JR函館本線の銭函・朝里間にかつて張碓という駅があった。
覚えている人のうちのほとんどが海水浴場の最寄駅としてだろう。夏休みの海水浴シーズンには札幌方面から大勢の海水浴客が下車したものだった。臨時に駅員も配置され、切符も売っていた。80年代くらいまでの話である。

ありし日の張碓駅駅名標(2003年9月筆者撮影)
駅周辺には人家など全くなく、他所へ通じる道路すらない孤島のような場所にある駅だった。海水浴シーズン以外に利用者はいないと思われたが、正式な駅として冬でも列車が停車していた。
海水浴シーズン以外は釣り人か物好きな鉄道ファンくらいが利用者であったのだろう、通年の利用者はいないと判断されて、JR化後の1990年には駅から臨時乗降場に格下げされている。この時から海水浴シーズンのみ営業となった。
90年代に入ると快速エアポートが小樽へ乗り入れるなど列車回数が増すことになる。海水浴客が線路付近を歩くと危険と判断されたのか、1997年夏を最後に営業を再開することは無くなった。
その後も列車は1本も停車しないが時刻表には掲載され、駅の運賃表にも掲示されたままという状態が長らく続いていた。駅舎は窓や出入り口が板で塞がれて空き家状態となっていたが、ホームや駅名標はそのまま残されていた。列車で行くことも、道路からも行くことのできないこの駅はいつしか『秘境駅』と呼ばれるようになった。
この不思議な駅は秘境マニアや廃墟マニアの心を牽きつけるものだった。駅への直接の道路は無かったが、国道5号線の張碓トンネル小樽側付近から海岸へ下る道路があり、私有地を抜けると駅に行くことはできた。
そうして訪れるマニアたちが後を絶たず、事故もあったようだ。JRとしても再開させる意図も見込みも全くない駅をいつまでも存続させたくないという事情からか2006年3月をもって正式に廃止となった。同じ年の7月には上記の私有地側から重機を搬入して駅舎とホームの撤去工事が行われた。
今回はそんな秘境駅として知られた張碓駅についていろいろ考察したいと思います。

2016年2月閲覧 電子国土Webより
さてこの張碓駅だが、なかなか謎の多い駅でもあった。
昔はあったのかもしれないが駅周辺に人家は全く無く、しかもこの駅へ通じる道が無いことで、一体何のために造られた駅なのか、どんな人が利用していたのだろうか。
もう一つの疑問は、恵比寿島付近に張碓の町があって線路のある海岸まで通じている道があるのだから、駅もそこに造れば良さそうだが、なぜ町から約2kmも離れたこの場所をえらんだのだろうか。しかも張碓トンネルの手前、崖の一番険しい場所である。
ホームの山側は崖、反対側はすぐに海岸だった(2003年9月筆者撮影)
駅の立地や役割について考察する前に、札幌−小樽間の鉄道の発祥について簡単に見ることにする。
明治2年に開拓使が札幌に置かれると、その外港ともいうべき小樽が海運による本州からの物資の中継地となった。
明治6、7年にかけて札幌と小樽の間には馬車道が延びていたが、張碓付近の海岸は『カムイコタン』(アイヌ語で魔神の住むところ)と呼ばれる、山が海に突き出すようにしてそびえ立つ難所だった。ここだけは絶壁にへばりつくような小道しか無く、小樽から札幌への物資は船積みで石狩へ行き、そこから石狩川、創成川で札幌へ運ぶので大変不便だった。
明治12年になって開拓使は熊碓〜銭函間の道路開削工事を始める。このときの現場監督が小樽市総合博物館に銅像が立つアメリカ人技師、J・U・クロフォードであった。
工事の進捗は早く、同年の12月には道路が開通した。開拓使はさっそく冬はソリ、夏は馬車による運輸営業を始めた。
札幌〜小樽間を結ぶ主要道路に、この開通した道路も翌年には無くなってしまう。もともとこの道路は将来鉄道を建設するときは道路を道床として使う前提としていた。開通翌年にはその前提の通り道路に線路が敷設されることになる。
線路の敷設工事は早く、明治13年11月28日に官営の幌内鉄道として開業する。これは北海道初、全国でも3番目のものである。
