廃止される東9丁目踏切とアリオと直結した苗穂駅

私は踏切をこよなく愛するフミキリストの1人で、車でも歩いてでも踏切を渡るとなんとなくワクワクしてしまいます。
特に踏切手前で警報機が鳴りだして先頭で停止した時など、何が来るのか、特急かな普通かな快速かなと一人心が躍って列車が来るのを待つわけです。

だけど踏切ってのは世の中からすると迷惑な存在です。
町は分断されるし事故も起こる。
渋滞も発生するし、通過待ち時間のストレスも半端ない。
できればこんなものは無い方がよろしいということになります。

特に列車本数が多く、遮断回数の多い踏切などは『開かずの踏切』などと呼ばれて問題視され、立体交差化などによって解消されてきました。
それでもまだ多くの開かずの踏切が全国に残っています。

苗穂駅の西側にある東9丁目踏切もその1つ。
列車回数が多くて遮断時間が長いことから交通渋滞が多く発生することや、年に複数回の踏切支障が起こることなどから、国土交通省から『開かずの踏切』の指定を受けている踏切です。

北海道開発局が公開している踏切道安全通行カルテから主なデータを拾うとこうなります。

 踏切長・・・27m
 線路横断本数・・・5本
 自動車交通量・・・2,518台/日
 歩行者等交通量・・・2,001人/日
 鉄道交通量・・・562本/日
 ピーク時遮断時間・・・42分
(令和4年12月)

これを平面交差でやっていたのだから、さあ大変。

通常はこのような踏切は、道路の立体交差化や鉄道の連続高架化によって解消しますが、この東9丁目踏切は前後に立体交差化できるだけのスペースも距離も不足していることから、車は新たに作られる苗穂駅連絡通を迂回することにし、歩行者は苗穂駅移転で開通した苗穂駅自由通路を利用するということで、踏切自体を廃止することになりました。

このたび廃止日が正式に決定し、令和5(2023)年3月23日15時をもって踏切は通行できなくなります。

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 東9丁目踏切廃止のお知らせ。

この3月に苗穂駅自由通路とアリオを結ぶ空中歩廊が開通し、次いでJR線の北側を並行する苗穂駅連絡通が開通したことにより、東9丁目踏切の廃止が決定しました。

不便で危険な踏切が解消されるのは、世間一般的には喜ばしいことです。
ですが、踏切好きとして札幌から魅力的な踏切がまた一つ姿を消すのは寂しいところであります。

東9丁目踏切をなくなる前にもう一度見ておきたい。
もうひとつ、アリオが空中歩廊で苗穂駅と直結したと聞いていたので、駅周辺再開発工事がひと段落した苗穂駅の様子も見に行くことにしました。

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 奥にサッポロビールの煙突が立つ。

この東9丁目踏切の通りは、JR苗穂工場の北側あたりの人が都心と行き来するのに便利な道です。
私もアリオに行くときはもちろんですが、わざわざこの踏切を経由することもしばしば。
地元の利用者からすれば、混雑を助長する迷惑な奴と思われかねませんが、まあ勘弁してください。

で、この通りに差し掛かり、踏切の奥にそびえ立つサッポロビールの煙突を見ると「ああ苗穂だなあ」なんて思ったものですが、この風景も過去のものとなるわけですね。

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 SL型の踏切標識と東9丁目踏切。

ここの菱形の踏切標識がまたいいですね。
SL型の標識がまだ残っています。
近年は非電化路線の踏切でも電車型標識が幅を利かすようになりましたが、ここのはまだまだSLが健在。

踏切の手前に差し掛かると警報機が鳴りだしました。
この踏切の警報機の音がいいですね。

カンカンカンカン・・・

私は踏切のそばに住むってのが密かに憧れていましたね。
夏の日の夜に一杯やっていると、窓の外から「カンカンカンカン・・・」なんて踏切の音が聞こえてくる。
じつに風情があると思うんですが。

え、お前だけ?

それはともかく、踏切のそばに住みたけりゃ、札幌も郊外の方まで行かなきゃならなくなってしまいましたね。

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 千歳線普通列車が通過。

ほどなく左側から733系電車が通過。
こうして待っている間に反対方向の列車を表す矢印が点灯したりするのですが、残念ながら(?)遮断機は上がってしまいました。

なんで私は踏切好きなのかというと、幼いころの鉄道の原風景が踏切だったからでしょう。
私の記憶にある最古の鉄道風景と言えば、琴似駅横の踏切。

今の琴似駅と駅前広場は昔のイトーヨーカドーこと今の5588の裏手にありますが、当時の琴似駅舎は琴似本通りに面した場所にありました。
まだ3歳くらいの幼い私は、両親のもう行こうという言葉を制止していつまでも食い入るように踏切を見ていた記憶があります。

踏切と木造駅舎、猫の額ほどの狭い駅前広場。
長い編成の列車が停車すると、踏切にはみ出して停車していました。
客車のドアは開けっ放しで走行していたし、大らかだった時代。
今では考えられない光景ですね。

その後は発寒中央駅横の踏切ですかね。
中学生にもなって、あちこち行きたいけどまだ自由に行けない頃、自転車に乗ってその踏切からよく眺めていました。
手稲の運転所からの回送列車が多いので、特急や急行列車も多く通りました。
方向幕の『釧路』『網走』『稚内』など、まだ行ったことのない見知らぬ町を思い、自由な旅路を夢見ていたのはこの頃。

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 5本の線路を跨ぐ踏切。

遮断機が上がったので踏切を渡ります。

横断する線路は函館本線と千歳線の複々線4本と苗穂工場・運転所への引き込み線が1本の計5本。
なかなかいい踏切っぷりですね。

これだけの線路を跨ぐ踏切は、ここがなくなるとあとは白石駅横の川下街道踏切だけになってしまいました。
函館駅の北側にも5本跨ぐ踏切がありますけど、あっちは複線が2本で残り3本は側線ですから、格がぜんぜん違います。

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 東9丁目踏切から札幌駅方向を見る。

踏切の良いところは、線路を間近に見ることができること。
幹線の函館本線だけあって、なかなか立派な線路っぷりですな。

上は交流2万ボルトの電気が流れる架線が張られています。
この架線がプラス線で、電車はこの電気でモーターを動かし、下のレールにマイナス線として電気を流しているわけです。
だからレールは第2の架線というわけですね。

だけどレールに足を乗せても感電しないよ、何で?
なんて話もできなくなりますね。

踏切から見る線路もこれが最後ですね。
今後はJRの保線職員くらいしか見ることができなくなる風景です。

ああ、町から線路が遠くなる・・・

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 東9丁目踏切から苗穂駅方向を見る。

今度は反対側の苗穂駅方向。
あと10年もしたら、令和時代の前半までこんな場所に踏切があったなんて話をすれば、信じられないと思われそうです。

昭和〜平成の頃、札幌駅の高架化前の地平線時代にもこんな踏切がたくさんあって、西側から順番に挙げると、西9丁目、西8丁目、西7丁目、西6丁目、西2丁目、東2丁目、東3丁目、東4丁目とこれだけ並んでいたのだから、今からすると信じられませんね。

遮断機が上がっても、またすぐに次の列車が来るので踏切内でのんびり撮影している時間はありません。
さっさと渡り切ってしまいます。

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 先詰まり注意の看板。

今度は踏切の北側から。
長い踏切なので色々な注意を即す看板が設置されています。
先詰まり注意とは、踏切の向こう側で渋滞となっているときに進入してしまうと、踏切内で立ち往生してしまうことがあるため。

実際立往生もよく発生するようで、事故にまで至らないものの踏切支障となることも多いようです。

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 東9丁目踏切の表示。

これは線路側に表示してある『東9丁目踏切』の標識。
下の288K543Mは函館本線の函館起点からのキロ数を表したもので、踏切だけでなく鉄道施設のありとあらゆるものに付与されている、いわば鉄道施設の住所といったものです。

あと、意外と知られていませんが、このキロ数は函館駅ではなく函館桟橋起点のものなんですね。
青函連絡船廃止後は函館桟橋というものは概念上の存在になりましたが、こうして今でも使われているわけです。
一方で営業キロは函館駅起点のものを使用しており、このキロ数とは別建てになっています。

このあたりの話はこちらでどうぞ。

 * 札幌駅のキロポストについて考える1

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 踏切北側に残る踏切小屋。

北側にある小さな小屋は踏切小屋だった建物です。
もうだいぶ前から内側からカーテンが引かれていて使われていないようです。

昔は駅の前後にある踏切はこのような踏切小屋があって職員が詰めていて、踏切の動作を手動で行っていました。
列車が近づくと、警報機を鳴らしてハンドルを回すと滑車とワイヤーで吊られた遮断機がスルスルと下りてくる仕組みになっていました。
車の切れ目を見て下ろすあたりは職人技があったのかも知れませんね。
道路を遮断したら、駅員と同じ制服制帽姿で白い旗を振って列車の運転士に安全を伝えていました。

駅間の踏切は自動化されていましたが、駅の前後は手動式の踏切が残されていたのは、昔は貨物列車の入れ替えなどがありどうしても手動で操作しなければならなかったこと。
貨物が無くなってからも、道路の遮断時間を短くするために、列車の停車中は踏切を開けるなどする必要があるからでしょう。

この職員の正式名は踏切警手と呼び、駅構内の踏切は駅の職員、駅間のものは保線区が担当していたようです。
国鉄からJRとなってもしばらくは残っていました。

踏切小屋と白い旗は、踏切の一種の風物詩でもあった光景ですが、札幌市内の高架化が完成してからはそんな光景もなくなりました。
この踏切小屋は高架化後もしばらくは職員が詰めていたような気がします。
おそらく、苗穂運転所へ出入りする列車があるから手動式が残されていたのかも知れませんね。
とは言っても少なくとも30年以上は昔の話。とっくに無人化されて今は遠隔操作となっていることでしょう。

