並んだレーダーサイト。

クリリオン岬(西能登呂岬)の山に白いレーダーサイトが3つ仲良く並んでいる。双眼鏡でのぞくと岬の海岸にはいくつか建物が並んでいる。軍事施設なのだろうか。
山の上に白いレーダーサイトが仲良く並んでいるのを見ると、『またサハリンに来いよ!』と見送られているかのように見える。

反対側には海の上にロウソクの様に建っている灯台が小さく見える。これが二丈岩と呼ばれる岩礁で、濃霧の多いこのあたりは昔は危険地帯として知られており、目印として自動灯火装置が建てられた。1928年にできたというから、日本時代の遺物である。現在はロシア領となっている。 

サハリン時間の腕時計も、日本時間に戻す。
ここからは時計が2時間戻り、14時が12時となる。

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 二丈岩(カーメニ・アパースナスチ島)の灯台。※700mmの望遠で撮影

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 青空の下、はためく日の丸も誇らしげ。

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 北海道・宗谷岬の陸地が見え始める。

到着まであと1時間近く。稚内着は予定より30分ほど遅れると放送がある。すでにサハリンの島影は見えなくなっていて、宗谷岬付近の低い山並みが続いて見えている。 

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 宗谷岬沖から。

やがて丘の上にひろがる南稚内の住宅街が見えてきた。ロシア人客は日本旅行に胸膨らませて、みんなはしゃいでいる様子だった。銀色に輝く全日空ホテルや、丘の上にそびえる百年記念塔が見えると稚内に戻ってきたと実感した。14時近く、稚内港に着岸した。 

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 稚内の街が近づいてくる。

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 稚内港に着岸。ロシア人客は日本への第1歩だ。

しかし、サハリン旅行はこれで終りではなく、まだ日本の入国審査と税関が控えている。
稚内から札幌まで5時間もの列車移動も控えている。

そんなことより、日本に戻ったらまず何を食べようかということで頭が一杯だった。


 ◆ おわりに サハリンを旅して

サハリンへ行くのは3回目だったが、ツアーによらない個人単独では初めての渡航である。
ロシア語しか通じない土地で、ひとり旅行するのは苦労や冷や汗の連続であった。

そんななか旅行中に感じたことは、サハリンは北海道と同じでないかと思った。木々も海岸も湿原も、それに街角の何気ない光景も、あちこちで出会った人たちも。言葉や習慣こそ違うものの、いや、彼らが日本語を話したとすればここは紛れもなく昔にあった北海道である。 

北海道に生まれ育った私にとって、本州の古い町並みや風習のほうが、むしろ外国の風景にみえてしまう。そういう意味で今回の旅行は海外旅行と言うより、私が生まれる前の故郷・・・北海道を旅しているような感覚だった。

機会があればまた1人で旅行したいと思う。最北端のオハへ、間宮海峡越しに大陸をのぞむ西海岸へ。厳しい冬のサハリンも訪れてみたい。いずれは大陸へ、シベリア鉄道へと夢がふくらむ。

そのためにはお金を貯めて、ロシア語をもっと勉強して・・・何よりも暇をどうやって工面するか。

最後に、今回の旅行でお世話になったT社、サハリンのガイドの方々、忙しい中私に休暇をお与えくださった『会社』には深く感謝する次第であります。

おわり



 ◆ 2019年リメイク版あとがき

この旅行記は2004年9月に、ロシアのサハリン州を旅行したときのものです。

私が海外を1人で旅行するのはこれが初の経験、インターネット上で旅行記などをアップするようになったのも同年からでした。
この後、海外1人旅をして旅行記をHPやブログでアップすることになる原点となった旅行でもありました。

リメイク版作成に当たって、社名や個人名は伏字にしました。
また、HP立ち上げから日が浅い頃の文章なので、今読み返すと恥ずかしいような表現は勝手ですが改めさせてもらいました。

あと、当時使用していたデジカメの性能と、併用していたフィルムカメラ撮影の写真からコンビニでスキャンした画像もあり、画質が悪いのはご容赦願います。

  

このリメイク版を作成して、グーグルマップなどで近況のサハリンの様子を見ていると15年の歳月を思わせます。
街中はどこも見違えるようになり、派手な広告看板が目を引きます。

2004年当時は、まだソ連時代の面影を濃く残していたものでした。
残していたというより、ソ連時代の町に型落ちの中古日本車が走り回っているのが当時のサハリンだったような気がします。
どこへ行ってもモノトーンな街並み、それに埃っぽかった記憶が蘇ります。

その後、2006年と2010年に再びサハリンへ行きましたが、年々整備され整ってゆく街並みに驚かされたものでした。


またいつかは再訪したいところではありますが、私自身は他に行きたいところも沢山あって、しばらくは海外旅行の行先候補となることはなさそうです。

最後に、旅行記中に出てくるもので、現在は無くなったものをいくつか挙げてみます。


【東日本海フェリーのサハリン航路】

2008年にハートランドフェリーと社名を改めたが、2015年を以て同航路から撤退。
その後第三セクターの北海道サハリン航路が引き継ぐことになった。

しかし今年度(2019年)の運行は必要な船が確保できないという理由から休止となっている。
次年度以降に復活するかは未定。おそらくこのまま廃止になる可能性が大。

一方でサハリンへの航空路だったサハリン航空は『オーロラ航空』と名を変え、現在は成田空港と新千歳空港からユジノサハリンスクまで定期便を運航している。
運賃は一番安いタイプのもので、成田からも新千歳からも往復52,100円。

フェリーだと、稚内までの移動や交通費が別途かかるほか、稚内での前泊が必要になる。
稚内とサハリンの直接的な往来はほとんどないことを考えれば、すでにフェリーの出る幕ではないのだろう。


【ノグリキのクバンホテル】

グーグルマップにはこのホテルの名前は見当たらず。衛星画像で見るとホテルがあった場所は倒壊した家屋らしきものが見えるだけ。
ググったらロシア語のニュースサイトがヒットした。
2014年6月に発生した火事で全焼とのこと。死傷者はいなかったのは不幸中の幸い。

個人的にはまた泊まってみたい宿だったので残念。


【ノグリキの朽ちた橋】

これも衛星画像では既になくなっていた。
2012年撮影のものは相当危なっかしくなっているが辛うじて確認できる。2016年撮影のではきれいさっぱりなくなっている。
流されたのか撤去されたのかは不明だが、いくらロシアとは言え、あんな橋を放置しておくのは危険だし問題だっただろう。

私がHP上で画像をアップしたからかどうかは知らないが、ノグリキの隠れた名所にはなっていた模様。


【ノグリキ〜オハ間の軽便鉄道】

Wikiによると2006年12月に廃止、翌2007年には線路は撤去とある。
ソ連時代末期には国鉄線をノグリキからオハまで延伸する計画があり、一部は完成したもののソ連崩壊から頓挫したままになっていた。
線路跡は、市街地の一部では道路に取り込まれたほか、あとは原野に還っていったようだ。

〜最後までお読みくださいましてありがとうございました。


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