北海道鉄道百年史上巻『神威古潭(現在の張碓駅付近)』より。後に張碓トンネルに付け替えられる。
一方、鉄道線路として召し上げられた道路はというと、線路工事が始まってからは馬車の通行が禁止され、かわりに2隻の小蒸気船が往復することになった。
沿線住人の生活道路でもあったため線路脇に人が歩く道は残されていたが、海岸と崖に挟まれた狭い場所に設けられた道は線路と何度も交差するなど危険きわまりなく、汽車はしきりに警笛を鳴らして走ることになった。
銭函郷土史『昭和初〜九年頃系図鰊建網沖場所』より。線路沿いの海岸にニシンの漁家が並んでいたのがわかる。
張碓、銭函海岸はもともと江戸時代からのニシンの豊富な漁場だった。春になると一面ニシンに埋もれるほどの群来が訪れた。ところが鉄道開通の翌年からニシンがさっぱり獲れなくなった。漁民たちはこの不漁の原因を汽車のせいとして鉄道排斥運動を起こす。
ニシンは音響を嫌うとして、それまで春の漁期中は寺の鐘をつくのも禁止した地方もあったほどだが、汽車の影や警笛におびえてニシンが逃げるわ、生活道路が汽車に占拠されるわでは当時の漁民が鉄道反対と考えるのは無理もない話だ。
この運動はだんだんエスカレートして、ついに漁民たちが大挙してムシロ旗を立てて、列車妨害をする動きまで出てきた。これは地元の親方たちの尽力もあってなんとか収まったようだが、明治29年には沿線住民から小樽銭函間の線路移転を求める請願書が貴族院と衆議院議長あてに出されている。
この後もニシンが不漁の時には必ずしも言っていいくらい持ち出されたといい、大正時代まで尾を引いたというこである。

明治29年に提出された小樽銭函間線路変更請願書
北海道初の鉄道として単線で開通し、沿線住人とのいざこざが絶えなかった鉄道であるが、開通から25年たった明治38年10月8日、張碓駅が開業する。
張碓の地名の由来については『北海道駅名の起源』によると次の通りである。
“アイヌ語の「ハル・ウシ」(食料の多い所)の頃がしたもので、この付近は海陸共に漁猟が豊富であったためである。”
この由来については異論もあり、別資料によると「ハレイウシ」・・・引き潮の時にようやく這って通る地形で海岸通行の難所、断崖絶壁の地形を差したとの説もある。
もっともハリウスの地名は江戸時代から存在しており、駅名は付近の地名をとって名付けられたに過ぎない。張碓駅の設けられたカムイコタンの西側はチャラセナイ(アイヌ語で崖から流れ落ちる滝の意)と呼ばれていた。
張碓駅裏にあった滝、駅廃止後も現存する(2003年9月筆者撮影)
明治38年は、当時私鉄であった北海道鉄道の高島(現小樽)駅と小樽(現南小樽)間が開業し、札幌〜函館間が全通した年でもあった。
推測であるが、列車回数の増加から行き違い設備を設ける必要性が生じ、駅として開業したのではなかろうか。
また、明治42年には鉄道の複線化工事が行われており、それに伴いカムイコタンの断崖下を通っていた単線の線路を張碓トンネルを掘削してショートカットする工事も行われている。
明治43年には張碓−銭函間の複線化が完成、翌44年には張碓トンネル完成により朝里−張碓間が複線化となっている。
この張碓トンネル工事の基地としての役割もあったのかもしれない。
当時は鉄道に寄り添った道が札幌・小樽間唯一の道であったために人の通行があったこと、鉄道に沿った海岸にもニシン漁家の集落があったことなどから現在のような無人地帯ではなかった。そのためにそれなりに利用者はいたのだろう。
カムイコタンの難所に近いことから保線基地としての役割もあったのかもしれない。

国土地理院撮影の空中写真(昭和36年撮影)張碓駅付近。
昭和36年国土地理院撮影の空中写真を見ると、銭函〜朝里間でも線路に沿いに建物が並んでいるのが確認できる。国道が山の上に移ってからも漁民が生活しており、また崖下の唯一の交通機関が鉄道ということもあって、張碓駅の利用者も少ないながらも存在した。