小屋が残されているのは、臨時に手動で踏切を操作することがあるのかも知れません。

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 線路南側に残る地平線時代の線路跡。

今は5本の線路を跨いでいますが、昔は南側にもう1本線路があって、北ガス専用線としてタンク車が出入りしていました。
いつごろまであったのか調べてみたら2001年の3月までは使用していたようです。
今の北ガスアリーナがあるあたりが北ガスの工場となっていて、昼間タンク車が数量停まっているのをよく見かけたものです。
あの当時は専用線側にも遮断機がもう1本あったような気がしますが、うろ覚えです。

その後は駐車場や空き地となっていましたが、ここに北海道新幹線の車両基地ができることが決定しています。
こんな眺めも最後になりますね。

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 東9丁目踏切とサッポロビールの煙突(2004年6月撮影)。

これは19年前の2004年6月に撮影した画像。
まだアリオの建設が始まる前。
マンションもこの頃は少なく、遮るものが少ない風景でした。

正面に見える煙突はサッポロビール札幌工場のもの。
この工場は2003年に閉鎖して恵庭にある北海道工場に集約することになり、跡地に大型商業施設を建設することが決定していました。

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 東9丁目踏切の北側(2004年6月撮影)

こちらは踏切を渡った北側からサッポロビール方向を撮影したもの。
レンガ造りの煙突とポプラ並木が印象的です。
アリオはまだ姿かたちもなく、古い家屋や畑が残るのんびりとした光景でした。
サッポロビールの工場と線路に挟まれた、発展から取り残されたような一角でしたね。

この翌年にはアリオ札幌が開業、それども長らくは交通の便が良くない所でしたが、2018年に苗穂駅が移転してきて北口ができると利便性が急上昇しました。

この辺も桑園のようにマンションだらけになる日も近いのでしょうか。
駅近でアリオも目の前とあっては、きっとそうなるでしょう。

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 苗穂駅南口駅前広場。

さて今度は発展の中心となる苗穂駅。
2018年に移転新築と新しくなった苗穂駅ですが、駅前の再開発工事はその後も行われていました。
その工事もほぼ完了し、計画図通りの苗穂駅が姿を現しました。

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 線路南側には新幹線車両基地が建設される。

南口の3階窓から札幌駅方向を見ます。
線路の南側に空き地が続いていますが、これは高架化される以前の地平線時代の線路跡。
桑園側は緑地や遊歩道として整備されましたが、苗穂側は長らく空き地や駐車場として放置状態でした。

桑園側は整備されたことが仇となって、こんど建設中の新幹線は地下区間となることを余儀なくされたわけですが、特に使用されなかった苗穂側の遊休地は新幹線用地として遺憾なく活用されることになりました。

創成川を跨ぐ新幹線札幌駅から先も高架橋が建設され、ここ苗穂駅の手前までは新幹線の車両基地が建設されます。
あと2〜3年もすれば姿を現すでしょうか。

そういえばここを札幌市電の延伸用地とすべしと書いていた、怪しげなブロガーがおりましたな (^^;

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 150mもある長い苗穂駅自由通路。

南口から入ってエスカレーターで登ると自由通路に出ます。
南北を結ぶ自由通路は長さ150m。
これは2面4線の苗穂駅と折り返し線、それに苗穂工場への引き込み線と数々の線路を跨ぐため。

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 自由通路から札幌駅方向を見る。正面は手稲山。

自由通路の窓からは行き交う列車が見えますが、架線のトラストビームが邪魔をしているのが少々残念ですね。
正面奥の白い山は手稲山。
札幌市民ならば見れば誰でもわかる山の一つです。

ちなみに、私は家を出るときに、手稲山が雲に隠れていれば雨か雪が降ってくる可能性が高く、綺麗に見えていれば降らないと判断しています。
統計を取っているわけではありませんが、おおむね当たっていると思います。

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 自由通路から苗穂工場を見る。

こちらは苗穂工場側。
車両のオーバーホールをしたり、改造したり、また廃車となった車両を解体する場所でもあります。
今日は珍しい車両はいないようで。
右側に木の陰になっていますが、新幹線用のトレインオントレインもまだあります。

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 苗穂駅入口。

自由通路中央にある苗穂駅入り口は、レンガや縦書きの駅名看板などレトロ調になっています。
旧サッポロビール工場の赤レンガをモチーフとしたものなのでしょう。

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 広い苗穂駅コンコース。

こうして改めて苗穂駅に来てみると、意外と広いコンコースですね。
明るく天井も高くて広々と気持ちよい。
一角にセブンイレブンができたのが良かったです。これがないと広々とした空間を持て余す殺風景なコンコースとなっていたことでしょうね。
21世紀からの駅はこうした将来を想定した思い切った建築が多くなったのは良いことです。

反対に80年代に新築された駅は狭い駅が多いですね。
1988(昭和63)年11月に高架化された桑園駅と琴似駅は、国鉄時代の乗降者数を想定した設計なのか初めて見たときにホームもコンコースも随分狭いと感じたものでした。
その後の利用客の増加に対応するために、桑園駅は新たな改札口を設け、琴似駅はコンコース部分を増築することで対応しています。

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 券売機コーナー上にある『旅』看板のレプリカ。

『ふらんすへ行きたしと思えども』で始まる額入りの詩は、萩原朔太郎の『旅上』の一節。
元は移転前の木造駅舎のホーム側に掲げられていた看板で、これはその縮小版。

2004年当時、旧駅に設置の画像はこちら

設置当時の画像がよほど貴重なのか、リンク先にある画像は某テレビ局で放映の番組で使用されたようです。
(このブログで使用の画像は出典明記による使用ならばご自由にどうぞ)

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 苗穂跨線橋から現在の南口広場方向を見る(2013年10月撮影)。

これは10年前、まだ新・苗穂駅の建設が始まる前の苗穂跨線橋から見た風景。
だだっ広い駐車場となっているのが今の南口広場ですね。
この頃の苗穂といえば交通の便が良くない古びた町という印象でした。

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 中央区と東区を結んでいた苗穂跨線橋(2013年10月撮影)。

吹きさらしの長い通路の跨線橋が南北を結んでいました。
現在ほどではないにせよ、苗穂駅から東区方面を結ぶ数少ない連絡路でしたので歩行者はそれなりにいました。
だけど、ラッカースプレーの落書きがあったり、飲み干しの空き缶が放置してあったり、夜に通ると怖いところだったでしょうね。

古くはレールを組んだトラス橋でした。
いつ頃開通した橋なんでしょうかね。
地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を見ると、1948(昭和23)年撮影のものには存在せず、1961(昭和36)年のものには存在しているので、この間に建設されたことは間違いないようです。

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 苗穂駅北口広場とアリオへ続く空中歩廊。

北口も駅前広場が整備され、再開発の建物も一通り完成したようです。
南口は中央区ですが、北口は東区になります。

中央区側は線路と豊平川に挟まれた古い住宅地で商業施設もちょっと遠い。
それに比べてこちら側はアリオが空中歩廊で直結し、少し離れれば東豊線の環状通東駅や東区役所もあるといった立地。
苗穂駅の利用客も圧倒的に北口の方が多い感じで、苗穂駅の住所は中央区ですが、ほぼ東区の駅と言っても過言ではないですね。
この苗穂駅北口も、東区の新たな玄関口とも言えそうです。

しかしそれにしては駅前広場が寂しい。
タクシー乗り場はあるものの、タクシーは1台もなく。人影もほとんど見かけません。
東豊線の駅へ連絡するバス路線があれば便利でしょうが、一昔前ならばともかく、運転手の確保も難しくなってきた今ではあまり期待できそうにありませんね。

人が少ないのは空中歩廊を使うからということもあるでしょう。
東区側の玄関口として、これからまだ発展株ということなのでしょうか。

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 空中歩廊の終点はアリオ札幌店内入口。

苗穂駅からアリオまで繋がったと聞いてやってきました。
空中歩廊の終点は風船で飾り付けがされ、『祝 空中歩廊開通』の文字も見えます。

苗穂駅直結はアリオ札幌2005年の開業以来の悲願だったとも言えましょう。
それにしては小さい出入口。
そこからアリオに入ると、すぐにどこかの売り場のようでした。
裏口感が半端ないんですけど。

祝日とあってか子供連れの家族客が多い売り場の中。
いくつか折れ曲がって進むと広い場所に出ました。

振り返ると、どうやらトイザらスの店内に空中歩廊の出入り口ができたようです。
通路が分かりにくいので迷ってしまいそう。

テナントの権利関係があるのかわかりませんが、何とも中途半端な感じのするアリオの苗穂駅連絡口でした。
このあたりも改善されてゆくことでしょう。

南口と北口の再開発工事がひと段落した苗穂駅。
これからは民間業者による周辺の発展ということになります。
少々延期が危ぶまれていますが、2030年度を予定している北海道新幹線札幌開業。
その頃には苗穂駅周辺もさらに大きく変わっていることでしょう。

あと20年もすれば今の人たちは、

「今の若い奴は知らないだろうけど、ここに踏切があってな」
「苗穂駅は今の駅よりも東側にあって木造駅舎で」

なんて話をしているんでしょうねえ。

いつまでも変わらない街というのも魅力的ですが、20年経っても30年経っても変わらないまま、道行く人々だけが年老いてゆく街なんてつまらないよ。
年月とともに風景も変わって、道行く人も代替わりして若い人がやってくる。
その方がやはり街としては魅力的だなあ。

そんなことを苗穂駅とその周辺を見ていて思いました。

〜最後までお読みいただきありがとうございました。   

posted by pupupukaya at 23/03/21 | Comment(0) | 北海道の駅鉄

気づけば切符が結構たまってしまった件

別に集めているわけではないんだけど、気が付いたら結構たまってしまったなんて物がありますよね。
私の場合は切符。

中学生時代に硬券の切符を集めだしたのが最初で、高校生頃までは集めてたかなあ。
それ以降は成り行き任せ。

駅で乗り降りしたり通りかかったタイミングに買っていたら、気づけば結構な数になっていました。
国鉄〜JRだけでなく、私鉄や公営、三セクの切符も数多くあります。

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 スタンプアルバムやカードホルダーに保存した切符類。

窓口で買った入場券や乗車券のほか、乗車した列車の指定券など。
乗車に使用した切符は、通常は改札口で渡してしまうので、使用後に手元に残ることはほとんどありません。
改札口で無効印を押してもらえば持ち帰ることができたのですが、そこまでして手元に残す気もしなかったので、今思うと惜しいことをしたと思う切符もあります。

