2004年9月23日
◆ 始発のティモフスク駅
朝6時過ぎ、昨夜のオバサンがドアをノックし起こしに現れた。まだまっくらだ。
7時、だいぶ明るくなってきたところでオバサンが再び現れた。鍵を返して「ダズビダーニャ」(さようなら)と言い、ホテルを後にする。後ろでオバサンが何やら言い出した。ホテルの前は広場になっているのだが、広場を指差して何か言っている。
「バクザール」(駅)の一声でわかった。”駅はここを通って行きなさい”と近道を教えてくれたのだ。
広場を斜めに突っ切って踏み分け道がある。再び礼を言ってオバサンと別れた。
1晩の宿だったホテルアグロリツェイ全景。
ティモフスクはトゥイミ川上流の盆地に開けた町で、林業が主な産業となっている。北緯51度に近い内陸の盆地に位置するこの町は、冬には-50℃まで気温が下がることもあるという。
この日も、まだ9月だというのに吐く息は白く、地面には霜が降りている。
広場を横切っていくと、昨日通った交差点の所に出た。交差点のところには『Тамара』という店があり、駅からホテルまではこれを目印にすればわかりやすそうだ。
まだ誰も歩き出さない道を駅まで歩く。途中にはダーチャ(別荘)らしい一軒家が数軒あるだけ、駅に近づくにつれだんだん人家が途切れてくる。林の向こうに広場が見え、そのまんなかに小さい駅舎がぽつんとあった。
駅の周りは林があるだけで何もない。ホームには木材を満載した貨物列車が停まっている。
ユジノサハリンスク行の列車は見当たらない。
なぜ何もないティモフスクで1泊したかというと、夜行の急行列車だと夜中に通り過ぎてしまう途中の車窓を見たかったのと、昼間の定期列車にも乗って見たかったのが理由である。
ホテルでは散々心細い思いをしただけに、せめて列車だけは正確に運行してほしいのだが。
この頃には、もうなるようになるさという心境だった。
重たい扉を開けて、駅の中に入ると小じんまりした待合室にはすでに数人が列車を待っていた。
どうやら運休や遅れはあっても、列車は運行されるようだ。
ホームに停車中の貨物列車。
小じんまりとしたティモフスクの待合室。
しばらくして、きっぷ売り場が開く。
待合室の人たちが窓口に向かう。ユジノサハリンスクまでの人も何人かいる。この列車だとユジノまで丸1日かかるのだが、夜行列車の切符が買えなかった人たちだろうか。
相変わらずホームは貨物列車が占拠している。列車はいつ入線してくるのかと思っていると、突然放送があり、待合室にいた人が荷物を持ってホームに出て行く。
一緒について行くと、十何両も連結した貨車のはるか先頭に2両だけ客車がついていた。
先頭は機関車、その次に荷物車、座席車、寝台車そして貨車が十何両もズラ〜っと並んでいて、日本ではすでに過去のものになっている客貨混合列車だった。
切符に指定された車両は1号車で、寝台車となっている。昼間の列車なのに寝台車というのはヘンだが、・・・1等4人用コンパートメントとして使用される・・・とガイドブックに書いてあった。
入口で車掌に切符を見せて乗車する。1号車の乗客は私1人だった。
いや、個室が9室あるうち入口側の2室は乗車した時から扉が閉まっていて、中からイビキが聞こえてくる。個室の扉には『ミリッツア』(警察)と張り紙がしてある。
時々制服の警官がいちいち鍵を掛けて出たり入ったりしていたが、一体なんだったのか結局わからなかったが。
◆ 968列車、各駅停車14時間の旅
誰もいないので、車両のあちこちを見てまわっているうちに発車時刻になり、7:55、列車は衝撃もなく静かに動き出す。ユジノサハリンスクまで490キロ、14時間01分の列車の旅となる。ユジノサハリンスク着は21:56。
発車すると車掌がやってきてシーツ代35Рを請求される。寝台は使わないので納得はいかないが渋々と払う。車掌がパッケージされたシーツを持ってきた。寝台車なのだから寝台として使えということか。
パッケージされたシーツ。
客車の車端には給湯器が置いてあり、お湯だけは自由に使える。
昨日ノグリキで買っておいたカップ麺にお湯を入れて部屋に戻る。
『ラプシャー・ドシラック』という韓国製のカップ麺で、サハリンではわりと普通に売っている。ラーメンなのにカップ焼きそばのような平たい容器なのは、フォークとスプーンで食べる人が多いからだと聞いたことがある。ロシアではヌードル入りスープのことを“ラプシャー”と言う。