また、崖の上を通っている国道5号線へはケモノ道のような小道が通じていて、そこから通ってくる利用者もいたというが定かではない。
数字を見ると、昭和21年1月の1日当たり乗降客数は183人(小樽市史第4巻掲載の数字より計算)となっている。
ところで、線路に召し上げられた札幌−小樽間の道路であるが、日露戦争中の明治38年にロシアの艦砲射撃をさけるべく山側を迂回する『軍事道路』が開削され馬車の通行を供するようになったが、紆余曲折の峠を越え勾配もきついため、いつしか廃道同然となってしまった。相変わらず、線路に沿った海岸沿いの道が利用された。
現在の国道5号線ルートの新道に切り替わったのは昭和9年のことである。同年から鉄道省の省営バス(国鉄バス)が走り始めた。
朝里村管内図(製作年不明とあるが昭和10年頃と思われる)
夏は海水浴客、それ以外の時期は線路沿いに住む漁民が利用するだけの小駅として細々と存続していたと思われた。ところが、どうも張碓駅はもう一つ別な使命があったようだ。
どうやら張碓駅は砕石の積み出し駅でもあったようなのだ。
『朝里叢書第九巻 朝里村史朝里外三村沿革史』によると以下の記述がある。
“小樽郡朝里村大字カムヒコタンニ於ヒテ張碓停車場ヲ建設ス 之レ主トシテ当地方ニ於ケル岩石運搬ノ便宜ニヨリテ設ケタルニ外ナラズ”
どうもカムイコタン付近で産出される砕石運搬のためにこの場所に駅が開設されたらしい。
昭和42年測量の5000分の1国土基本図である。張碓駅西側から海岸に向かって引込線が延びているのがわかるだろうか。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスからの転載なので少々見辛いが、山の上に「採石場」の文字が見える。
これを裏付ける資料もあって、昭和47年発行の『北海道保線のあゆみ』という本に、線路のバラストに使用される砕石の産出地一覧表が載っていて、その中に張碓の名もあった。
それによると張碓の採石場は昭和15年開設、昭和42年10月廃止とある。昭和30年度では年間13,230立方メートルの砕石を産出していたとある。
それを踏まえて改めて昭和36年撮影の空中写真を見てみると、張碓駅西方から引込線があり、貨車らしき車両が停まっているのがわかる。この引込線から砕石を積んだ貨車が線路のバラストとして道内各地に搬出されていったと思われる。
北海道保線のあゆみ『道床バラスト採取地』より
国土地理院撮影の空中写真(昭和36年撮影)張碓駅付近の一部。
上の空中写真を見ると、画像中央付近、引込線の位置には2両の貨車が見える。バラストを積んだトラ(無蓋貨車)だろうか。
引込線の先には採石場の施設か積み込み設備かわからないが大き目の建物が見える。
海側に並んでいるのは漁師の家か番屋と思われる。また、駅本屋の左側にはヘアピンカーブを描いて崖を登る線状の小道が見える。
上記の空中写真に関係施設を書き入れてみる。
【張碓駅付近空中写真の変遷】
以下国土地理院撮影の空中写真の一部を切り抜いたものです。
1961(昭和36)年撮影、まだ採石場や引込線が稼働していたころ。
1976(昭和51)年撮影。
採石場施設は撤去され、番屋が数軒残るがこの頃はすでに無人になっていたと思われる。
海の色が澄んでいる。当時銭函海岸はゴミが散乱して汚く「銭函はゴミバコ」などと呼ばれていた。わざわざ張碓まで海水浴に来る人が多かったのも綺麗な海岸を求めてのことかもしれない。
2008(平成20)年、張碓駅廃止後。
いつの間にか船着場のような突堤が建設されている。すでに崩れかかっているようだが。だれが何の目的で建設したのか。これはこれで謎である。
カムイコタンの絶壁と張碓トンネルのコンクリート窓(2003年9月筆者撮影)
採石場の跡地、後方はカムイコタンの崖(2003年9月筆者撮影)