それでも結構たまってくると、過去に実際に窓口で買ったり、乗車した列車のものだったりなので、切符1枚で当時の思い出がよみがえってくるものです。

中には古切符として購入したものや、人から譲り受けたものもありますが、ほとんどは自分の足を運んで手に入れたものです。
特に廃止となった線区や駅、改名した駅、無人駅となった駅などの切符は、貴重なものになりますね。

硬券の収集から始まったコレクションですが、その後は硬券だけでなく常備軟券からマルス券まで様々。
JR北海道の駅では比較的遅くまで硬券の入場券が置いてありましたが、通常で購入した入場券の中では平成28(2016)年4月22日に購入したニセコ駅入場券が最後となっています。

一部の簡易委託駅では軟券と呼ばれる常備券や出札補充券を出している駅もありますが、今ではすっかりマルス券ばかりになってしまいました。
硬券収集から始まった私からすれば味気ないものです。

そんな嫌われ者のマルス券ですが、それなりの年月が流れると思い出がよみがえる1枚の切符となるものです。
今日はそんな過去のマルス券に、過去の思い出を振り返ってみることにしましょうか。

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 北海道新幹線開業前の入場券と乗車券。

北海道新幹線が新函館北斗駅まで開業したのが2016(平成28)年3月のこと。
同時に並行在来線となる江差線、木古内〜五稜郭駅は三セクの道南いさりび鉄道となり、五稜郭駅以外はすべて無人駅となりました。
またそれまで渡島大野だった駅は、新たに新函館北斗と改められました。

上の切符は北海道新幹線開業の前年、平成27(2015)年に、無人駅になったり駅名が変わったりすることを見越して集めたもの。
当時は硬券入場券が道内の駅から急速に姿を消していた頃。
「マルス券じゃつまらんなあ・・」なんて思って買っていましたけど、こうして7年も経って見ると、ああやっぱり買っておいて良かったなと思います。

・・偉いぞオレ。

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 無人駅となった駅の入場券。

これらも平成27(2015)年に買った入場券。
上幌向駅は買った年の秋から、芦別駅と奈井江駅は翌2016年春に無人駅となっています。
うち芦別駅は簡易委託駅になっていて、今でも常備券による切符販売が続けられている模様です。

右下の大沼駅は、今年3月18日ダイヤ改正から無人駅となることが決定しているために、このあいだ近くを通った時に買ったもの。
隣の大沼公園駅が特急停車駅で大沼観光の玄関口となっていますが、こちら大沼駅は普通列車しか停まらず地元客の利用しかない駅。
今まで駅員がいて、みどりの窓口まで営業していたのが不思議な気もします。

過去には砂原経由となる上り優等列車がこちら大沼駅に停車しており、定期列車では上り急行『ニセコ』が1986年に廃止されるまで停車していました。
その後も砂原経由となる臨時上り『北斗』が停車していましたが、90年代前半を最後に普通列車だけの駅となった模様です。

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 2023年3月18日から無人駅となる大沼駅。

大沼駅の駅舎は昭和9年建築の木造駅舎。
JR北海道の有人駅としては珍しく国鉄時代からの原型を留めている駅舎です。
なんだか今から思い出話のようになってきましたけど、3月17日まではみどりの窓口として営業中です。

函館本線と砂原支線、それに藤城線が交差する8の字の真ん中に位置する運転上は重要な駅ですが、ポイントや信号はCTCによる遠隔操作でしょうから、運転扱いの駅員だけ駐在ということもなさそうです。
簡易委託化も、隣の大沼公園駅ならばともかく、こちらは地元客の利用が細々という駅なので無いでしょう。
このままどこにでもある木造駅舎の無人駅となるのでしょうか。

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 留萌駅入場券各種。

これもまだ一応現役の留萌駅入場券。
4枚出てきたので並べてみました。

左上から昭和62(1987)年、平成19(2007)年、平成28(2016)年に買ったもの。ここまでが硬券。
右のは令和4(2022)年に買ったマルス券。
料金は140円→160円→170円→200円と、国鉄末期からJRとなって現在までの入場料金の変遷となっています。

一番上のは茶色く変色してしまっていますが、これは保存状態が悪かったため。
昭和62年は廃止直前の羽幌線に乗りに行ったときに買ったものだから、36年前かあ。この頃はまだ萌の字が草冠に朋(萠ではない)となっていました。

2番目のは、青春18きっぷの余りで留萌線に乗りに行ったときのもの。
3番目のは、留萌駅で買った『留萌本線留萌駅−増毛駅硬券入場券セット』の中の1枚。
右のマルス券は去年暮に乗りに行ったときに買ったもの。

この入場券4枚だけでなく、それ以外にも4〜5回は留萌線に乗ったことがあります。
ずいぶんと留萌線に乗ったことがあるものだなあと思いました。

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 マルス券と総販券、江差駅入場券2種類。

こんどは今はなき江差線江差駅の入場券。
上が平成26(2014)年に最後の江差線、木古内〜江差間に乗りに行ったときのもの。
同区間はこの年の5月12日廃止となっています。
で下はその前年の平成25(2013)年に、やはり廃止が決定していた同区間に乗りに行ったときのもの。

9年前と10年前。ああ、齢をとるはずだなあ・・・
つい最近のような気がするんだけど、江差駅は既になく、記念碑と短い線路だけ残して町営団地へと変貌しています。

それはともかく、同じ駅の入場券ですが、よく見るとデザインが異なっています。
これは入場券のデザインが変更になったのではなく、マルスシステムによる発券と総販システムによる発券との違い。
総販てのはJR北海道独自のシステムで、指定券発行を伴わない自社完結の商品の場合にのみ使用されることがあります。
システムの違いは私ではようわからんので、詳しく知りたい方はググるなどしてください。

で、上はマルス券なので全国共通の印字です。
下の総販券は『総販』の印字が入るほか、デザインや印字の場所、文言までが別になっているところが面白いですね。
窓口でマルス券にするか総販券にするか注文すれば、希望の券を発券することもできたようです。

ただこの総販システムは2019年の運賃改定時に廃止され、今はマルス券1本だけの発券となりました。
そういう意味ではこの江差駅の総販入場券は、二重に今はなき入場券ということになりますね。

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 札幌市営地下鉄の乗継券。

これも今年の3月末をもって無くなる切符。
今までは地下鉄とバスを乗り継ぐ場合、乗継券という割引された1枚の乗車券が発行されていました。
これがICカード乗車券の普及により紙の乗継券は廃止となります。
IC乗車券と定期券の場合は今まで通り乗継料金適用となりますが、4月から現金払いの場合は地下鉄とバスそれぞれの料金が適用となります。

左側はジェイ・アール北海道バスから発券の乗継券。
昔は料金箱の横に乗継券発行機というのが据え付けてあって、料金箱に乗継料金を投入して発行機から受け取っていたものですが、いつの頃からか運転手の手渡しとなりました。
プリペイドカードの『ウィズユーカード』が普及してからは、紙の乗継券発行は激減していたのでしょう。

右は大通駅の券売機で買った地下鉄→バスの乗継券。
着駅の改札口に投入すると回収されずに出てきて、切符はバスの下車時に料金箱に入れる仕組み。

バス発券の乗継券の磁気記録には、入場駅から1区間有効の情報しか入っておらず、日付も乗継指定駅の情報もないため、ほぼフリーで入場できる切符ということになります。
今回廃止となるのは、不正乗車に使われかねないといった事情もあるのかも知れませんね。

ところで紙の乗継券はあと中央バスとじょうてつバスがあるので、それらのも欲しいぞ。
だけど私は普段バスに乗ることがないために、わざわざ乗りに行かなければ手に入らない。

一方で夕鉄バスとばんけいバスはICカード非対応なので、従来通り紙の乗継券による運用継続となります。
ですが、地下鉄→バスの乗継は乗継駅で駅員に申し出て差額を支払うという大変面倒なことになるようです。

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 札幌駅で買った廃止予定駅の乗車券。

上は3月18日に廃止になる日高本線浜田浦からの乗車券。
下は4月1日に廃止となる留萌本線恵比島からの乗車券。

あれっ?
浜田浦駅も恵比島駅も無人駅だけど切符なんて売っていたっけ?