ラーメンはキムチ味なのか辛口で味はまあまあ。
車内で食べた韓国製カップ麺。
デッキに設置してある給湯器(サマワール)
砂利道の国道と交差する。
国道と交差してトゥイミ川の鉄橋を渡る。パリェーボで下りのbP列車と交換した。
このあたりから登り勾配になってきたようで、列車のスピードが落ちる。北に注ぐトゥイミ水系と南に注ぐポロナイ水系とのサハリン2大河川の分水界越えになる。
線路脇の沼に木立が映る絵になる車窓風景。
ツンドラの平原が広がるトゥイミとポロナイの分水界付近。
サハリンは東西に横断する場合は、険しい峠越えを余儀なくされるが、南北に縦断する場合は、中央低地帯と呼ばれるどこまでもなだらかな低地が続き、どこで峠を越えたのか判別しないほどだ。いつの間にか列車のスピードが上がっている。
トゥイミ川はここでお別れ、ここからはポロナイ川にそって南下する。
ポロナイ川は日本時代は幌内川といって日本と当時のソ連にまたがる国際河川だった。
農業にも牧畜にも向かないのか、人家は全くない。車窓は白樺の林が続き、林が途切れると永久凍土の冷たい大地がどこまでも広がる。
枯れた木立がシルエットのように浮かび、過酷な気候を思わせる。
霧の中、枯れた木立が悲しげに現れる。
廃駅を通過する。地図には『セベルハンダサ』とあった。列車は進むにつれ、だんだん霧が濃くなってきた。
パリェーボを出てから1時間10分延々と走ってようやく人家が見え、オノールに着く。
珍しくコンクリート製のホームがあり、ホームには乗客や見送りの人たちが15人ほどが立っている。
霧のオノール駅。赤い帽子の駅長が発車合図を出す。
オノールではオバチャンが1人、山のような荷物を抱えて乗ってきた。手馴れたように座席の下の荷物入れに荷物をしまい、向かいの座席のベッドメーキングを始めたと思うと、毛布をかぶって寝てしまった。
乗車するなり寝てしまったオバチャン。
いよいよ列車は北緯50度線越えにさしかかる。
サハリンがまだ樺太と呼んでいた時代は、ここが日本とソ連の国境であった。
旧国境を見ようとずっと目を凝らして車窓を見るが、どこまで行っても同じような林ばかり。
時おり小さな川を鉄橋で渡るだけで、どこが国境だったかも分からないまま列車はユジナヤハンダサに着いてしまった。
日本時代は半田いう地名で、日本とソ連の激戦が行われた地でもある。
林と湿原しか見えず、人を寄せ付けないような風景ばかりだったが、このあたりから少しずつ拓けてくる。
頻繁に町や畑が現れるようになった。
停車駅ごとに数人の客が乗って来るようになった。
各駅停車の列車は、地元住人の貴重な足となっているようだ。
日本時代は樺太庁鉄道の終点だったポペジノ(古屯)駅。
スミルヌィフに着く。
ティモフスク以来の町らしいまとまった人家がある。
反対側の線路には、客車列車が停まっている。客車の表示を見ると『ポロナイスク−ポベージノ』とあり、ポロナイスク発着の区間運転列車らしい。
スミルヌィフでは母子連れが2人、赤ちゃんを抱えて乗ってきた。赤ちゃんとそのママ、それにおばあちゃんという家族連れ。
部屋を見てとても困惑した様子だ。
やがて車掌がシーツ代の集金に現れた。2人が車掌に何か言う。
よく分からないが2人の座席はこの部屋の上段の寝台らしい。向かいの席ではオノールのオバチャンが寝ているし、赤ん坊連れで上段で寝ているわけにもいかない、ということのようだ。
母子連れのおばあちゃんの方と車掌とでだんだん激しい言い争いになる。(以下のセリフは推定)
「とにかく切符には座席が記されているのだから、ちゃんと決められたところに座って頂戴!」
「赤ん坊を抱えて梯子を登って上段のベッドで座ってろと言うの!席を替えてくれてもいいじゃないの!」
「そんなこと私に言われても知らないわよ!とにかくあんたたちの席はここ!」
もう1人の車掌もやってきて、2人の車掌とおばあちゃんが猛烈に言い合う。まるでケンカだ。オバチャンも寝て毛布にくるまりながら何やら口を出す。
私はと言うと、窓の景色がきれい・・・とばかりに知らんぷり。
言葉が分からないし、ほかにどうすればいいの?