大正や昭和初期までが最盛期であったニシン漁も次第に下火になる。戦後の一時期はまたニシンの群来があり、戦後の食糧難の折、札幌方面からの買い出し客で張碓駅が賑わったようだ。
ニシンの買い出しで混み合う張碓駅(どうしんウェブ フォト海道)
全国からヤン衆がやって来て賑わった銭函・張碓海岸も、昭和28年頃を境に不漁となっていったようだ。漁師をやめて札幌に行く人も出はじめた。
国道を走っているバス路線も年々便利になり、わざわざ崖を登り下りして駅まで通う人もいなくなり、利用者は皆無に近くなっていたと思われる。
採石場も1967(昭和42)年には廃止されたようだ。貨物列車の発着が無くなると利用客はほとんど無くなったのだろう。試しに手許にある過去の時刻表で張碓駅に停車する列車の本数を見てみることにする。以下、下り列車の停車本数になる。
1967(昭和42)年 27本
1972(昭和47)年 9本
1980(昭和55)年 4本
1990(平成2)年 3本 ※この年の9月から季節営業に
やはり採石場廃止後の本数削減が著しい。この頃には駅周辺はすでに無人となっていたのだろう。
それでも当時は駅である以上は利用者があろうがなかろうが駅員がいて切符を売っていた。これまた当時は列車が発着するたびに出発合図を出さねばならず、そのために駅員を置く必要があったという事情もある。
しかし国鉄合理化の事情もあってか、Wikipediaによると1969(昭和44)年には貨物扱い廃止、1978(昭和53)年には無人駅化されたとのことである。
以降は無人の停留場として営業、海水浴シーズンのみ駅員が派遣される駅となった。
冒頭の通り、1990年には季節営業の臨時乗降場に格下げとなり、1997年の営業を最後に2006年廃止となる。
現在銭函〜朝里間を列車で通過しても、張碓駅跡の存在は注意して見ていないと気付かない。と言うか、そんな存在を知っている人の方が少ないだろう。
いまでも列車は明治期に開通した頃と変わらない風光明媚な海岸沿いを走る。
とかく海側の車窓に目がいきがちであるが、たまには山側の車窓も見てほしい。所どころに廃屋となった漁師の家があるはずである。
それはかつてニシンに沸き立った繁栄の、また混迷の中で鉄道と共存していた時代の遺物でもある。
現在の張碓駅付近の車窓。
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
〜おわり〜
参考文献
札幌駅116年の軌跡(北海道ジェイ・アール・エージェンシー)
北海道鉄道百年史(日本国有鉄道北海道総局)
北海道駅名の起源(日本国有鉄道北海道総局)
北海道保線のあゆみ(北海道保線史編集委員会)
朝里叢書第三巻 札樽交通史(小樽・朝里のまちづくりの会)
朝里叢書第五巻 朝里驛物語前編・後編(小樽・朝里のまちづくりの会)
朝里叢書第九巻 朝里村史朝里外三村沿革史(小樽・朝里のまちづくりの会)
はりうす開校百周年記念誌(小樽市立張碓小学校)
ぜにばこ物語(奥野 実)
銭函郷土史(銭函郷土史研究会)
小樽市張碓のアイヌ語地名についての一考察(福岡イト子)
朝里村管内図
どうしんwebフォト海道
交通公社の時刻表
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いつまでもあり続ける物は無いのだと、また思い知らされた出来事でしたが、こちらを拝読して思い出を振り返る事ができ感謝しています。
ありがとうございました。
通年休止となってから早や22年、正式廃止から16年、ブログ記事から4年となった張碓駅跡。すっかり忘れていた張碓駅を思い出しました。
駅舎じたいも無くなってしばらく経ちますね(淋しいです)
こちらのブログで張碓駅の長年の「謎」が溶けスッキリしました( ´ー`)
ただ、何度か行っているのに父の運転する車で行っていたのか
汽車で行っていたのかが全く記憶になく、いつか実家のアルバムを
整理する時がきたら張碓の写真を探して確認してみようと思います。
お詳しい記事、ありがとうございました!