と、お思いでしょうが、これ実は札幌駅の指定席券売機で買ったもの。
この指定席券売機というのが優秀でして、全国のJR線区間の乗車券を買うことができます。
それで買ってみたもの。

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 札幌駅の指定席券売機。

乗り降りしたり現地に赴いた記念として買い求める趣旨からは外れるような気もしますが、どちらも実際に行ったことも乗ったこともある区間だし、たまにはこんなのもいいんじゃないでしょうか。

それに乗車券販売実績として乗車人員にカウントされるでしょうから。
もっとも、今更1人分増えたって何か変わるわけではありませんが。

こうして過去に買った紙の切符を眺めていると、よもやま話が次々と出てきますね。

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 平成10年発行の『ミッドナイト』と『北斗星4号』の切符。

今のデザインのマルス券で一番古いものはと探したら、出てきたのは平成10(1998)年1月4日発行のもの。
札幌駅に自動改札機が導入されたのは、この年の秋ごろと記憶しています。
自動改札機より一足先に新しいデザインのマルス券が登場したことになりますね。

上は快速『ミッドナイト』号の指定券。
当時走っていた札幌〜函館間の夜行快速で、指定席はグリーン車流用の座席車と横になれるカーペットカーの2種類ありました。
青春18きっぷ族御用達の列車でしたね。

席番の指定が無いのは、カーペットカーの指定券だったから。
この列車のカーペットカーは号車だけ指定の定員分だけ発売するもので、車内では実質自由席でした。
貧乏旅行では、300円で横になって移動できるのは有難い列車でしたね。

当時はこの『ミッドナイト』に乗って朝函館に着き、快速『海峡』で青森へ。
そこから奥羽線と羽越線のロングシート普通電車をひたすら乗り継いで行くと村上で夜行快速『ムーンライトえちご』に接続して翌早朝に新宿に着くというもの。

そこから東海道線の普通電車を乗り継げば午後には大阪着。
さらにそこから『ムーンライト九州』に乗り継げば、0泊4日で北海道から九州の地へ到着という壮大な貧乏旅行も可能でした。
こんなのも、すでに昔話ですね。

下は同じ年の暮に買った、北斗星4号の特急券・B寝台券です。
懐かしいですね。
札幌発18:14の列車が4号とある通り、北斗星が1〜6号まであった3往復時代のもの。
翌年夏に『カシオペア』が運行を始めて、北斗星は2往復となります。

この切符は年末年始休みに、北斗星のソロに乗って東京旅行したときのもの。
食堂車のパブタイムに行ってクリームパスタを食べたっけ。
行列するほどではなかったけど混んでいて、無口なオッサンと相席になって、間が悪い時間を過ごしたのも今となっては思い出話。

切符の話に戻しますと、これ以前のマルス券は緑色の地紋の磁気券や、両側に紙送り用の穴が開いたロール紙にドット印字のものが主流でしたが、この頃から青地に帯のある今のデザインのものに統一されたようです。

あれから25年。
列車や旅行の形態は変われども、今のデザインのマルス券はしぶとく生き残っていたことになりますね。
裏の磁気データに各種情報を記録して、自動改札機に通すというシステム。
上画像の横長券は自動改札機非対応ですが、払い戻し等で座席予約を取り消す際は窓口の端末で磁気情報を読み取っていたようです。

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 えきねっとで購入し、指定席券売機で発券した『トクだ値55』。

時代は変わり2020年代。
JR各社は窓口での販売よりも、えきねっと等のインターネットでの予約・決済に移行したがっているようですが、せっかくインターネットで購入しても乗車前に駅で紙の磁気券を発行しなければならないのでは、便利さも半減です。

それにこのシステムは無人駅から乗車する人は利用することができません。
自宅で簡単に予約から決済までできるにもかかわらずです。

特に北海道など、特急停車駅でも無人駅が多いし、有人駅でも営業時間の短縮や定休日を設ける駅も増えました。
インターネットによる切符の販売方法は、早急に改善してもらいたいことの1つです。

JR四国ではスマホアプリによるチケットレス乗車券となる『しこくスマートえきちゃん』の運用が始まっています。
まだ自由席だけの発売で、上記の理由から指定席までは利用できないようですが、こうしたチケットレスへの動きは今後加速してゆくのではないでしょうか。

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 Webアプリ『DohNa!!』で購入したチケットレス乗車券。

えっ?
チケットレスになったら切符が集まらなくなるから悲しいだろうって?

いえ、私のは別に集めているわけではなく、自然と溜まっただけですから。
紙の切符など廃止して、こんなものさっさとチケットレスになった方が便利に決まってます。
これは当ブログで、ことあるごとに主張していること。

よく鉄道の輸送改善と言えば、車両とかダイヤのことばかりが議論となりますが、こうしたソフト面にもう少し目を向けてもいいのではないでしょうか。

こんなところで筆者の主張を始めたらキリがなくなるので、今日はこれで終わります。

〜最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。  

posted by pupupukaya at 23/03/12 | Comment(0) | 北海道の駅鉄

2023年オホーツク海の流氷を見に行く

2月になるとオホーツク沿岸にやってくるのは流氷。
毎年この季節になると、流氷が見たくてうずうずしてくる私です。

前回流氷を見に行ったのは2018年2月でしたから、5年前。
流氷を見るのも随分とご無沙汰ということになります。
これは腰が重くなったこともあるし、新型コロナの行動制限が続いたこともありますが、やっぱり腰が重くなったからなんでしょうか。

コロナの行動制限も去年の春を最後に撤廃され、今年こそは流氷を見に行こうと思っていました。
だけど、流氷って行けば必ず見られるわけではなく、年々接岸する日も少なくなっているようで、流氷の状況をよく調べていかないと空振りに終わってしまいます。

そこは今はいい時代になったもので、流氷の状況や予測がネットで随時見ることができるようになりました。
接岸状況も、テレビ局のライブカメラで知ることができる。

そんなわけで、2月最後の週末。
流氷関係のサイトをチェックしていると、今回は見られるんじゃないかという気がしました。

石北線の特急『オホーツク』は今度のダイヤ改正で183系車両から283系車両に置き換わりグリーン車も無くなってしまいます。
せっかくだから網走まで特急『オホーツク』で行くのもいいかなと思い、えきねっとで検索すると札幌発の『オホーツク』は結構混んでいますね。
みんな考えることは同じか。

やっぱり車で行くしかないようでした。
車で行くとなると、網走まで5時間はかかるので普通に朝出発すると到着は午後になってしまいます。
夕方に向こうを出発すると、札幌に帰ってくるのは夜中。
やはり網走は遠い。
夜中に出発して夜通し運転して早朝に着くという方法もありますが、さすがにそれは大変だ。

網走で1泊すればいいのでしょうが、流氷観光シーズンで、しかも直前で宿を探せば普通のホテルでも1泊2万円以上もするところばかり。

夜行列車があった時代が懐かしいですね。
こんな金曜の夜は夜行『オホーツク』に飛び乗って、明朝網走に着けば流氷原のオホーツク海だったわけです。

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 B寝台車1両を組み込んで発車を待つ『オホーツク9号』(2006年3月筆者撮影)

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 夜行『オホーツク9号』のホーム風景(2006年2月筆者撮影)。

昔は良かった的な話をしても仕方がありません。
ここは2023年の現実世界。
やはり夜通し運転で行くか、向こうで車中泊するしかないのか。
気は進まないけれど、夜行バスはと調べてみたら、こちらはコロナの乗客減からか当面の間運休となっています。

ふと思いついて、北見市内のホテルを探すと前日でも安いホテルが見つかりました。
全国旅行支援の『HOKKAIDO LOVE!割』適用で1泊3520円。
北見から網走までは車で1時間ほどかかりますが、札幌から夜通し運転して行くよりははるかにマシです。

それに2月末まで有効の予約サイトクーポンが1000円分あったので2520円に。
さらに1000円分の『ほっかいどう応援クーポン』が発行されるので実質1520円ということになりました。
宿が確保できれば、夜通し走る必要はありません。
金曜の夜、予約サイトでポチって流氷旅行の準備は完了。

というわけで、2月最後の土曜日の朝、札幌を出発することにします。


 ◆ 2023年2月25日(土)

今日はホテルに着けば寝るだけなので、10時過ぎに出発すればいいわけで。
高速は使わずにずっと下道なので、北見までは5時間以上かかるでしょうが、今日はホテルに着けばいいだけなので気は楽ですね。
長距離運転のときは、これくらいの余裕が欲しいところでもあります。

国道275号線を北上。こちらへ来るのは去年の知床旅行以来かな。
旭川新道を抜けて、愛別ICから旭川紋別自動車道へ。
知床旅行の時は遠軽まで直行したけど、今回は上川ICで降ります。
ここからは国道39号、石北峠経由のルートでになります。

層雲峡で小休止してから、いよいよ石北峠越え。
かつては道央から北見・網走方面へのルートといえばこの国道39号石北峠ルートがメインでしたが、旭川紋別自動車道が年々延伸して遠軽まで開通した現在では国道39号は裏ルートのような印象となってしまいました。

しかし実際走っていると、結構トラックとすれ違います。
高速バスの『ドリーミントオホーツク号』もこちらを経由しています。
これは、道央〜北見市間で見ると、国道39号石北峠ルートの方が距離的には有利なためでしょう。

あと多いのが、JR貨物のコンテナを積んだコンテナトラック。
石北本線には『たまねぎ列車』と名付けられた貨物列車が1往復あるが、あれは北見産の玉ねぎを輸送するために毎年8月から4月まで運行している臨時列車で、通常は北旭川〜北見間は自動車代行ということになっています。

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 国道39号線ですれ違うコンテナトラック(ドラレコのキャプチャより)。

鉄道の『たまねぎ列車』は、かつては3往復あったのが今では1往復にまで減らされています。
この列車も不採算列車としてJR貨物は廃止したがっているようで、過去に廃止が取り沙汰されたこともありました。
地元農協や自治体が存続を求めているので、1往復だけは存続しているのでしょう。

今のところ廃止の話は再浮上していないようですが、JR貨物としても1往復だけ乗り入れでは採算度外視の運用でしょうし、今後も安泰とは言えませんね。

次々とすれ違うコンテナトラックは、時間からして北見駅を13:00に発った26便ということになります。
貨物が多い場合は続行便を仕立てているのでしょう。

どれも3個積み4個積みの大型トレーラー。
層雲峡から石北峠までの間で8台ものコンテナトラックとすれ違いました。
コンテナの数を数えていると30個にもなります。これは鉄道のコンテナ車ならば6両分。

1便当たり8台のトラックと8名の運転手。
これなら1列車に仕立ててもいいのではないかと私のような素人は思うのですが、民間会社のJR貨物としてはこれでもトラック代行輸送の方が採算が合うとのことなのでしょうね。

そんなことを考えながら運転しているが、前は工事用のクレーン車を先頭に3台目を40〜50km/hでトロトロと走る。
追い越し禁止の峠道なのでどうしようもない。
ま、私としては日のあるうちに北見に着けばいいので、別にいいんですけど。

だけど、後ろのトラックが相当イラついているのか時折車間を詰めてきたり・・・。
煽られたところで俺は一体どうすればいいんだ?