車掌も一歩も引かず、やがて母子連れのほうが根負けしたらしく、「わかったわ。ここに座ればいいんでしょ・・・」と呆れ顔で言った。車掌も「わかればいいのよ」というふうに去って行った。この寝台に3人腰掛けるとかなり窮屈だ。
私は外の景色を見たいだけなので、親子連れにこの席をゆずろうとすると、「あんたはそこに座っていていいのよ」と言うように押しとどめた。
頻繁に人家も現れるようになった。
駅が頻繁に現れるようになってきて、車内の乗客もだいぶ増えたようだ。
わりと大きな町の駅に停まった。オバチャンが「レオニードヴォ」と言う。
駅舎には『アレーニ』と表示してあった。
すっかり人里まで下りてきたような感じである。
今まではとにかく人を寄せ付けない過酷な気候を思わせる風景だったが、この辺りまで来たら何となく北海道に似ているなと思えるようになった。
ダーチャ地帯を抜け、列車はポロナイスクへと到着する。ここでは45分間停車となる。
ポロナイスク駅は3階建ての立派な駅舎。
広いだけで何もないホーム。
入口に立つ車掌も、乗客と雑談したり手持ち無沙汰のよう。
見事に何もない駅前。
昼時なので、立ち売りでもいないかとホームに降りてみたが何も売っていなかった。
駅舎の中にキオスクがあり、列車の乗客たちで行列ができる。
飲み物とスナック類しかなく、腹の足しになるようなものはカップ麺くらいしかない。
駅は町外れにあるらしく、駅前は列車に乗る人がたまに車で現れるくらいで、とても人口2万5千人の都市の玄関口とは思えないほど見事に閑散としている。
キオスクでマロージナエ(アイスクリーム)を買って、駅舎の階段に腰掛けてかじる。コーンに詰まった霜のたくさん付いたアイスは素朴な味だった。発車時刻まで日向ぼっこをして過ごす。
キオスクで買ったアイス(1口かじった後)
通路に立って外を眺めていると、発車まぎわにリュックを背負った女性が乗ってきた。
服装があまりロシア人っぽくないので「日本の人かい?」と声をかけると日本語で「そうです」と答えが返ってきた。
彼女はKさんといい、名古屋からひとりで来たという。ユジノサハリンスク以来の日本人にようやく再会となった。
21日のフェリーでサハリンに着き、翌日の昼の列車で1人でポロナイスクまでやって来て1泊したと話した。
なかなかやるな。
久々に話す日本語だった。今までの体験談を、通路に立って車窓を眺めながら色々話をする。
◆ オホーツク海岸を南下する
部屋のおばあちゃんが、「立ちっぱなしだと疲れるから、上の寝台に横になったらどうだい」の様なことを言うが、立って外の景色を眺めたいのだと伝える。
列車はオホーツク海沿いを南下する。流れ行く車窓は、笹がないのと平行する国道が砂利道だという以外は、北海道の釧網本線や花咲線の風景と変わりない。
永久凍土帯の北サハリンから戻ってきた身には、なんとなく北海道に帰ってきたような気になってくる。
とはいえ、退屈な海岸線が延々と続き、車窓も何だか飽きてくる。
オホーツク海沿いを南下。砂利道の国道が平行する。
相変わらず列車は変わりばえしない明るいオホーツク海岸沿いを走る。
立ちっぱなしなので足が疲れてきた。部屋に戻り、上段の寝台を指差し横になりたいと言うと、おばあちゃんが上段の寝台をベッドメーキングしてくれた。
「ハローシイ(上等だ)・スパシーバ(ありがとう)」と言って梯子を登り横になった。ユジノサハリンスクへはまだまだ遠い道のりだ。
ボストーチヌイ付近。北海道の続きといった海岸線が続く。
横になりウトウトしてるうちに列車はフズモーリェに着いた。ここでは46分の停車となる。
隣の線路には西海岸のトマリまで行く気動車列車が8両編成が停まっていた。ここで交換するダイヤになっている。
フズモーリェ(白浦)で交換するトマリ行気動車8両編成。