ありがとうございます。
謎も解ければ何のことはないのですが、町から離れ崖っぷちのあの場所になぜ駅を設けたのか。記事を書いた当時、探偵の謎解きのような気分だったのを思い出します。
2005年、私は大学4年生だったのですが、エアポートライナーの車窓からみえた「張碓駅」の駅名標の、隷書と楷書のあいだのような実直で力強い書体に凄く心惹かれて、翌年に駅舎撤去のニュースを目にして凄く悲しくなった思い出があります(あの駅名標、どこかに保存されていないのでしょうか・・・ないですよね・・・)。
そんな鉄道の歴史に興味をもつようになった大切な思い出の駅の、数々の謎や秘密、すごくどきどきわくわくしながら拝読しました!
PUPUPUKAYAさまのホームページの存在をいままで知れなかったのが悔やまれます。
これから少しずつ読み進めさせていただきます!本当にありがとうございます。
私も勤め人なのでなかなか新しい記事を書けませんが、今まで書き貯めた記事を読んで楽しんで行っていただければと思います。
ところでそういわれてみれば、張碓駅の駅名標はどこへ行ってしまったんでしょうかね。
父が国鉄職員だったので(当時は本人は無料、家族は無料パスが貰えた)銭函、張碓、塩谷、蘭島、有珠には毎年何度も海水浴に行っていました。
小学生のころ、小さく切ったシャケの切り身で岩の間にいるカニを釣って遊んだ思い出が
張碓にはあります。
ところで私にとって張碓は青春の淡い思い出がある特別な場所です。
高校1年のとき、同級生10人ほどで張碓へ海水浴に行くことになりました。
私は岩浜はあまり好きでは無かったので行かないつもりでしたが、密かに恋心を抱いていた
同級生の女の子が参加すると聞いて、あわてて参加しました。
私は水泳が得意だったので、堂々と彼女の手を握って泳ぎ方を教えて最高に幸せでした。
私が定年退職で札幌に戻ってきたときには張碓駅は無くなっていました。
もう一度あの青春の思い出がある張碓の海水浴場を訪れたかった、、、残念です。
母の実家が小樽で、幼い頃は母と毎週札幌から小樽へ電車で通っていました。
幼いながらも、海のすぐ近くを電車が通り、人が誰もいないのに、密かに建物だけが残っている風景が、とても不思議に思えていました。
何十回、何百回電車で通ったと思いますが、結局張碓駅で降りたことはありませんでした。
明治から変わらない張碓の風景、一度は降りてみてみたかったと、この記事を読んで思いました。
1992年頃に私は札幌から小樽の学校に通っていたのですが『確かその時に通過していたはずの...張碓...』。その場ですぐさま検索しました。(運転は主人だったので)
その時にこちらのpupupukayaさんの記事に辿り着き食い入る様に読み納得しました。そして廃駅になっていた事を知り寂しさを覚えました。
1度も降り立った事が無く毎日通過するだけだった駅なのに無くなったと思うと寂しいものですね。
こちらのコメントされた方々の文面を読ませて頂きましたが利用する人が居なくても人々の記憶に思い出として残る大切な駅だった事に気づかせて貰いました。
沢山の資料や情報から調べこちらをまとめてくださったpupupukaya様には本当に感謝です。
ありがとうございました。