そうこうしているうちに長い武華トンネルへ入ります。
突然何を思ったか、後ろのトラックが右ウインカーを点けて4台ごぼう抜きで追い越していった。
コンテナを3個積んだ、間違いなくJR貨物の自動車代行便。

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 国道39号武華トンネル内で追い越すコンテナトラック。

トンネル内は追い越し禁止なのが常識だし、思いもしませんでした。
このトンネルが、入口と出口がカーブしている、見通しが良いとは言えないトンネル。
よくやるなあ。

個人的には後ろから煽るような真似されるよりも先に行ってくれた方がありがたいんですけどね。
運転手だって到着時間に遅れると罰金だろうし、やむを得ない判断で追い越して行ったんだろう。

とはいえ、

鉄道貨物を自動車代行便に置き換えた結果がこれじゃねえ・・

物流というものがドライバーの長時間労働と危険行為で成り立っているのだとしたら・・・
わたしたちの便利で快適な生活は、砂上の楼閣の上に存在することになります。

とは言え、すでに自動車代行に置き換わって久しい石北本線で、貨物列車に再びシフトと言っても難しい話ではあります。

今現在ある貨物列車の去就問題は、北海道新幹線札幌延伸開業後の本州〜北海道間の貨物列車に移っています。
新幹線開業後の並行在来線問題は、旅客列車しか運行していない長万部〜小樽間の廃止は決定しています。

残る新函館北斗〜長万部間の在来線も、旅客輸送は廃止という流れになっていて、フェーズは既に、この区間の鉄道貨物輸送をどうするかということに移っています。

もしこの区間の鉄道貨物を廃止にしたらどうなるのか、この石北峠越え国道39号線にその答えを見た思いがしました。

話を元に戻しますが、さっきのトラックは何であんなところで追い越して行ったんでしょうかね。
このトンネルを抜けて少し行ったところから登坂車線があって、前を走るクレーン車はそこで追い抜くことができました。
それを知らないほど未熟なプロドライバーが、無茶な追い越しをしたのでしょうか?

  ★  ★

石北峠を越えると下り坂と急カーブの連続、しかも圧雪路面。
峠道を下った頃には、ハンドルを握る手が汗でびっしょりになりました。

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 峠道を過ぎてようやく平地らしくなった。

16時30分、北見市内へ。
国道沿いはイトーヨーカドーを筆頭にロードサイド店がひしめいて看板だけは賑やかです。
北見駅前の寂れっぷりと反比例するように、こうした幹線道路沿いが発展するのはどこの町も同じ。

ホテルに行く前に、途中でスーパーに寄って夕食など買い物をしました。

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 旅先での1晩の安宿もまた楽しからずや。

一晩の宿はボロホテル・・・と言えば悪いけど、流氷を見るための投宿ですから。
1泊実質千五百円と思えば腹も立たん。

フロントのおかみさんが、人の好さそうだったのが救いでした。
しかし禁煙ではないこのホテル。
部屋に染み付いたヤニの臭いには参りましたね。

明日は早いので酒を飲んで早く寝ることにします。


 ◆ 2月26日(日)

おはようございます。
北見市内の安宿から。

天気は晴れ、気温マイナス16℃。
しばれたねえ。
北見の人に言わせりゃ、こんなのしばれたうちには入らないのかも知れませんが・・・。

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 北見の朝の気温。

今日は朝食も抜きで、6時半にはチェックアウトします。
さっさと網走に向かうべと駐車場へ行くと、車のガラスは霜で真っ白になっていました。

霜はがっちり固まっていて、ワイパーを動かしたくらいじゃ取れない。
霜が溶けるまで暖機運転。
しばらく足止めです。

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 氷点下16度、ドアガラスに付いた氷の結晶。

ようやく霜が解けた6時40分、北見を出発。
もう日が昇っていて春の日差しも感じますが、こちらではまだ1か月は冬だよ。

日曜の早朝とあって車は少ないが、やたらと赤信号に引っかかるのがもどかしい。
それでも北見市内を抜けて、国道39号から道道網走端野線へと入ります。
国道を直進すると美幌・女満別と迂回するので、網走へはこちらが近道。

しかし皆さん飛ばすねえ。
前の車に付いていくと、とてもここでは書けないほどのスピードに。
北見を出発して50分で網走の道の駅に着きました。

流氷はというと、網走には来ていないようですね。
道の駅から南東に車を走らせます。
国道391号から見えるオホーツク海は海面が見えている。
北浜まで行けば・・・と思っていたが、ここも駄目でした。

斜里まで行けばどうだろう・・・さらに南東へ向かう。

ところで、流氷を探すのに何で南へ向かうのとお思いの方がいらっしゃるかも知れません。
ここで流氷について少し。

流氷はオホーツク海の北から流れて来るものですが、北の方へ行けば見られるというものでもありません。
なぜなら、それは宗谷海峡の存在。
日本海側には温かい対馬海流が流れていて、稚内あたりまで北上してくるわけです。
その対馬海流が宗谷海峡を通ってオホーツク海に流れ込むので、北の方へはあまり流氷が接岸しないわけです。

一方で、樺太の北の方から流れて来る流氷は、オホーツク海を南下して網走や知床半島あたりに押し寄せるわけです。
下の図は第一管区海上保安本部の海氷情報センターが毎日発表している最新の海氷速報の画像に書き加えたものです。

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 最新の海氷速報 | 海氷情報センター(2023/2/25)より筆者作成。

南下する流氷が、知床半島や国後島が防波堤のようにブロックし、太平洋へ流れ出ることもほとんどありません。
だから流氷を見たければ紋別よりも網走、網走よりも斜里や知床の方が、流氷が見られる確率が高いということになります。

というわけで斜里まで来たのですが、橋の上から海を見てもやはりここも海面が見えています。
もう少し東へ向かうことにしました。


 ◆ 以久科原生花園からの流氷

着いたのは以久科(いくしな)原生花園。
ここは初夏になると色とりどりの花が咲く綺麗なところですが、今時期は白い砂丘が続くだけという寂しい場所。

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 北見から1時間半余り、以久科原生花園に到着。 

駐車場に車を止めて、長靴に履き替えます。
砂丘の踏み分け道を越えると、浜に出るはずです。

さあ、どうだ!

おおー、流氷が来ている。
所どころに海面が見えているが、浜にはびっしりと流氷が押し寄せていました。

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 以久科原生花園の流氷。

凍った波打ち際に学生らしきグループがいてはしゃいでいます。
ちょっとうるさいな。

長靴を履いてきたので、流氷の海岸沿いを歩くことにしました。
新雪が積もっているが、長靴ならば歩いて行けます。
300〜400mくらい歩いたでしょうか。だいぶ静かになりました。

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 青空に映える流氷。

青い空、氷で埋め尽くされた雪原となった海。
波音なくシーンと静まり返った浜。
流氷はこうでなくちゃ。

静寂の中、しばし立ち尽くして流氷の世界を堪能させてもらいます。

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 浜に打ち上げられた流氷。

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 流氷の向こうに連なる知床の山々。

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 流氷の海岸は静寂の世界。

さっきのグループは戻って行ったようですね。
やっと静寂の世界が戻ってきました。

ひとりじっと流氷原を見つめる。
すばらしき流氷の世界。
こんな景色見たら人生観も変わるって。

都会のせこせこした生活なんて、どこか異世界の出来事のよう。
ここにテントでも張って、流氷原を見ながら一杯やったら旨いだろうな。

撮影もいいが、風景が大きすぎてカメラには収まりが悪い。
この風景を心に刻んで持ち帰るしかないようです。

やっぱり流氷を見に来て良かった・・・。
と思っているところへ、「ブーーーーーーーーン」と人工的な音がまとわりつく。

何かと思っていたら、1台のドローン。
まったくどこの野郎だ、無粋なことをしやがって、プンプン!

現在の気温マイナス10℃。
だいぶ冷えてきたので、そろそろ戻ることにする。

駐車場に戻るところに地図にない川があって、水面から湯気が立って気嵐のようになっていました。
流氷もこの近くだけは溶けて海面が現れています。

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 水路の湯気と流氷。

コンクリートの箱から流れ出る水は、どこかカルキ臭い。
なんだろなと地図を見ると、近くに下水処理場があって、そこからの排水のようでした。

この以久科原生花園は流氷スポットとしては穴場のようで、1人、2人と旅人が現れるだけです。
ドローンの主は、何かの調査員とか書いたゼッケンをしていました。町の職員なのでしょうか。

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 流氷には一人旅が似合う。

静かな青空の下の流氷を見ることができて、本当に満足でした。
流氷は一人旅が似合うな。
団体で押しかけて見るもんじゃない。


 ◆ 峰浜の流氷

車に乗り込み、もう少し東の方へ行ってみることにしました。
東の方が氷が厚そうだったから。

どうせならウトロまで行きたいところですが、ここからだと30km以上も離れています。
ちょっと流氷が見えるところまで行き、引き返そうというわけです。

国道334号線の交差点の手前で、大型観光バスがこちらの道に入って来ました。
ええっ?
まさか、以久科原生花園に連れていくつもりじゃ・・・

斜里の町や駅に行くには近道になるけど、途中から道が狭くなるので真っすぐ国道を行った方がいいので、きっとそうなのでしょう。
もう少し遅ければ、あの団体さんと遭遇していたでしょうね。

穴場的なスポットとか知る人ぞ知るような景色とかありますが、最近はそんなところまで入り込む観光バスが増えたようです。
この近くにある『天に続く道』も観光バスの通り道になってしまいました。

だからといって、陸上から流氷を見物できる場所は少ないということもあるのでしょうね。
ひとつ思うことは、どこかに流氷博物館のような施設を作って、流氷を眺められる展望台も建てて、入場料を取ってもいいからちゃんとした展示物を置いて運営すればいいのにと思います。
入場無料だけど、どこも同じような作りで中途半端な施設が林立するより、そのほうが自然環境的にもいいと思うんですけど。