何か売っていないかとホームに降りると、駅前には1軒の商店があり、また駅前広場は青空市場になっていて、ピロシキや山で採ってきた木の実やキノコを並べた露店が並んでいた。
ゆでた花咲ガニと毛ガニを売っていたが、これはさすがに食べきれないので見送る。
並ぶカニはこのあたりで獲れたものなのだろうか。
駅前広場はキノコや木の実などを並べた露天の市場となっていた。
商店で缶ビールを買い、露店のピロシキ屋で『ピャンセ』なるものをKさんの分と4つ買う。
ピャンセは1つ20Рで、中にキャベツとひき肉を詰めて蒸した中華まんじゅうだったが、素朴な味でうまい。
露店で買ったピャンセとビール。
ホームの隅に腰掛けて食べていると、野良犬と野良猫がやってきた。野良犬のほうは物ほしそうにしきりに尻尾をふる。野良猫はムスッとしたまま近寄ってくる。
食べているまんじゅうをちぎって放り投げると犬はジャンプしてキャッチする。なかなか芸達者だ。一方猫は放り投げても落ちたのを渋々拾って食べるだけで無愛想この上ない。何となくこの列車の車掌に似ているなと思う。
1個食べ終わって車内に戻る。
上下列車の乗客たちで、露店の市場はしばし賑わう。
発車時刻になっても発車しないと思ったら、駅舎から出発合図の標識を持った駅員が飛び出してきて発車となった。
フズモーリェを出ると相変わらず列車は穏やかなオホーツク海沿いの砂浜の海岸を南下する。通路で行けども行けども続く砂浜の海岸を眺めているうちに日が暮れてきた。
オホーツク海を見ながら日が暮れる。
ユジノサハリンスクまであと2時間。部屋に戻り、上段寝台にまた横になる。外はすっかり暗闇になった。
◆ とっぷり日は暮れて
オノールのオバチャンはドリンスクの次のソコルで下車していった。スミルヌィフの母子連れもさすがに疲れたようだ。赤ちゃんだけが元気で、ママの携帯をオモチャにしている。
暗闇ばかりだった車窓にも次第に街明かりやヘッドライトが次々と飛び込んで来るようになった。ユジノサハリンスクの街に入ったのだ。
久しぶりに見る都会は光の洪水に見えた。終点を目前にして、列車は手前の貨物駅で15分停車する。再び動き出し、列車はゆっくり、ゆっくりとユジノサハリンスク駅のホームに到着した。
同室だった母子連れたちと「ダズビダーニャ(さようなら)」と言って列車を降りる。わずかな薄明かりのみのホームは、列車から降りた数十人と出迎えの人たちでごった返していた。
★
今日の宿はラーダホテルとなっているが、夜道を歩いて行けば20分以上かかる。
Kさんが今夜泊まるユーラシアホテルでタクシーを呼んでもらうと良いと教えてくれたので、そうすることにした。
とりあえず駅の待合室を抜け、Kさんとユーラシアホテルに一緒に向かう。時刻はすでに22時。今日はすでに列車はないのだが、待合室には人がいて、キオスクまだ営業している店がある。
ユーラシアホテルのフロントでKさんが英語でラーダホテルまでタクシーを呼んでくれるように頼んでくれる。10分ほどしてフロントが「ラーダ」と言って車のナンバーを言った。
表に出るとちょうどそのタクシーがやってきた。Kさんと別れ、運転手に「ラーダ」と伝えて車に乗る。
車は日本車で無線も付いていた。神社通りをまっすぐ進み、5分ほどでラーダホテルに着いた。
「スコーリカ・ストーイト(いくら)」と尋ねる。
「シェッジェシャート(60Рだ)」
60Р払ってタクシーを降りる。
「スパシーバ(どーもー)」と言うと「パジャールスタ(イーエ)」と返ってきた。すでにこの程度の会話ならば出来るようになっていた。
フロントでチェックインをする。部屋番号は最初の日と同じ415号室だった。売店がまだ開いていたので、ビールとウォッカを買って部屋に入る。
早速シャワーを浴びて、冷えたビールで無事戻ってきたことに1人で乾杯する。
初日に1泊しただけの部屋だが、もう自分の家に帰ってきたような気になった。