さて、国道334号を東に進み、以久科原生花園から約10km。
峰浜まで来ました。
ここは防波堤があって、浜へ下りていけないのが残念ですが、眼下には水平線の先まで厚く張った流氷原が広がっていました。

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 びっしりと流氷が押し寄せた峰浜の海岸。

隣に川が流れていて、その水の音が響くのは残念ですが、それは自然のものなので仕方がない。
見ていると、地元の漁でしょうか。
銛のようなものを持って流氷の上を歩く人がいます。

氷が割れて海に落ちたら99%死ぬので、観光客は絶対にやってはいけません。

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 流氷の上に新雪が積もった海は白い月面にも見える。

峰浜でびっしりと白く張った流氷を見て、一路網走に引き返すことにします。


 ◆ 北浜駅と『流氷物語号』

途中、北浜駅ではちょうど臨時列車の『流氷物語1号』が停車中でした。
ホームも展望台も人だかり。

この日は今シーズンの運転最終日なのだとか。
そのためか、ホームの展望台はカメラの三脚が林立し、停車中の列車の乗客や観光バスからの人も登るもんだから、展望台の上は人であふれかえっています。

この北浜駅も、すっかり流氷観光スポットとなったようで、2台目の観光バスがまたやってきました。

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 賑わう北浜駅は『流氷物語1号』が停車中。

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 後ろ側は『道北流氷の恵み号』を連結。

列車は人気のようですが、肝心の流氷はというと破片がいくつか浮いているだけ。
あとは水平線近くにうっすらと見えているだけという状態でした。

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 斜里へ向けて北浜駅を発車する『流氷物語2号』。

この列車は10時14分発。
発車時刻が近くなると乗客は車内に戻ってゆきます。
展望台もすいてきたので、上から『流氷物語号』を見送ることに。

2両の列車は「ピーーーーッ」甲高いホイッスルを鳴らして発車していきました。
残ったのは観光バスの客と鉄オタだけ。

反対側には三脚が林立し、さらに脚立を置いてカメラを構えています。
次に狙うは10:40発釧路行き快速『しれとこ摩周号』なのでしょう。

日が差していて光線具合は申し分ないんでしょうが、肝心の流氷がないのは寂しいね。

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 脚立と三脚に占領された北浜駅展望台。

しかしどうでもいいけど、この人たちは脚立が好きですな。
駅のホームではさすがに禁止のところが多くなったけど、ここでは遺憾なく発揮といったところ。

そろそろ降りようと階段に向かうと、また観光バスで着いた人たちが階段をぞろぞろ登ってきました。
やれやれ、忙しい駅ですね。
何度も道を譲って、狭い階段をようやく降りることができました。

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 撮り鉄さんと観光バスからの客で大盛況の北浜駅展望台。

車に戻ると、観光バスが通せんぼして出られない(涙
まあいいや、そのうち出発するだろうと、昨日朝食用に買ってあったパンとおにぎりを取り出して遅い朝食とします。

車の中から見ていると、鉄オタらしいおっさんがホームで警備員にずっと食ってかかっていました。
お前が写ったんだ、どうしてくれるんだみたいな話をしているのでしょうか。
どうもこうも警備員だって仕事ですからね。

通せんぼのバスがいなくなったので、この隙に北浜駅を出発ます。
いつまでも居たら、またここにバスを停められそうなので。


 ◆ 道の駅流氷街道網走

再び網走の道の駅に立ち寄りました。

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 道の駅流氷街道網走は流氷観光の拠点。

別に用はないのだけれど、ほっかいどう応援クーポン千円分を使ってしまいたかったから。
中に入ると、さすがに流氷観光シーズンだなあと、あらためて思うほどの混雑ぶりでした。

流氷観光船おーろら号の改札口も、土産屋のレジも長蛇の列。
だけど、中国語が飛び交っていたコロナ前と違って、いたって平和な(?)日本の光景。

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 大型車駐車場は観光バスで大盛況。

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 観光客を乗せて出航を待つ『おーろら』。

おーろら号が出航すると土産物屋の行列も短くなりました。
この隙に千円分のお土産を買いました。

当初は『流氷物語号』に乗ってみようか、観光船『おーろら』に乗ろうかとも思っていましたが、そこまでの余裕はできませんでした。
でも、浜に押し寄せた流氷を見ることができたし、運が良かったんじゃないかな。


 ◆ 網走から札幌まで

11時過ぎ、もう未練もないので道の駅を出発します。
帰りは端野から国道333号線経由で遠軽へ、そこから旭川紋別自動車道〜道央自動車道という網走から札幌への最短ルート。
愛別ICから札幌ICまで高速料金がかかりますが、ETC休日割引が復活しているので2,640円ならば安いものだ。
それに、明日から仕事なので少しでも早く帰りたい。

帰り道は遠軽までは順調でしたが、旭川紋別道に入ってから吹雪いてきました。
北見峠に向かうにつれて視界も悪くなって、ホワイトアウトに近い状態になってきます。

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 ホワイトアウト状態の旭川紋別自動車道。上川付近。

どうやら吹雪は旭川の方がひどいようで、道央道の旭川鷹栖IC〜深川IC間は通行止めになっていました。
この間は国道12号線を走ることになります。
渋滞しているかと思ったが、意外と流れは良かったのはヤレヤレ。

深川から再び高速へ。
このまま一気に札幌へ、と行きたいところですが、今度は岩見沢〜札幌間がまた通行止め。
岩見沢ICでまた降ろされます。

いつもの国道12号〜275号のルート。
こちらも意外と流れは良く、夕方とあってか札幌からの反対方向が渋滞気味でした。

札幌の自宅に着いたのは17時30分。
休憩込みで、網走からほぼ6時間半かかりました。
それでも無事帰ってこれたから良かった。

  ★   ★

これで2023年の流氷見物はおしまい。
北の見ものといえば流氷に白夜にオーロラ。
このうち白夜とオーロラは、北欧やアラスカの北極圏まで行かなければ見ることはできません。

だけど流氷だけはオホーツク海岸で見ることができる。
他所では北緯60度以北の北極圏でしか見ることができない流氷を、日本では北海道で見ることができる。

世界一低緯度で見ることができる流氷。
北海道の冬の見どころはといえばたくさんありますが、私としてはオホーツク海の流氷をお勧めします。

それも、流氷観光船から見るのではなく、浜に接岸した流氷。
波音が凍り付き、シーンとした白い浜辺に一人立っていると、人の世の悩みなんて小さなことだと思うようになりますから。

大層な結論となったところで、今回は終わりとさせていただきます。

〜最後までお読みいただき、ありがとうございました。  

posted by pupupukaya at 23/03/04 | Comment(0) | 道東の旅行記

2023年3月の廃止を待つ浜田浦駅

ここ数年来、毎年ダイヤ改正の度にどこかしらの駅が廃止となっていますが、道内では今回対象になるのは日高本線の浜田浦駅。
去年(2022年)に住民側から廃止の合意が得られ、今回の廃止が決定しました。

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ファンからは秘境駅とされているようですが、近くにまったく人家がないわけではなく、駅前に集落こそありませんが、駅周辺は農家が点在する場所です。

駅廃止となっても国道235号線沿いにあって路線バスも運行していますから、浜田浦駅廃止後の住民の足はバスということになります。

JR北海道が公表しているデータでは、直近5年間平均の浜田浦駅1日当たり乗車人員は2.4人。
うち1か月当たり定期券発売枚数は、令和3年度で通学定期が1枚。
利用者がゼロに近い道東や道北の駅と違い、こちらは毎日の利用客が僅かながらもあったようです。

しかし、並行する国道に路線バスがあり、駅近くのバス停にも土休日運休含めて浜田浦駅の停車本数と同じ6往復の本数が運行されていることとあっては、JRとしては今後はバスを利用してほしいことでしょう。
1日僅か2〜3人の利用客のために駅を維持するとなると、毎年多額の経費が掛かるわけですから。

今後も乗車人員が僅かの駅で、かつ他の交通機関が存在する駅に関しては、JR北海道は地元に廃止か地元負担による存続かの交渉が続くことと思われます。

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 地味に利用客が多い浜厚真駅(2022年6月撮影)。

一方で隣駅の浜厚真駅は浜田浦駅と大差ない場所にある駅ですが、令和3年度の1か月当たり定期券発売枚数は17.2枚。
JR北海道のデータでは苫小牧方面へのまとまった通学利用が見られます。
実際に浜厚真駅で学生が乗り降りしていますし、朝や夕方は保護者が車で学生を送り迎えする光景も見られます。

バスと鉄道では、通学定期券の値段や、苫小牧までの所要時間の大差ということで、鉄道が選択されているのでしょう。
浜厚真駅は安泰とまではいえませんが、廃止の話があるとしてもまだ先の話でしょう。

それぞれ事情が異なるものの、廃止まで1か月を切った浜田浦駅。
この駅にちょっと訪問する機会がありましたので、廃止前の浜田浦駅を見てきました。

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まずは浜田浦駅の入口です。
雪に残るタイヤの跡と足跡は、廃止を聞きつけて車で訪問した人たちのものでしょう。
かく言う私もその1人ですが。
国道を走る車から見ると、駅というより停留所のような佇まいです。

この浜田浦駅の開業は1959(昭和34)年12月18日。
昭和30年代前半に、日高本線における旅客列車のディーゼル化が完了したことにより一斉に設けられた駅のひとつ。

浜田浦の駅名の由来は、国鉄北海道総局発行の『北海道駅名の起源』によると、田浦の海岸寄りに駅があるからとあります。
本来は田浦駅としたかったのでしょうが、先に神奈川県の横須賀線に田浦駅があったので『浜』を冠したのだと思われます。
こうした場合、通常は国名を冠するのが習わしで、それでいけば『胆振田浦』となったのでしょう。

そうしなかったのは、胆振を冠した駅名が他にないこと、当時あった胆振線の駅と混同するからという理由でしょうか。
隣駅の浜厚真も、厚真から浜厚真に改称した経緯があるので、それに倣って浜田浦としたのかも知れません。

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こちらはホームから。
石を敷き詰めたホームに小さな待合小屋だけの無人駅。
奥に伸びる線路の先が終点の鵡川駅です。

日高本線も鵡川から先が廃止になり、日高に行かない日高本線になってしまいました。
現在の日高本線の営業キロは30.5km。これは『本線』としては日本一短い路線となっています。

ですがこの日本一も3月いっぱいまでで、4月からは留萌本線の石狩沼田〜留萌間が廃止となるために、日本一短い本線の座は留萌本線に移ることになります。

こちらと同じように留萌へ行かない留萌本線の残区間は、深川〜石狩沼田間の14.4km。
ただ留萌本線は、残区間も2026年3月末での廃止が決定事項となっており、その後は日本一短い本線の座は再び戻ってくることになります。

名誉なことなのか不名誉なのかまでは分かりませんが。

DSCN6209.JPG

駅名標と待合小屋を一緒に入れてみたのがこちら。
列車の車窓から見る浜田浦駅はこんな感じでしょうか。
車窓から見る限りは秘境駅っぽい感じがし、いかにも北海道らしい雄大な原野の中の駅という感じです。

ですが実際ホームに立ってみると、国道が前を通っており大型トラックの通行が多く、雄大というよりも殺風景な場所という感じは否めません。
秘境というよりは臨海工業地帯の外れにある駅といったところでしょうか。

駅向かいは土砂置き場となっていて、それが一層殺風景に見えるのかも知れません。

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苫小牧側を見ると、遠くには送電線の鉄塔や工場の煙突が見えます。
それが一層寂しさを漂わせている理由でしょうか。
『秘境』とは相対的なものなのだ、と言われればこの駅は秘境駅でしょうけど。

ホームの反対側に立つ『27』と書かれたキロポストがあります。
ここは苫小牧起点27km000地点で、浜田浦駅の営業キロも苫小牧起点27.0kmとなっています。

時刻表の路線図だけで見ると、浜田浦駅は苫小牧近郊の駅のように感じますが、この距離は首都圏で言うと上野〜大宮間や新橋〜横浜間の距離とほぼ同じ。

やっぱり北海道は広いですな。

DSCN6215.JPG

しかしこのコンクリートブロック造りの小屋がまたいい味を醸し出しています。
壁はブロックを組んでトタンの波板を屋根とした簡単なもの。
周りの殺風景と妙にマッチする風景となります。

DSCN6216.JPG

待合小屋の中を覗いてみると、外見とは反対に小ぎれいになっています。
きっと誰かがきちんと管理しているんでしょう。

ベンチの上には駅ノート。
壁の掲示板には千羽鶴が飾られていました。

DSCN6220.JPG

どこの画伯の作品でしょうか。
縦縞はノートの罫線。駅ノートに描かれていたものを額に入れて飾ったものと思えます。
なかなか粋なことをなさる。これには感心しました。

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駅の待合所なので、一応時刻表と運賃表が掲げられています。
窓は明り取りと列車の到着を確認するために設けられたのでしょうか。

出入口は戸が無いので雪が容赦なく吹き込んでいます。
南国ならばこんな家もありそうですが、北海道では雨や雪を凌げるだけの小屋でしかありませんね。

そんな殺風景な建物ですが、日高本線はこうしたコンクリートブロック造の駅が目立ちます。
逆に言うと、なぜか日高本線の駅はブロック造の駅舎が似合う。

ついでなので、浜田浦以外にもある(あった)日高本線のブロック造の駅舎をご紹介しましょう。
過去に撮影したものなので、撮影年月も記します。

まずは2つ隣の勇払駅の駅舎。

DSCN0094.JPG
 2013年6月撮影、勇払駅。

このコンクリートブロック造の駅舎は、1962(昭和37)年建築。
この年に苫小牧港建設のために、日高本線は線路を山側に大きく迂回する現在の路線に付け替えられ、勇払駅も現在の場所に移転しました。
2階建てなのは、苫小牧工業港の発展により貨物取扱量が増大することを見込んでということでしょうか。

昔は列車の行き違いもできて、急行『えりも』も晩年は停車するようになったほどの駅ですが、今は無人駅。
駅前は寂しい場所ですが、ここは日本製紙の城下町。
それなりの市街地があって、少し離れた道道沿いには商店街もあります。

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 2018年1月撮影、汐見駅。

こちらは汐見駅
鵡川の1つ先の駅にあった駅で、浜田浦駅と同じ日の開業。
2015年1月に起こった災害以来列車は運休し、2021年4月に正式に営業廃止となっています。
この頃は列車の来ない駅になっていましたが、待合室の中は代行バスの待合所として手入れがなされていました。

コンクリートブロック造の駅ですが、こちらは出入口に引き戸がある立派なもの。
仕切りが無く吹きさらしの浜田浦駅と違うのは、利用者数の違いからでしょうか。
奥に家々が見えている通り、少し離れて鵡川漁港の町がありました。

IMG_0675.JPG
 2018年1月撮影、大狩部駅。

大狩部駅もブロック小屋が似合う駅でしたね。
ホームの先に建つ待合小屋と広がる草むら、反対側は太平洋の浪しぶきが護岸を洗うという、絶壁にあるような駅でした。
“おおかりべ”という駅名も、どこか最果てのような響きでした。

周辺の風景や駅名の響きとは反対に、まるっきり秘境というわけではありませんでした。
土手の上を国道が通り、駅と町とは国道下のトンネルで結ばれていて、その先には人里あふれる大狩部の集落がありました。

DSCN8005.JPG
 2018年10月撮影、絵笛駅。

こんどは絵笛駅
先の海岸沿いの駅とは違い、こちらは内陸の駅。
“えふえ”の響きが、どことなくメルヘンチックな駅を連想させます。

同じブロック造でもこちらは化粧ブロックという新し目な建物。
周りは牧場地帯で、馬が放牧されているいかにも日高らしい場所。

この駅は牧場の中にあるような駅でしたね。
場所も町道から牧場の家へ入るような道を入った奥にありました。

代行バスは駅の方へは入らず、国道に代行バス絵笛駅と書いたポールが立っていました。
国道の代行バス絵笛駅とは2km以上も離れており、当然ながらこの頃は待合所としての利用はありませんでした。
しかし中に入ると綺麗にしてあって、駅ノートも置いていたのには驚いたものです。

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話が絵笛駅まで行ってしまいましたが、再び浜田浦駅に戻ります。

今度は駅名標の画像です。
長い間風雪や潮風、それに列車からの鉄粉にさらされて焦げ茶色のまだら模様となっています。
これはこれで味わいがある気がします。
それと、待合小屋を含めてほかに駅名を記したものがないので、この駅名標が浜田浦の駅名を知ることができる唯一のものです。

ところで、この駅をウロウロしていたら、この駅にはある物が無いことに気づきました。
ある物とは、縦長のホーロー製の駅名標。
道内の駅でよく見かける紺地に白抜き文字で、黄色の縁で囲ったやつ。

下の方に赤い文字で『サッポロビール』と書かれていたものですが、この広告部分が白く塗りつぶされるようになってからは、見かけるたびに撮影するようにしています。

JR化後の新しい駅とか、仮乗降場上がりの駅などは最初から無い駅もあるが、浜田浦駅はたしか設置してあったはず。

過去にあった証拠をと思って、手持ちの画像を探したがなかなか見つからない。
そうして見つけたのが下の1枚。
こんなのしか見つからなかった・・・。

DSC03766.JPG
 2006年5月『優駿浪漫』号車内から撮影。

ホームの苫小牧側に立つ電柱に『はまたうら』の駅名標が確かに見える。
上のは相当前の画像ですが、いろいろ画像検索して確認したら、とある時期からこの縦長駅名標は消滅していたようです。

DSCN6213.JPG

上画像の右側に写っている電柱にあったはずなんですがねえ。
どこに消えた縦長の駅名標。

考えられるのは、JR関係者が何らかの事情で撤去したか、どこかの人間がこっそり外して持ち去ったかの2通り。

ま、疑うわけではありませんが、昔からこの手の駅名標の盗難はよく聞きますし、ググれば他駅でも盗難のニュースがこれでもかと出てきます。
この駅名標自体、ドライバー1本で簡単に外せるものでしょうからね。

浜田浦駅の縦長駅名標がどういう経緯で無くなったのか、いろいろググってみましたが結局わかりませんでした。
かわりに見つけたのがこちら。

135723.jpg
 ネット上で見かけた通販サイトのスクショ。

浜田浦の縦長駅名標は、今頃どこかの部屋の飾り物にでもなっているんでしょうか。
それとも、当事者が犯罪ということに気づいてこっそり処分しちゃったのでしょうか。

誰かが失敬した可能性があるというだけで、あくまで筆者の邪推ですので念のため。

真相はわかりませんね。
浜田浦駅の廃止とともに迷宮入りになりそうです。

わたし個人としては、撮影したかったのにとても残念。

  〜最後までお読みいただき、ありがとうございました。  

posted by pupupukaya at 23/02/23 | Comment(0) | 北海道の駅鉄

解体工事が始まった北海道百年記念塔

北海道百年記念塔が解体されることになったことは数々の報道で知っていましたが、いよいよ本格的に解体工事が始まったようです。

私は札幌市の西側の人なので馴染みはそれほどありませんが、札幌市内の高い場所からは見ることができるし、厚別や大麻あたりを通るとそびえ立つ百年記念塔は北海道のシンボルのような存在でしたから、無くなるのは寂しい思いです。

まだ姿かたちあるうちに見ておこうと、札幌駅から森林公園駅へ向かって出発しました。

DSCN5764.JPG
 ホワイトボードと張り紙によるお知らせ。

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 デジタルサイネージによるお知らせ。

札幌駅の西改札口に着くと列車の遅れのお知らせが。
道内低気圧の影響で道北方面の列車は軒並みストップしている模様。
札幌〜旭川間の特急も朝からずっと運休となっていました。
札幌はこんなに晴れているのに。

高速バスは運行していて、エスタ1階のバスターミナルに行ってみると旭川行の乗り場は案の定長蛇の列。
ずっと辿ってゆくと、階段を登り2階のビッグカメラ入口が最後部となっていました。
行列の中には外国人観光客の姿もチラホラ。
とんだ災難といったところですが、鉄道もバスも冬は突然運休になるのが日常茶飯事。
せいぜい余裕を持った行程と、代替交通機関を事前に調べておくくらいしか対策はありません。

大混乱の都市間輸送ですが、普通列車は比較的定刻運転でした。
それでも各方面、1時間当たり1本程度が計画運休となっていました。

  ★  ★  ★

11:53発江別行普通列車に乗って森林公園駅まで乗車します。

こちらは特に遅れもなく、厚別12:04着。4番ホームに入ります。
通常ならばここで特急ライラック15号に抜かれるわけですが、今日は旭川方面の特急が運休のためにカラ退避。
この間に跨線橋から百年記念塔の撮影をしてきました。

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 厚別駅跨線橋から見た百年記念塔。

やっぱり百年記念塔はこのあたりのシンボル的存在だなあ。
あるのが普通だと思っていましたが、あれがなくなるってのはどんなものなのか。

通過列車もなく、江別行普通列車は厚別駅を発車します。

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 厚別〜森林公園間の車窓から見える百年記念塔。

厚別駅を発車すると車窓にも百年記念塔が見え隠れするようになります。
そろそろ札幌市内から出て、旅の気分も盛り上がろうってものです。
JRの車窓から見るのはこれが最後になりますかね。

今回は車で行っても良かったんですけど、車窓から百年記念塔を見たいということもあってJRとしました。
厚別の次は森林公園駅。

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 森林公園駅に到着。

ホームの名所案内には『北海道100年記念塔』の記載も。これも近いうちに消されるのでしょう。
百年記念塔は森林公園駅のホームからも見えます。森林公園駅のシンボルでもありますね。

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 森林公園駅ホームから見た百年記念塔。

森林公園駅の東口から道なりに15分ほど歩くと百年記念塔入口の駐車場に着きます。
車で来てもここからは歩きになります。
解体工事に関わる場所は囲いが設けられて関係者以外立入禁止となっていました。

DSCN5823.JPG
 百年記念塔解体の工事標識。

駐車場からは上り坂の歩道に水路や噴水が並行して百年記念塔まで続いていましたが、今は囲いができて近づけず迂回して反対側へ行く格好になります。

囲いの上からのぞき込むと、数台の重機と解体した鉄屑の山が見えました。
今日は日曜なので作業はお休みですが、平日は重機が忙しく動き、鉄屑を積んだトラックが出入りしているのでしょう。

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 解体工事が始まった百年記念塔。

下は2019年に撮影した百年記念塔。
この年に解体が決定したのを聞いて、当時私は撮影に行ったようです。

DSCN0844.JPG
 在りし日の百年記念塔(2019年9月撮影)。

この百年記念塔は1968(昭和43)年に北海道開道百年を記念した塔として着工、1975(昭和45)年9月に完成。
建設費は5億円で半分は道民の寄付によるものだそうです。

以前は階段から8階展望室へ行けましたが、2015(平成27)年より老朽化により危険となったために入塔禁止となっています。
展望室の大きなガラス窓からは石狩平野や連なる山々を見渡せたことを覚えています。

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 説明書きの張り紙(2019年9月撮影)。

高さは北海道百年記念に合わせたのか100m。
裾から二次放物線を描くように天に伸びるフォルムは、未来の発展を象徴したものになっています。

  ★  ★

1869(明治2)年、この北の島は蝦夷地から北海道と名を改められ、明治新政府は北海道開拓のための開拓使を設置しました。
本格的な北海道の開拓の歴史はここから始まるわけです。

それまでは北海道の産業といえば沿岸の漁業くらいなものでしたが、以降奥地の入植と開拓が進みます。
炭鉱が次々とできて鉄道も開通。開拓はさらに奥地へと発展します。

北海道侵略を狙っていたロシアの南下政策に対抗するために、北海道開拓と近代化は明治政府の急務でした。

一方では、先住民族だったアイヌが追いやられ、同化政策によって文化も奪われたことも忘れてはいけない歴史であります。

第2次世界大戦後は外地からの引揚者の受け入れ地となってさらに開拓が進み、食糧と石炭の一大供給地として日本の復興を支えました。
ここまでの北海道の開拓の歴史は、農業、酪農、漁業、鉱業など1・2次産業の発展の歴史であったといえましょう。

開拓から100年を経てようやく安定した暮らしができるようになった頃、先人の苦労と努力に感謝し、さらなる北海道の発展を願って建てられた百年記念塔。

DSCN5828.JPG
 澄んだ青空に映える頂上。

ところが、この百年記念塔が完成した1970年代からは、北海道の産業は大きな転換点を迎えることになります。
それは北海道にとって試練の始まりでもありました。

石炭から石油へのエネルギー転換政策により炭鉱は次々と閉山。
農業や酪農はこの頃になると生産過剰が問題とされ、減反政策や生産調整も始まります。
200カイリ水域が設定されると、盛んだった北洋漁業も終わりを迎えます。
期待の星だった苫小牧をはじめとする一大工業地帯への開発プロジェクトも、オイルショックにより頓挫しました。

北海道の産業も、1・2次産業から3次産業への転換。
開拓以来ずっと拡大や増産を続けてきた北海道経済は、エネルギー転換政策や国際情勢、国の経済政策に翻弄されてゆくことになります。

農業や酪農は機械化が進み大型化され、中小の炭鉱は閉山して大規模炭鉱への集約など、主要産業はスクラップアンドビルド化が進みます。
国際情勢で漁場を失った北洋漁業基地は沿岸漁業に頼るしかなくなりました。
炭鉱も80年代になると、ほぼ消滅します。
北海道の開拓と経済成長を支えた鉄道も、役割を終えたとして多くの路線が廃止されました。

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 直下から見上げる百年記念塔の雄姿(2019年9月撮影)。

一方で、人々の生活は都市へと移り、特に札幌は異常なまでの発展を見ることになりました。
百年記念塔が完成した1970年、札幌市の人口は100万人を超えます。

その後も2度のオイルショック、冷害と凶作、幾度もの災害、バブル崩壊と地元銀行の破綻、最近ですと新型コロナ禍ですか。

それでも北海道民は頑張りました。

幾度の困難も乗り越えて働いてきた人たちがいて、今の北海道があるわけです。

開拓の開始から100年で北海道は大きな転換期を迎え、それから50余年間北海道を見守ってきた北海道百年記念塔。
次の時代を待てずに、残念ながら解体が始まりました。

100年記念塔解体後には新たなモニュメントが建設されるようです。
新たに建設されるモニュメントはどのようなものになるのかはわかりませんが、北海道の次の100年を見守るにふさわしいものであって欲しいと願うだけです。

DSCN5838.JPG
 南東側から見た百年記念塔。

正面から歩いてぐるっと回って塔の南東側まで来ると、こちら側は鋼板が剥がされて中の鉄骨が見えていました。

解体というと、普通は上から壊してゆくものですが、先に下の方の鋼板の撤去から始まったということは、躯体を残して先に鋼板を全部撤去するのでしょうか。
工事が進むと鉄骨だけが剥き出しになった、骸骨のような格好をさらすことになるようです。

DSCN5842.JPG
 裾部分はすでに鉄骨がむき出しに。

裾野から徐々に角度を増して天に向かい、無限大の高さを目指して1点に向かう二次曲線のフォルムはもう見られません。
これは過去の画像に見るしかないようです。

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 無限大に向かって伸びる二次曲線のフォルム(2019年9月撮影)。

解体工事は始まったばかりだし、札幌市内にあるものなのでこれで見納めということもないでしょうが、完全な姿で見ることができるのはそう長くはないでしょう。

解体は本当に残念ですが、塔の老朽化と危険性は深刻なものとなっており、また構造上の問題もあって存続は難しいとの判断では仕方がありません。

形あるものはいつか壊れるのが定め。
寿命と思うしかないのでしょうか。

DSCN5854.JPG
 百年記念塔近くから南西方向を見る。

そんな解体が始まった百年記念塔は見物人が多いかと思っていたら、人はまばら。
日曜日でせっかくの晴天なのだし、最後なんだから見納めとか、撮影しておくとかあってもいいものだと思いますが、そっちの方がちょっと寂しく思えました。

とは言っても、庭園路は除雪された細い道が1本通るのみ。
足場も悪く、積極的に行きましょうとは言えないところでもありますが。

戻り道を歩いて国道12号線に出ると、ちょうど新札幌行のバスが来ました。
今度はこれに乗って戻ります。

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 厚別東小学校前からバスに乗る。

新札幌駅西側のロータリーだった場所は前に見たときは工事が行われていました。
何か建つのだろうかと思っていましたが、今日行ってみると新しいバスターミナルができていました。
調べたら、北海道ボールパークFビレッジのシャトルバス乗り場になるんだとか。

DSCN5864.JPG
 北海道ボールパークFビレッジのシャトルバス乗り場。

当初の計画では千歳線に新駅ができるはずだったのだが、予算不足なのか新駅の開業は早くても2027年ということになってしまいました。
それまでは北広島駅と新札幌駅の2か所からのシャトルバスが主な交通機関となるようです。

こちらは、3月14日に開催されるオープン戦からボールパークのエスコンフィールドで行われることになっていて、ボールパークのプレオープンとなります。

ここでボールパークの様子も見に行きたいところですが、実は私は間接的ながら仕事で関わっているところなので、日曜日にわざわざ行く気はしません。
ま、そちらはオープンしてからということで・・・

ひっそりと消えゆく北海道百年記念塔。
華々しくオープンするボールパーク。
消えゆくものと生まれくるもの、なんだかそんなことを思いました。

〜最後までお読みくださいましてありがとうございました。  

posted by pupupukaya at 23/01/29 | Comment(0) | 道央の旅行記
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